第9話「産土 漂」
ハロワン第9話「産土 漂」
産土は、この度のオーデ討伐プロジェクト参画を、ある人物に報告しようと、屋敷を訪れていた。
亡き最愛の人の墓標に、産土は当時の記憶に想いを馳せ、ひとり決意を固めていく。
P.S.
普段軽薄で軽口ばかりの死神最強『産土 漂』
彼がなぜ最強になったのか―—なぜ闘うのか―—内に秘めた信念が明らかになる回です。
普段なら絶対に見ることのない、従順で優しく、人間味あふれる産土が見れます。
彼のキャラクターを形成する上で大変重要な回&且つ個人的にも好きな回です。是非ぜひ!
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今回は、残酷な描写はありません。
独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています!
物語の進行に併せて随時更新してまいります。
宜しければご覧くださいませ。
https://ncode.syosetu.com/n9351kp/1/
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【導守名門 “産土家” 本堂正門にて――】
久々の帰省。
全身ハイブランドの服に身を包んだ産土は、黒塗りの大型トランクを無造作に引きずりながら、堂々と屋敷の正門をくぐった。
相変わらずの屋敷のダダ広さに舌打ちが出そうになるのをおさえながら、彼は正門から本堂へと闊歩していた。
彼が自らこの屋敷に戻ってくるなど、滅多にない。
だからこそ、突如現れた彼に、屋敷の使用人たちは揃って目を丸くし、慌てふためいた。
特に女性陣は互いに声を潜めて黄色い悲鳴を抑えつつ、久方ぶりの彼の美貌を眼福と目に焼き付けるように、代わる代わる柱の陰から彼を見守った。
また、門下の導守達やたまたま屋敷を訪れていた白冠なども、驚き、戸惑い、言葉をかけよう近づく者もいたが、産土はそれらを全て無視して目的の場所に一目散に進み続けた。
向けられる好奇の眼差しも、羨望の声も、まるで風の音のように受け流し、ただひたすらに、目的の場所へと足を運ぶ。
目指す先は、屋敷の一角、本堂の奥――歴代産土門下の導守達が静かに祀られている場所――その中のたった一人の墓を、産土は目指していた。
それは産土が唯一憧れを抱いた女性――“神楽坂 志乃”の墓だ。
しかし、その墓の前には、既にひとりの男が立っていた。
義理の父――名門“産土門下”の現総督、そして産土の育ての親でもある男だ。
彼は腕を組み、険しい顔で待ち構えている。
産土はその姿を見た瞬間、心底うんざりした顔をした。
「……何、出待ち?」
低く気怠い声で、いつも通り軽口を叩く。
男は何も言わず、ただ黙って産土を見据える。
その無言を、煩わしいとでも言いたげに、産土はへらりとした笑顔を浮かべ、わざとらしく肩をすくめた。
「ファンサは女のコ限定なんで、帰ってもらっていいすか?」
その挑発に、男は動じることなく静かに告げた。
「……もう時期、お前が来る頃だろうと思っていた」
「はー……暇なの?」
産土は頭をガシガシとかきながら、心底めんどくさそうな声を上げた。
男は答えず、鋭い眼差しのまま切り込む。
「オーデ討伐プロジェクト〈Arc〉への参画を、ようやく呑んだらしいな」
「ハッ、よかったじゃん。これで想い通りでしょ?」
産土は吐き捨てるように言い、無造作にトランクを傾けた。
しかし男は厳しく言葉を返す。
「遅い。プロジェクト参画者のうち、最も承諾が遅かったとは……恥を知れ」
「最後にお出ましなんて、最強らしくて、いいと思うんだけど?」
あくまで軽薄に、産土は肩をすくめた。
「くだらん……どれだけ待ったと思っておる」
「待たせた覚えないけど?」
鼻で笑いながら、産土は言った。
「配当金目当てのじじいらが勝手に期待してただけでしょ」
「……まったく」
育ての父は深く息を吐き、忌々しげに吐き捨てた。
「お前のような男が、産土家の血を引いているとは、信じられん……」
その侮辱すら、産土には届いてまるで届いていないかのように無表情を貫く。
「門下への報告も無し、己の使命にも向き合えていない。その無責任なところ……親にそっくりだな」
痛烈な言葉だったが、産土は顔色ひとつ変えず、ただ面倒そうに溜息をつくだけだった。
「それにしても……」
それをいいことに男はさらに追及する。
「これまであれほど拒み続けていた依頼を、なぜ今になって急に受けた? どういう風の吹き回しだ?」
産土はその問いにも答えず、ただトランクの取っ手を握り直し、全てが心底どうでもいいと言わんばかりに首を鳴らすだけだった。
だが、育ての父は簡単には引き下がらなかった。
「お前が時折、バルバロアに足を運んでいることくらい、知っておる」
底意地悪く育ての彼は続けた。
「好き好んであんな無法地帯に通うなど……まるで誰かの生まれ変わりでも探しているかのようだな」
そう言って父の手が志乃の墓を撫でると同時に、無意識に産土の片眉がピクリと動く。
「やはり――この度、アトランティスにオーデの変体が現れたこと。それが、お前を動かす決め手になったか」
その詮索めいた言葉に面倒くさげに肩をすくめ、産土は吐き捨てるように言った。
「……なんでもいいだろ。大人の事情だよ」
その場をやり過ごそうとする軽い調子とは裏腹に、彼の声にはこれ以上、土足で入り込んでほしくないという微かな棘が滲んでいた。
育ての親は溜め息をつき、諦めたように、それでもなお責める口調を崩さなかった。
「自分の興味が向くもの、好きなものにしか関わろうとしない。それ以外には、冷徹で、無関心だ」
厳しい言葉を、淡々と突きつける。
「強大な力を持ちながら、その価値を理解しようとしない。そのせいで誰一人救えず、愚かな選択を繰り返す――」
産土は無言で男を睨みつけた。しかし、男は気にも留めず、さらに続ける。
「父親は”自由”を求めて散り、今度、その息子は”女”か」
侮蔑と憐れみの滲む言葉に、産土はぷつりと何かが切れたように、苛立った声音で食い気味に言い放った。
「話はもう済んだ? そろそろ二人きりにしてほしいんだけど?」
押し殺した怒りを滲ませたその迫力に、さすがの男も眉をひそめた。
志乃の墓にそっと触れていた手を、渋々引っ込めながら去り際に一言、念を押すようにして言った。
「……せいぜい、受けた依頼はしっかり全うすることだ」
静かに、だが棘を含んだ声で男は告げた。
「これ以上、産土家の顔に泥を塗ってくれるな。以上だ」
去っていく男の背中に、産土はにやりと口の端だけを吊り上げた。
だがその瞳の奥は笑ってなどいない。あるのは、滲み出る怒りと軽蔑、そして心底どうでもいいという飽きれ。
産土は煽るようにわざと甘ったるい声色で言い捨てた。
「……はーい。ぱぱ♡」
一触即発の空気が、二人の間に漂う。
「……誰が貴様の親だ。ふざけた呼び方を控えろ」
育ての父は、そう言い残しその場を後にする。
「……あら、冷たい」
産土はふっと目を細め、乾いた声で呟く。
背後から産土は、男をその場から一刻でも早く追い出すかのように鋭い殺気を送る。
男はそれを肌で感じながら、振り向かず、重い足取りでその場を去った。
やがて、完全に男の姿が見えなくなったのを確認し、産土はようやく大きく息を吐いた。
墓の正面にしゃがみ込み、トランクを傍らに置くと、墓標と目線の高さを合わせる。
どこか肩の力を抜いた産土は、穏やかに微笑んだ。
「――やっと、うるさいのが消えてくれましたね。志乃さん」
その眼差しは、まるで別人のように静かで優しく、さっきまでの冷たく刺々しい雰囲気は、もうどこにもなかった。
墓前に咲く小さな白い花が、春の微風にそっと揺れていた。
「これから、大陸外のオーデを弔いに出かけてきます」
墓石に埋め込まれた志乃の、物言わぬ仮面を見つめる産土。
白冠を意味する白色の仮面が並ぶ中、一枚だけ黒い志乃の仮面は、まるで行き場を無くしたオセロの黒石のように肩身が狭そうだ。
産土は仮面の溝に入った木の葉を優しく払いのけながら続けた。
「……ったく…こんなめんどいことすんの、貴方のためだけですよ」
その目は愛おしげで、それ以上に切なげだった。
「……志乃さん……今、どこにいるんですか」
産土は一人、祈るように目を閉じた。
鼻孔をくすぐる春風の香りが、彼の意識を、遠い記憶の中へ、深く、深く、いざなっていく。
***
【産土Side:約18年前――神楽坂志乃との記憶】
導守の一族には、ある決まりがあった。
その手に、導守の力を有していることを意味する特有の“痣”が現れた者は、すぐに自身の血統系譜の門下に入門し、そこで世俗から切り離される形で生涯を過ごす。
それが、代々続いてきた慣わしだった。
痣の出現は遺伝するとは限らず、予兆もなく、突然変異の様にぽつりと現れる。
その不確実さゆえに、導守の遺伝子は極めて珍しく、時に“希少な血”として売買の対象になることさえある。
だからこそ、屋敷では外界との接触を厳しく制限されていた。
一般の学校など論外。教育は全て屋敷から公的に認可を受けた専属の教師による英才教育。
基本的に任務時以外の外出は禁止で、任務時も素顔を明かさぬように仮面着用が義務で、どこへ行くにも送迎と護衛付き――つまり、常に誰かの監視下だ。
自由も、プライバシーもない牢の中。
それが、“痣あり”として生まれてきてしまった者の――俺たち導守の、クソみたいな宿命だった。
俺の両親は、どうやら相当な変わり者だったらしい。
俺には、生まれつきその痣があったそうだ。
それを見た時、普通の親ならば、即座に門下の屋敷に差し出すはずだった。
だが、俺の両親は違った。
「この子から自由を奪うなんて、あまりに残酷だ」
そう言って、俺を自分たちの手で育てることを決めたらしい。
俺は、ごく普通の家に住み、普通の学校に通った。
両親はもちろん、俺に導守としての訓練も一切受けさせなかった。
他の子どもと変わらない日々の中で、ゲームで遊んだり、友達とケンカしたり、笑ったり、泣いたりしてそれはそれは自由に育った。
唯一、両親と交わした約束は――「指輪だけは、絶対に外すな」ということ。
それだけは何があっても守れと、何度も念を押された。
その指輪で、手の痣を隠していたからだ。
俺はその約束を、子どもなりに真剣に守った。
誰かにバレるのが怖かったというより、両親との約束を破るのが嫌だった。
それが功を奏したのか、特に大きなトラブルもなく、俺は“導守”なんて言葉すら知らずに、のびのびと育っていった。
……だが、それも突然終わった。
俺が十歳のときだった。
ある朝、両親が「少し出かけてくる」と言って家を出た。
それが、俺にとっての最後の家族の記憶になるとは、思いもしなかった。2人とも、交通事故で即死だった。
待てど暮らせど、両親は帰ってこず、戸惑う間もなく、俺は産土門下の屋敷へと引き取られた。
それからは、地獄だった。
何も知らずに外の世界で育ってきた俺にとって、屋敷の空気は――あまりにも息苦しかった。
常に誰かの目があって窮屈で、上下関係が異常に厳しく、先に口をきいただけで睨まれ、礼儀を欠いたと怒鳴られた。
屋敷の中では、俺の両親は“掟を破った愚かな人間”として後ろ指をさされる存在だった。
その息子である俺は、“報告義務を怠った異端児の子”、“訳ありの無縁仏”として、最底辺の扱いを受けた。
毎日、聞いたこともない専門用語が飛び交う、その異質な屋敷の中で、皆が何を信じ、何を恐れているのか、当時の俺には何一つ理解出来なかった。
同じ人間のはずなのに、誰もが異星人に思えた。
俺はただ毎日、どうやったらここから出られるか、そればかり考えていた。
訓練もまともに受けなかった。
誰とも会話をしなかった。
ただ一人、強すぎる西日のせいで誰も寄り付かない本堂西側の縁側で、目を閉じて、両親と過ごした日々を――温かい食卓と、自由な日常を、思い出していた。
そして、そんな地獄の中――俺は、志乃さんと出会った。
あの時のことは、今もよく覚えている。
あの屋敷の中で、初めて誰かと“ちゃんと目が合った”気がした。
ただそれだけのことが、当時の俺には救いだった。
当時、志乃さんは十六歳だった。
導守としてはまだ若い部類に入るけれど、当時の十歳の俺から見たらもう立派な大人に見えていた。
俺が入門したとき、既に彼女はこの屋敷で暮らしていた。
志乃さんは、この屋敷では「神楽坂」の姓で呼ばれていたけれど、その血筋系譜は俺と同じ、産土の系譜に連なるもので、つまり俺と志乃さんは、広い意味では“同じ一族”ということになる。
志乃さんは、最初に見たときから、どこか他の誰とも違っていた。
とにかく、綺麗な人だった。
白く透き通るような肌に、落ち着いた声色。笑うとほんの少し口元がゆるんで、目がやさしく細くなる。
慈悲深くて、あたたかくて、誰に対しても優しくて。
志乃さんの周りは、雨の日も、晴れの日も、何か春のような霞がかったベールを纏っているように見えた。まさに、阿弥陀様ってやつに近い。
屋敷で問題児として扱われ、居場所もなく浮いていた俺にすら、志乃さんは何一つ態度を変えず接してくれた。
むしろ、「うぶちゃん」と、まるで実の弟のように俺を呼んで、可愛がってくれた。
それが、どれほど救いになったか――どんな言葉で表しても、言葉の方が軽くなってしまう。
志乃さんも、俺と似たような境遇だったらしい。
幼い頃に両親を亡くし、それからずっとこの屋敷で育ったという。
きっと、自分と重なるものを感じていたのだろう。
志乃さんはいつも、誰よりも自然な形で俺に寄り添ってくれた。
最初のうちは、正直、俺はその優しさを信じられなかった。
「なんで、そんなに親切にするんだ」
「裏があるんじゃないか」
「何かを期待されてるんじゃないか」
屋敷での日々が、そういう疑念ばかり植え付けてきたからだ。
本音を見せればつけ込まれる。好意は利用される。
そんな“常識”が染みつき始めていた俺にとって、志乃さんの笑顔は、まぶしすぎた。
けれど、日々のやりとりの中で、それが嘘偽りのないものだとわかってきた。
屋敷の食事がどうにも口に合わず、俺が皿に手をつけない日が続いたとき、志乃さんはこっそり、自分で作ったおやつをくれた。
「これね、うぶちゃんの好きそうな味にしてみたんだ」
そう言って差し出された甘い匂いのするそれは、正直、見た目は少し不格好だった。
でも、一口食べたら涙が出た。嬉しかった。
あれよりうまいと思ったものは無い。
またあるときは、退屈で頭に入らない導守の書物を、彼女が読んでくれた。
志乃さんの声は、不思議と心地よくて、内容がすんなり頭に入ってきた。
驚くほど覚えが早かった俺に、志乃さんは感心していた。
俺自身はそれが自分の才能だなんて当時は思えなかった。志乃さんが教えてくれるからだと、本気でそう思っていた。
「うぶちゃんすごい! 才能あるよ! すぐにでも白冠になれちゃうね!」
そう言って、無邪気に笑う志乃さん。
彼女自身はというと、未だ白冠を拝命しておらず、黒い仮面をつけたままだった――
それでも、俺の成長を心から喜んでくれた。妬みなんて、微塵もなかった。
彼女はいつも、ただ純粋に、俺のことを思ってくれていた。
そんな屈託のない、俺からしたらどこか呑気にすら見える彼女の笑顔を見て、俺はつい、つられて笑ってしまう。
「志乃はさ、そのお人好しを直さないと、多分白冠にはなれないよ」
俺がそんなふうに辛辣なことを言っても、志乃さんは「ええ〜、そんなことないもん」と困ったように笑って、でも怒ったりしない。
むしろ、むくれてる様子が少し可愛くて、俺はなんだか気が抜けた。
そんなやりとりが、心地よかった。
志乃さんは、よく言っていた。
「導守のお仕事はね、愛を与えるお仕事なんだよ」
その言葉に、俺はいつも反発していた。
「……知らない奴に愛情なんか、ふりまけるわけないじゃん」
そう言うと、志乃さんはにっこり笑って、こう返してきた。
「でもさ、一人で迷子になっちゃった子に、『一緒にお家に帰ろう』って手を引いてあげるくらいなら、できるでしょ? そういう優しさがあれば、導守は誰でもなれるんだよ」
それを、あまりにも当然のことのように語る彼女が、俺にはとても不思議に見えた。
俺には、どうしてもその“優しさ”が、うまくつかめなかった。
何か見返りがあるから優しくするんじゃないのか?
自分に関係ある人だけ守ればいいんじゃないのか?
そんなふうに考えていた俺にとって、志乃さんの言うことは、ある意味、別世界の話だった。
でも、彼女はいつも、俺にとっては難しくて仕方のないそれを、いとも簡単にやってのけてしまう。
裏表の無い、ただの善意で、誰かのために手を差し伸べる――
まるで、それが“呼吸”であるかのように――ごく自然にできてしまう人だった。
……こんな人、他に見たことがない。
子どもながらに、俺はそう思っていた。
ある日の夕暮れ時、屋敷の縁側に志乃さんがひとり腰掛けていた。夕陽の柔らかな光に照らされながら、ぼんやりと庭を見つめるその横顔は、いつものような明るさを欠いていた。
あまりにも静かで、どこか寂しげなその背中に、放っておけなくて声をかけた。
俺の声に気付くと、彼女は少し慌てたように笑顔を取り繕って振り返った。
「あ、うぶちゃん居たんだ。どしたの?」
俺は小さくため息を吐きながら彼女の横に腰かけた。
「……取り繕っても無駄。志乃が元気ないの、すぐ分かるから」
俺の言葉に驚いたように志乃さんは少し目を見開き、すぐに困ったような笑顔を浮かべた。
「……うぶちゃんは何でもお見通しだなあ」
苦笑しながら、少し目を伏せてからぽつりと打ち明けてくれた。
「……『いつになったら白冠になれるんだ』って、今日、上の人にまた言われちゃった」
そう言って、志乃さんは苦笑いを浮かべたけれど、それは明らかに無理をしてる表情だった。
「このお屋敷の同年代で白冠を拝命できてないの、私だけなんだよ。情けないよね、ほんと」
その声には、自嘲と悔しさが滲んでいた。
俺は、しばらく志乃さんの顔を見つめてから、ぽつりと返す。
「別に。志乃は才能無いのに、よくやってるよ」
「ありがとう……って、こら…!」
頬をふくらませて睨んでくる志乃さんが、なんだか妙に可愛くて、俺はふっと笑ってしまった。
「センスはとことん無いのかもしれないけど、導守が一番持ってなきゃならないもんを、志乃は持ってる気がする」
「え……?」
「わかんないけど、その馬鹿みたいにお人好しなとこ。俺にはないし、俺からすれば志乃以外にそんな人間見たことない」
「えっと……それって……私、褒められてるのかな?」
少し戸惑った様子の志乃さんに、俺はこくりと頷いて、続けた。
「それに、別にいいじゃん、白冠なんてならなくて。屋敷の連中が躍起になって白冠を輩出したがってんのは、どうせ配当金が目当てなだけでしょ? そんな奴らの言うことなんか、志乃が気にする必要ない。志乃はそのままでいい」
そう言った瞬間、志乃さんの表情が一瞬止まったのがわかった。
目を見開いて、何か言いたげに俺を見つめていた。
その意味は当時の俺には分からなかったけど――今振り返れば、あれはきっと、涙をこらえていたんだと思う。
ほんの一瞬、瞳がうるんで見えたのは、多分気のせいなんかじゃなかったんだ。
「不思議だな……うぶちゃんは私よりずっと年下なのに、たまに守られてる感じがする」
そう言って、志乃さんは静かに微笑んだ。あたたかくて、でもどこか寂しそうな微笑みだった。
それから少しして、また別の日のことだった。
俺がひとりで縁側に座って、つまらなそうに足をぶらぶらさせていたら、志乃さんが声をかけてきた。
「うぶちゃん、暇ならキャッチボールしない?」
志乃さんの誘いが嬉しくて、俺はすぐに立ち上がった。
彼女が微笑むだけで、なんだか俺まで楽しくなるようになっていた。
木の球を投げ合って遊ぶなんてことは、屋敷ではめったになかった。
俺は夢中になって、はしゃぎながら球を投げ返した。
でも――そのときだった。
少し強く投げすぎた俺の球を志乃さんが無理に受け止めようとして、バランスを崩した。
「あっ」
小さな悲鳴とともに、彼女の身体が庭に倒れ込む。
慌てて駆け寄ったそのとき、俺より先に、どこからともなく現れた使用人たちが志乃さんを囲んでいた。
「大丈夫ですか!」
「ご無理なさったんじゃ……」
口々に心配の声をかける彼らの視線の先で、俺にはまるで違う反応が向けられていた。
冷たい目。ひそひそと囁かれる声。
「またあの子か……」
「刺客ではあるまいな」
「無礼な子だ」
その言葉が、俺の耳にしっかりと届き、胸の奥がじわりと冷たくなった。
けれど――志乃さんは、そんな中でも俺の方を真っ先に気にしてくれた。
「うぶちゃん、大丈夫? けがしてない?」
擦りむいた自分の足をかばうそぶりも見せず、俺の顔を真剣に覗き込んでくるその瞳に、俺は返事もできなかった。
白冠にはなれなくても、志乃さんの心は、誰よりも優しく綺麗だった。
あの場は、志乃さんの気遣いでなんとか穏便に収まったが、あの日以来、俺の中には、あの異様な雰囲気、使用人たちの態度が、強い違和感とともに刻まれた。
そして、志乃さんが俺を庇えば庇うほど、彼女が不当に扱われるという現実。
この屋敷は――この導守の世界は、どこかおかしい。
俺はその時、その“異常性”をはっきりと感じた。
そして、この日を境に、俺は志乃さんと遊ばなくなった。
明確な理由があったわけではないが、なんとなく、自分が志乃さんと関わることで、彼女に迷惑がかかると思ったのかもしれない。
それが子どもなりの、俺なりの優しさだったのか、それとも――ただ、怖かったのか。
当時どの感情が最も大きかったのかは、もう忘れてしまった。
気づけば、季節が巡り、志乃さんは十八歳になっていた。
俺の部屋を不意に訪ねてきたのは、月明かりが淡く庭を照らしている夜だった。
それが、彼女の結婚式の前夜だったことを、当時の俺はまだ知らなかった。
「ごめんね、うぶちゃん。こんな遅くに」
障子の隙間から漏れる光に浮かび上がったその姿は、どこか儚げで、けれど変わらず俺に微笑みかけてくれた。
「……志乃? どうしたの?」
俺はすぐに気づいて縁側に出ていき、志乃さんの隣に腰かけた。
「なんとなく、うぶちゃんの顔が見たくなっちゃって」
志乃さんは、少し照れたように笑った。
その時の俺は、その言葉を深く受け止めることもなく、ただ嬉しくて、安心した。
少しの沈黙のあと、志乃さんは、全く脈絡のない質問を投げかけてきた。
「ねぇ、うぶちゃん。導守のお仕事って、やっぱり嫌い?」
俺は、少しだけ考えてから、こくりと頷いた。
志乃さんはそれを責めるでも、否定するでもなく、ただ俺の隣で同じように夜空を見上げていた。
夏が近い頃だった。
星がよく見える澄んだ空気の中、虫の声だけが静かに響いていた。
「導守のお仕事は、魂を本来いるべきお宿に還してあげるお仕事でしょ。……だからね、たまに自分のことを考えるんだ。私はどこに還るんだろうって」
志乃さんは夜空の彼方を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「……私、こうして生きてる今もそうだけど…死んだあとも、自分がどこに還ればいいのか分からない気がするの」
その言葉に少し驚いて志乃さんの顔を見ると、彼女はほんの少しだけうつむいていた。長いまつげがかすかに揺れ、月の光に照らされて儚く光っていた。
「私は……みんなから嫌われてるから」
「……志乃が? 何言ってんの、そんなはずないじゃん」
俺の言葉に、志乃さんは優しい微笑みを浮かべながら、静かに首を横に振った。
「自分が皆を愛したら、そのうち誰かはきっと、自分を愛してくれるんじゃないかって……そう思ってた。でもここにいる限り、そうじゃない。それは違うんだって、分かっちゃったの」
声に怒りも憎しみもなかった。ただ、どこまでも静かで、深く、寂しさが滲んでいた。
「もし優秀な跡取りを産めなかったら、私は役立たずって言われて終わり。かといって自分が白冠になって、この門下に貢献できる見込みもない」
そこで、志乃さんは俺のほうに向き直った。
金色の瞳がまっすぐに俺を見ていた。どこか、泣きたいのを堪えているような――そんな光を宿していた。
「うぶちゃんと話してる時が、いっちばん、楽しい」
心臓が、少しだけ跳ねた。
どうしてかはわからなかったけど、志乃さんの言葉が、とても大切なもののように思えて、俺は息を詰めて聞いていた。
「だから……うぶちゃん、ひとつだけ、お願いしてもいい?」
志乃さんが、両手で俺の手をそっと包んだ。
その指がわずかに震えていたことに、当時の俺は気づいていなかった。
「大人になったら、私を、ここから連れ出しにきて」
それがどんなに重い願いだったのか、あの時の俺にはわからなかった。
“ここ”が何を意味するのかも、その言葉の切実さも。
でも今なら分かる。
あの一言が、志乃さんにとっての最後の抗いだったんだ。
「……お願い」
その一言のあとで、志乃さんはふっと笑って、俺の頭に手を伸ばした。
「なんてね」
そう言って、優しく撫でてくれたその手のぬくもりと、志乃さんの微笑みを、俺は忘れられない。
そしてこれが、志乃さんと俺の、最後の会話になった。
***
翌日の昼頃だった。
志乃さんを乗せた車両が、縁談のための移動中に事故に遭った。
即死だった。
俺がそれを知ったのは、少し後のことで、当時のことは人づてに伺い知った。
その時、俺はようやく、志乃さんがあの晩、縁側で語った“お願い”の意味を理解した。
屋敷の人間の大半が、志乃さんの死を惜しむこともなく、「結局、何の役にも立たなかった」と冷たく言い捨てていた。
「跡取りを産む前に死んだ」
「白冠にもなれずに終わった」
「あれは最初から無駄だった」
そんな言葉が、当たり前のように口をついて出る屋敷の空気に、俺は吐き気がした。
それでも俺はまだ、どこかで志乃さんの死を信じきれずにいた。
目の前でその姿を見ていない。
確かに、あの夜に会ったきりだ。
――まだどこかに、生きているんじゃないか。
しかし、そんな子どもじみた希望も、すぐに消え失せた。
ふとした拍子に自分の背中を鏡で見たとき――俺は、全てを悟った。
そこには、それまで一度もなかったはずの、見慣れない文様が刻まれていた。
翼のような、美しくも異様な印――それはまぎれもなく、志乃さんの背にあったものと同じ形だった。
その模様が、今、自分の身に宿っているということ。
それが何を意味するのか、理屈では理解できなくとも、心は真っ先に悟っていた。
あれは、志乃さんから俺に“継がれた”ものだ――
彼女は、もうこの世にはいないのだ。
その日から、俺は変わった。
寝食を忘れて、ただひたすらに鍛錬に明け暮れた。
幼い頃から受けていた英才教育は、より一層厳しさを増したが、それでも構わなかった。
誰に求められたわけでもない。
ただ俺は俺の意思で、あの夜のことを、一生背負いたかった。その思いだけで、俺はどこまでもいけた。
気づけば、俺の才は誰の目にも明らかな形で芽吹いていた。
時間は要らなかった。
任務をこなすごとに頭角を現し、十四歳にして史上最年少で白冠を拝命。
十五歳で産土門下の現役当主になると同時に、“死神”と呼ばれるほどの実力を持つようになり、誰も右に出る者は居なくなった。
金も、名声も、周囲からの称賛も――望む以上に手に入ったけれど、俺は相変わらず一度たりともこの仕事を好きだと思ったことはなかった。
この世界も、この力も、ずっと嫌悪してきた。
それでもやってこれたのは――たったひとつだけ、成し遂げたいことがあるからだ。
志乃さんを――彼女の生まれかわりを――この手で守りたい。
生きていた時も、死んだ後も、報われることのなかった彼女の人生。
もしその魂が再びこの世に生を受けたなら――
今度こそ、陽だまりの中で笑っていられるような、穏やかで暖かな人生を歩めるようにしてあげたい。
あの彼女は、そういう場所にいるべきなんだ。
たとえ全く違う姿をしていても――声も、名前も、記憶も、全て変わっていたとしても――今度こそ、俺が幸せに導いてみせる。
あの夜、叶えてやれなかったあの約束の代わりに――。
今度こそ。
***
産土は、再び、志乃の墓標の前でゆっくりと瞼を開く。
これから始まるオーデ討伐プロジェクト〈Arc〉―—
大変な任務になるであろう。
普通に考えれば、生きて還れるとは思えない。
しかし自分にはまだやらなければならないことがある。だから―—
「見守っててください。志乃さん」
墓標の彼女の名をなぞりながら、産土は小さく呟いた。




