1話 ジン・エストレア
ジンは講義室中を見渡し、空いている席を探すが、そこでひとつだけ目立った空席があるのを見つけた。
そこには頬杖をつきながら、窓から見える小さな青空を物憂げに眺める少女の姿がある。そこから入るそよ風に、長い綺麗な銀髪を揺らす彼女の周囲には、何故か誰一人として座っていなかった。まるで周囲の者が避けているように感じられる。
そんな様子を不思議に思いつつも、彼は迷うことなくその席へと向かった。
「——ここ、座っても良いかな?」
「……………」
「あの…良いかな…?」
返事が無く、もう一度問い掛けてみる。
すると、ようやく気がついたのか、彼女はジンを一瞥した。
「……ん、勝手にすれば?」
ジンの問いに彼女は冷たく返す。
彼はその返答に対して小さく『ありがと』と返して彼女の隣の席についた。
とある晴れた日の朝、シヴァルヴィという町の端にある小さな酒場は、開店前だと言うのに何やら騒がしくなっていた。
「よしっ!忘れ物はなさそうだね。……それにしても、ここに来たときはあんなにも小さかったジンが、今はこんなにも立派な男の子になってねぇ…」
そう言いながら、ジンという黒髪の少年の頭を撫でているのは、この酒場の女将であるユイス・フローリアだった。やや細身の高身長で、腰まで伸ばした綺麗な茶髪が特徴的である。
優しさと慈愛の溢れた表情で彼の頭を撫でながら、時折り流れる涙を指で拭っている。
「…俺はもう子どもじゃないんだ、ユイス。だから頭を撫でるのは、ちょっとよしてくれよ」
「まったく…相変わらずジンは可愛げがないのよねぇ…。小さい頃からそうだし…ほんっと、誰に似ちゃったのかしらね」
呆れたなような口調で彼女がそう言うと、隣で立っていた五十代くらいの、白い髭を大量に生やした筋肉質の大男が続けて口を開けた。
「誰ってそりゃあアイツしかいないだろう?ジン坊は、ガキんちょの頃からずっと一緒にいたから、少なからず影響を受けちったのかもしれねぇなぁ、ガハハハッ!」
「そうね、エルに似たのかもしれないわね。……でも、どんなに可愛げの無い素直じゃない子でも、私の愛しの子であることには変わりないわ!」
男がエルという名前を出した刹那、ユイスは表情を曇らせた。
しかし、そんなことをジンには悟られまいと話を逸らし、彼を力強く抱きしめた。
「ガハハッ!ちげぇねぇや!…ジン坊、確かにお前さんの可愛げの無さはエル坊譲りだ。だが、アイツから学んだものはそれだけじゃあねぇはずだろ?」
「当たり前だろ、俺はエル兄に稽古つけてもらってたんだ。いろんなことを教えてもらったよ。だからそんな心配そうな顔しないでくれ。——俺は絶対に死なない、約束する」
「…あぁ…っ!あぁぁ…っ!ジン坊ぉぉぉ!」
(いつの間にこんなイイ男になっちまってたんだよぉ!)
男は先程までの威勢の良さを失くし、膝から崩れ落ちて大量の涙を流した。その姿はまるで、飼い主を亡くしてしまった子犬のようで、ユイスはそんな彼を見てクスリと笑った。
「…もう、ローレンったら……あなたがそんなにも泣いてどうするのよ。そんなんだと、ジンが行きづらくなっちゃうでしょ」
「うぐっ…でもよぉ!でもよぉ…!」
ローレンの泣いている姿を見て、ユイスも更に涙が零れ落ちそうになる。
「はいはい、落ち着いて。その鼻水気持ち悪いからさっさと拭きなさい」
「なんか先から俺の扱いひどくねぇがぁ⁉︎うわぁぁん!」
「ジン…ごめんねぇ、ちゃんと見送ってあげられなくて。本当は二人とも笑顔で見送ろうって話だったんだけどねぇ。ほら、あっちでもやること多いだろうから早く出なさい。この涙腺崩壊ジジイは、私がしっかり面倒見とくから」
ユイスはローレンの背中を軽く叩きながらジンに向けてそう言った。
そんな彼女の優しい笑みも、どこか別れの寂しさを含んでいるようなもので、それにはジン自身も当然気がついている様子だ。
しかし、ここで躊躇ってはいけないと彼は決心したのか、彼女と同じように強がって微笑んでみせた。これ以上彼女たちに心配をかけてしまわないように。
「あぁ、それじゃあそろそろ行くよ。……あの、今までありがとう」
「…ばかね、それだと一生のお別れみたいになっちゃうでしょ?他に言うことがあるんじゃない?」
「…ユイス、ローレンじぃさん……それと、エル兄。行ってきます」
ジンは腰の高さほどの棚の上に飾られた一枚の色褪せた写真に目をやって、こくりと頷いた。
その写真には、ジンともう一人、彼の頭の上に肘を置いて親指を立てている青年が写っている。
「あぁ…!ジン坊…達者でなぁ…っ!」
相変わらずローレンは涙を流し続けているようだったが、それでも、店から出て行く彼の勇ましい後ろ姿ははっきりと捉えていた。
(ったく、後ろ姿までエル坊みてぇに男らしくなりやがって……。アイツも、生きてたら俺みてぇに泣いてたのかねぇ)
ジンが出て行くのを確認すると、ユイスはローレンの背中を強く叩いた。
「いつまで泣いてるのよ、このバカ!おかげで私も泣きそうになっちゃったでしょ!」
「…まぁまぁ、例え血が繋がってなかろうと、家族ってのはそういうもんよ」
真っ赤に腫れあがった目を擦り、鼻をすすりながら彼は立ち上がると、近くの窓にもたれかかり、胸ポケットから取り出した葉巻に火をつけた。
「……な〜に語ってんだか。百年以上は生きてるくせに結婚もしていないどころか、恋人だって一度もできたことないくせに。モテるために始めた葉巻も意味無かったわね」
「んなっ⁉︎それは言わねぇ約束だろぉぉぉ⁉︎」
ユイスの台詞に動揺を隠せず、ローレンは火のついた葉巻から手を離してしまった。それは躊躇うことなく彼の足の指を目掛けて落下し、ジュワーと音を立てた。
「…んあっぢぃぃぃぃぃぃぃぃっ‼︎」
慌てて足に息を吹きかける彼を見て、ユイスはため息をつく。
「あの英雄、ローレン・エストレアはどこへ行ったのやら…」
「……それを言ったらお前さんもだろ」
ローレンは神妙な表情を浮かべ、窓の外に煙を吐く。
「俺たちはもう過去を捨てて隠居した身だ。それに、今は英雄じゃなくて……その、ジン・エストレアとエルノード・エストレアの親父だ」
窓の外を眺める彼の耳が、熟れた果実のように赤く染まっていることにユイスは気付く。
「ふふっ、確かにそうね。私も今は、ただのお母さんね」
「そ、それでよ…母親だけ別の姓を名乗るって違和感あるっつぅかよ…」
歯切れが悪そうに語るローレンの視線は、いつの間にか窓の外ではなく、ユイスに真っ直ぐと向けられていた。
「俺と結婚してくれ!」
衝撃的な言葉を受け、彼女は時が止まったかのように感じた。
『あー、何かもっと良い言葉がありゃ良かったんだが…誰かに聞いとけば良かったかぁ…?』などとこぼすローレンの姿が涙で霞む。
「まったく…、あなたったら遅すぎるのよ!」
「つってもよぉ…俺たちエルフからしたら——っ⁉︎」
言葉を遮るかのように、ユイスは彼に抱きついた。
このようなことに慣れていないローレンは、照れ臭そうに頬をかき、優しく彼女の腰に腕をまわす。
「……まぁ、あれだ、ジン坊が帰って来たら報告しねぇとな」
「ふふっ、そうね」
ユイスは嬉しそうに、長い耳をぴくぴくと反応させた。