7話 負け犬どうし
クリスが居るかもしれないという図書室を探し、ジンは校舎内を歩き回る。そして三階へ辿りり着いたとき、やっと彼は図書室を見つけ出した。
扉を開けて中に入ってみると、そこには当然ながら大量の本が並んでいた。神話、歴史、経済、物語、といくつかジャンル分けされた棚を素通りして奥の方へと進む。
その先には机が五つほど並べられており、そこで一人、オレンジ色の夕陽を背に受け、かすかに吹き込む風に髪を揺られながら、静かに分厚い本を読む少女の姿があった。
二人きりのその空間を満たすのは、ジンの心音と紙を捲る音だけのように感じられた。
彼はそんなクリスの姿に目を奪われて立ち尽くすが、ふと我に返って当初の目的を思い出す。
「えっと、ヴァーキンさん…?」
その呼びかけに対する返事は一切なく、再び沈黙が訪れる。緊張のせいか、それとも彼女の発する雰囲気のせいか、ジンは彼女をさん付けで呼んだ。
そんな彼を気にする様子などクリスには一切無かったが、それでもジンは諦めなかった。拳を強く握りしめ、大きく息を吸って腹の底から声を出す。
「クリスさん…っ!」
「……驚いた。私の本名を知っていたのね。それで、編入生のあなたがこんな私に何か用かしら?」
「えっと、名前を間違ったことを謝りに来たんだ。わざとではなかったとは言え、申し訳ない」
「そんなこと…。あのときは少し動揺しただけで、慣れているから気にしなくていいのに。律儀なのね」
「……それと、俺とその、バディを組んで欲しいんだ」
「どうして?私よりも良い子は他にいるはずよ?あなたも知っているでしょう、私がヴァーミンと呼ばれる理由を」
「ああ、友人から聞いた。でもあれはお前の父親には罪はない、俺はそう思っている。その上、それをお前が背負い込む必要は無いはずだ…!」
「ありがとう。でも、そんな優しい言葉を並べられても、私はあなたとはバディは組めないわ。現実はそんなに甘くないのよ…」
ジンには最後のその言葉の意味が分からなかったが、考えさせる時間も与えぬように、何者かがその場へとやって来た。
「おやおや、これはこれは。先程この俺の手によって痛めつけられた編入生さんと、この街の害虫さんではないか。こんな所で何をしているんだい?負け犬同士、隠れてコソコソ宜しくやっているのかい?」
男がそう言い終わると同時に、ジンは一気に距離を詰め、男の顔面を目掛けて拳を振りかざした。それが相手に当たる寸前で、クリスは『やめなさい!』と叫び、ジンを止めた。
ぽつり、と一筋の汗が男の頬を伝う。
「『憎しみに身を任せるな』と言ったのはあなたでしょう?こんな場所で彼を殴っても、意味ないわよ。もし今の発言を訂正させたいのなら、実力で分からせたいのなら、正式に決闘をするべきよ」
「決闘…?」
「そうよ。模擬戦という形ではあるけれども、申請すればここにある訓練場を貸してもらえるし、審判も付くわよ。そこで白黒つけたらどうかしら」
クリスは、その決闘で本当の実力の差を見せつけさせようとしていた。しかし彼女の狙いはそれだけではなく、ジンの真の実力を測ろうとしていたのであった。
(あのときの違和感…彼は絶対に何かを隠しているはずよ…)
男は彼女のその提案を聞き、腹を抱えて笑い出した。
「あひゃひゃひゃひゃ!負け犬の彼が?この俺と?一度ボコボコにされているのに、もう一回同じ目に遭わせるだなんて、ひどいお姫様だねぇ。ほら、きみもなんとか言ってみなよ。怖いなら、そうだな……ここで全裸になって頭を下げるんだ。そうしたら許してあげるかもよ?」
「……分かった」
「謝るときはちゃーんと、深く頭を下げるんだよ?」
「……分かった、決闘をしよう。どうやって申請すればいいんだ?」
ジンの答えに、男は目を丸くした。一度痛い目を見ているのに、どうして諦めないのかと。もしかしたら、彼は本当に頭の弱い子なのかもしれない、と。
ただ、そんな風に彼を見下していたからこそ、男は快く決闘を受け入れた。
不快なほどに口角をあげ、鼻で笑う。
「ふんっ、模擬戦の申請なら、この俺がしておいてやるよ。明日までに、しっかり泣いて頭を下げる準備をしておくんだな。まぁ、そんなことをしてももう許さないけどなぁ?」
男が得意げな足取りで図書室から出るのを確認すると、クリスはジンに『ありがとう』と呟いた。しかし、意味も分からず突然感謝されたことに彼は戸惑いを隠せずにいた。
「礼を言われるようなことは、何もしていないはずだが…」
「私の為に怒ってくれたんでしょう?自分が殴られているときは、一切抵抗もしなかったくせにね」
「それはそうだが…」
「とにかく、明日あなたの実力を見せてやりなさい。バディの話はその後よ」
「俺とバディを組むつもりになってくれたのか?」
「考えるだけよ。それに、もし明日の決闘で彼——アゴハ・イリキーに負ければもちろん断らせていただくつもりだから。せいぜい頑張りなさい」
それだけ言い残し彼女が図書室を出た後、ジンは学園とは別館の寮にある自分の部屋へと向かった。
荷物は、職員が代わりに運び入れてくれているようだったので、彼は特に何もする必要はなかった。
(確か俺の部屋は三階だったよな…)
書類を確認しながら階段を上る。その道中、アキラが切羽詰まった表情で息を切らしながらジンのほうへとやって来た。
もしかして、食堂に置き去りにしたことを怒っているのかもしれない、という彼の考えは的外れであったようで——
「おい、ジン!お前明日アゴハと模擬戦をするってのは本当か⁉︎編入早々あいつと模擬戦だなんて、学校中で騒がれてるぞ⁉︎」
「なんだ、もう知っていたのか」
「ってことは、あれは本当なのか…。トイレで他のヤツがそんな話をしていたから、まさかとは思ったが…。昼間あれだけボコボコにされたんだ、悪いことは言わねぇ、棄権しないか?」
「——クリス・ヴァーキンと話をしたんだ。これであいつに勝ったらバディのことを考えてくれるらしい。だから俺は棄権するつもりは無いよ。それに…友人の心配よりも、自分の心配をしたほうがいいんじゃないか?」
ジンは、静かにアキラの下半身を指差す。
いったい何のことかと思いながら、彼は視線を下へとずらしていくと、ズボンのチャックが全開になっていることに気がついた。
その隙間からは、赤いハートや星といった柄たちが、『こんにちは』と言わんばかりに顔を出している。
「もしかして、廊下で女子たちとすれ違うたびに悲鳴を上げられてたのって…」
「それ、だろうな」
「お前を探して駆け回る俺の姿がカッコいい、とかじゃなく…?」
「それ、だろうな…。ある意味、今の俺以上に有名人なんじゃないか?」
「くっぞぉ…っ!お前の…お前のせいで俺はぁ…!明日ぜってぇ勝たねぇと許ざねぇがらなぁ…っ‼︎」
アキラは、ジンの両肩を掴んで涙を浮かべた。しかし、そんなときでも彼のチャックは未だに開いているままであった。
確かに、今頃チャックを閉めたところで過去は変わることはないのだから、彼は気にしなかったのだろう。
そんなみっともない彼を前に、ジンは決意する。
「——当たり前だ。俺は絶対に勝つよ」