【短編】呪われ聖女は気まぐれ王子に教育される
「君はこの国の聖女だろう? なぜ鎖につながれているんだ……囚人みたいじゃないか」
第二王子のユリウス殿下は、わたしの足の鉄枷を見て首をかしげた。
「それは、わたしが『呪われ聖女』だからです。呪われ聖女は、逃げ出したり災いを起こしたりしないよう、鎖で戒めなければならないそうです。司教さまが言っていました」
言いながら、わたしは涙をぽたりと落とした。
べつに、悲しかったわけではない。泣くのが、わたしの仕事なのだ。
私の涙が床に当たった瞬間に、目の前に置かれた数十本の小瓶がいっせいに光り出した。
小瓶に入っていた水が、私の力でポーションに変成されたのだ。
「わたしは、ポーションを作るしか能のない『呪われ聖女』です。こんなわたしでも人の役に立てて……幸せだと思います」
「君のような幼い子どもが言うようなセリフじゃないね。君は何歳だ? 見たところ、5,6歳くらいに見えるけれど」
「……わかりません」
ユリウス殿下は痛ましそうな顔をして、わたしにそっと近寄った。
「君に鎖が必要なのは理解した。だが、こんな塔に独りで閉じる必要はないはずだ。だから、君を縛る鎖の役割を、僕が担うことにしよう」
殿下は私の鉄枷のカギを開けると、わたしをお姫様のように抱き上げた。
「で、殿下……!? なにをしているんですか!?」
「君を連れて帰ろうとしている」
おとなの男の人の腕が、こんなに力強いなんて。
ユリウス殿下はほっそりとした方だけれど、わたしを軽々と抱き上げていた。
「……わたしを連れて帰る?」
「父上が、妻を娶れとうるさいんだ。「好きな女を一人選べ」と言われたので……君を所望することにした」
***
「殿下! なにをお考えなのですか!? よりにもよって『呪われ聖女』を妃に選ぶとは……少女どころか、幼児ではありませんか! そういうご趣味がおありでしたか!?」
宰相さまがユリウス殿下の部屋に来て、真っ赤な顔で怒鳴っている。
「ダリオ、口が悪いのが君の欠点だ。好きな女を選べと命じられたから、僕はこの子を選んだんだ。年齢制限はなかったはずだよ?」
ソファに腰かけたユリウス殿下は、ゆったりと笑っていた。
「くっ……! ユリウス殿下はそうやって、いつも気まぐれなことばかりするから困ります。少しはアポロ王太子殿下を見習ってください!」
「兄上と僕を比べるのはやめたほうがいい。君が疲れるだけだからね」
言いながら、ユリウス殿下はわたしの髪を撫でている。
ソファで殿下の隣に座らされていたわたしは、緊張でガチガチに固まっていた。
彼の気まぐれでお城に連れてこられたわたしは、今日から『呪われ聖女』としての役目を解かれ、彼の住まう離宮で生活することになった。
「殿下! 教会と揉めごとになっても、私は知りませんよ!?」
「ダリオ、僕は君を信頼しているんだ。頭の固い司教をうまいこと丸め込むくらい、君なら簡単だろう? 期待しているよ」
「また私の仕事を増やすおつもりですか!! まったく!」
宰相さまは怒って部屋から出て行った。
「――さて。うるさいのが、ようやく出て行ったね。幼い子どもを泣かせて作るポーションなんか、本来は利用すべきではないんだ。君もそう思わないか?」
微笑みながら、殿下はわたしを見つめた。
「君は――あぁ、名を聞いていなかったね。なんと呼べばいい?」
「わたしに名前はありません。修道士からは呪われ聖女と呼ばれていました」
「そんなものは名前とはいわない。では、僕は君をミーリャと呼ぼう」
「ミーリャ……だれのお名前ですか?」
ユリウス殿下は悲しそうに笑って小さく首を傾げた。
……聞いちゃいけないことだったのかもしれない。
「僕のミーリャ。どうか末永く、僕の隣で幸せに。あぁ、こんなに幼い君を妻にする気は、もちろんないよ? 肩書が必要ならば、養子縁組をしておこうか」
「いえ……」
「君は長いこと塔に閉じ込められていたようだが。どれくらい前から、こんな扱いを受けていたの?」
「……分かりません」
質問に答えないと、殿下の機嫌をそこねてしまうかもしれない。
気まぐれで拾ってくれただけだから、気が変わったらまた捨てられてしまうかも。
でも本当に、名前も齢も分からない。
ずっと塔のなかでポーションを作らされていた。
もしかしたら生まれたころから、ずっと……?
「可哀そうに」
撫でてくれるユリウス殿下の手は、優しい。
「ありがとうございます、ユリウス殿下」
「もし可能なら、僕をユーリと呼んでほしい。昔、君によく似た女性が僕をそう呼んでいた」
――あぁ。そうか。
ユリウス殿下が、わたしを選んだ理由が分かった。
きっと、殿下はミーリャという人に恋してるんだ。
でも、手に入らないから……代わりにわたしを、気が変わるまで近くに置くつもりなんだ。
できるだけこの人に捨てられたくない……。独りぼっちの生活に戻るのは、怖いから。
***
すぐ気が変わって捨てられちゃうかと思っていたけど。
ユーリさまは毎日、わたしに優しくしてくれた。
「どのお菓子も、王都の女性に大人気だそうだよ。好きなだけ食べるといい」
わたし用として与えられた小部屋で、テーブルいっぱいにお菓子が並んでいた。
「わぁ……! お菓子なんて、生まれて初めてです。どれにしようかな……」
色とりどりのお菓子を見ていると、思わず目がキラキラしてしまう。
「すべて君のものだ。好きに食べ散らかしていいんだよ」
「そんなぜいたく、できません!」
食べきれる分だけ1つずつ選んで、頬張っていく。どれもおいしい!
カラフルでやわらかそうなお菓子が並ぶなかに1つだけ、木の実を干しただけの質素なお菓子が混じっていた。
「ユーリさま。これも、王都のお菓子ですか?」
かじってみたら、固かった。何度も噛むと、じんわりと甘くなってくる。
「いや。これは、白葉月の森という場所で採れる果実だよ。珍しいから出してみたんだが……気に入らなかったかな?」
「いいえ! わたし、これが一番好きです」
何度も噛んでいるうちに、お腹いっぱいになってしまった。
「ごちそうさまでした。ユーリさま!」
「おそまつさま。また今度、用意させるから楽しみにしているといい」
おやつの時間が終わったところで、ユーリさまは「さて、それでは」とお話を切り出してきた。
「ミーリャ。君は、文字を読めるかな?」
「……え?」
わたしは、読み書きができない。
おろおろしていると、ユーリさまはそっとのぞきこんできた。
「ごめんなさい……全然できません」
「あやまる必要はない。今日から君に、文字を教えたいと思っていた――おいで」
ユーリさまはテーブルからお菓子をどかすと、大きな本を取り出して椅子に座った。そして自分の膝をぽん、ぽんと叩いてわたしに「おいで」と呼びかけた。
「おいでって……?」
「こういうこと」
にこやかに笑って椅子から立ち上がり、ユーリさまはわたしを抱き上げた。
「ひゃっ!?」
そのまま椅子に腰かけて、わたしを自分の膝に乗せた。
「な、なにしてるんですかユーリさま!?」
「書の勉強を。幼児が読み書きを学ぶときは、こうするのが一番だ」
ユーリさまがわたしの手を握り、1つ1つの文字の書きかたを教えてくれている……でも、集中できない。
くすぐったくて。恥ずかしい。
なにドキドキしてるんだろう……わたし、すごくバカな子だ。
(ダメ……集中しなきゃ! バカだって思われたら、ユーリさまにがっかりされちゃう)
顔が熱いのをがまんして、勉強に集中しようとした。
そのとき――
バン、と激しい音を立てて部屋の扉が開かれた。
「ユリウス! 貴様、いったい何を考えている!?」
びくっとして声の主を見ると、ユーリさまと同じ姿かたちの男性が、怒った顔で入り口に立っていた。
「どうしました、兄上? ノックもなしに女性の部屋に立ち入るなんて、兄上らしくありませんね」
「黙れユリウス!! 貴様が幼い『呪われ聖女』を囲って慰みものにしているという噂は、本当だったのか!?」
なぐさみものって、なんだろう……? それ以上に、ユーリさまが目の前に2人いるのは、どういうこと?
「ミーリャ。彼はアポロ。僕の兄で、この国の次期国王陛下だ」
「ユーリさまの、お兄さま……?」
「僕らは双子なのさ」
「おい、聞いているのかユリウス! いますぐその子供を教会に戻せ!」
「お断りします」
アポロ殿下は憎らしそうに顔をゆがめた。同じ顔立ちなのに、2人の態度はまるで対照的だ。
「では、貴様はその子供を妃にする気か? 国法の定めにのっとり、15歳になるまで待つと? ……本当は、結婚がめんどうだから時間稼ぎをしているだけだろう!」
アポロ殿下に怒鳴られても、ユーリさまは笑って首をかしげるだけだった。
「未来の王弟となる貴様がいつまでも国政に消極的だから、父上が業を煮やして、貴様に身を固めるよう促したのだぞ!? にも関わらず……恥を知れ、ユリウス!!」
「僕は第二王子としての外務、内務……自分の責務は滞りなく果たしておりますよ? 兄上を支えろというのなら、責務の範囲内なら喜んで。ですが、僕の婚姻関係にまで口を出されるのはお断りです」
なんだと……とアポロ殿下がつぶやく。
「どうせその子供を中途半端に可愛がり、気が変わったら捨てるんだろう? 貴様はそういう奴だ」
「私情に踏み込むのはおやめください。私は不出来な『気まぐれ者』ですので、兄上の説教など、響きません」
「貴様の気まぐれに振り回される、その子供が哀れだな!! おい、子供。ユリウスに心を許すな、必ず捨てられるぞ」
吐き捨てるようにそう言うと、アポロ殿下は部屋から出て行った。
青ざめて震えているわたしを、ユーリさまはそっと抱きしめる。
「……やめてください」
「どうしたら、僕は信じてもらえるだろうか」
「ユーリさまは……いつか、わたしを捨てるんでしょう?」
「捨てないよ」
「どうしてですか? ミーリャさんという女性に、似ているからですか。ニセモノなんか意味がないでしょ?」
「意味はある。君が必要だ」
必要って。
どうせ、結婚するのがイヤだから、子供を言い訳の材料にしているだけなんでしょう? ……アポロ殿下も、そう言っていた。
「たしかに、僕は気まぐれ者だと皆に非難される。兄上と違って出来損ないだから、誰からも期待されず、だからこそ割と自由にふるまうことを許されてきた」
この国の王子であるユーリさまが、わたしみたいな子供を相手に真剣に語りかけている――なんだか、とても変な感じ。
「僕は他人に要求されるのが嫌いだ。とくに婚姻関係は、絶対に他人に口出しされたくない――だからこそ、僕には君が必要だ」
好きでもない女を妃にするのは絶対に嫌なんだ。と、ユーリさまはわたしに訴えていた。
「つまり……わたしは、ユーリさまが本物のミーリャさまを探し出すまでの、時間稼ぎをすればいいんですね?」
わたしがそう答えると、ユーリさまは困ったような顔をした。
でも、わたしはユーリさまを困らせたくない。この人には、恩があるから。
わたしはにっこりわらって、大人の女性みたいにうやうやしく一礼して見せた。
「任せてください! わたし、ユーリさまをたくさんお手伝いします! だからユーリさまは安心して、愛する人を探してください!」
……だから、できればわたしを捨てないでくださいね。と、お願いしてみた。
ユーリさまは、困った顔で口をつぐんでいたけれど。やがて、「ありがとう」とつぶやいた。
***
その日からわたしは、毎日勉強をがんばった。
ユーリさまのお膝に乗って勉強するのも集中できるようになったし、手を握られて文字を書くも、震えを抑えて上手に書けるようになった。
子供の絵本はすぐ読めるようになったし、1か月くらいで伝記や伝承の本も読み解けるようになってきた。
「ミーリャ、君は本当に賢いね! 行政官見習いが読むような書物にも手が伸びるようになったのか」
ユーリさまに頭をなでられると、心が溶けそうなくらい嬉しくなる。
「はい! 昨日の夜は、カルカト地方の悪魔伝承について勉強してきました。水の悪魔ルカールサと、毒の悪魔ミゼレトです!」
「すばらしい。それじゃあ早速、ルカールサのことを教えてもらえるかな?」
「はい!」
ユーリさまと過ごす時間は、わたしにとって幸せの連続だった。
(早く立派な大人になって、ユーリさまのお仕事を手伝えるようになりたいな)
ユーリさまは執務の合間を縫って、わたしの勉強を見てくれる。
その傍らで、『何か』の情報を一生懸命集めようとしていた――宰相のダリオさまや、騎士団の偉い人たちに指示をしたり、報告を受けたりしている場面をわたしも何度も目にしてきた。
『何か』の情報を探し求めるとき、ユーリさまは怖いくらい真剣な顔になる。いつものゆったりとした微笑みとは、まるで別人みたいな。
(きっと、本物のミーリャさまのことを探しているんだわ……)
わたしの胸が、ちくりと痛んだ。
……ユーリさまには絶対、幸せになってもらいたい。
だから、一日でも早く本物のミーリャさまが見つかって欲しい。……本当は、さみしいけど。
本物のミーリャさまが現われるその日までは、わたしがミーリャで居続ける。ユーリさまの隣にいても恥ずかしくない女性になれるように、淑女のマナーもちゃんと覚えた。
(だって……お妃様にはなれなくても、優秀だと認めてもらえたら、お仕事を手伝わせてくれるかもしれないもの。どんな形でもいいからずっと、ユーリさまのそばにいたい)
じっとユーリさまの横顔を見つめていたら、視線に気づかれてしまった。
「? どうしたの、ミーリャ。怖い顔をして」
「ひゃ。ご、ごめんなさい、なんでもありません……」
「お腹がすいたかな? おやつの時間にしようか」
ユーリさまはメイドにお菓子を持ってこさせた。
今日のおやつは、白葉月の森で採れた木の実を干した、質素なお菓子――前にわたしが「一番好きです」と答えた乾燥果実だった。
「実は僕も、この菓子が一番好きなんだ。昔、ミーリャが僕に食べさせてくれた『思い出の味』だから」
……本物の、ミーリャさまが?
「本物のミーリャさまは、どこのご令嬢なんですか?」
「いや。森の魔女さ。白葉月の森に一人で住んでいた」
「魔女?」
ユーリさまは乾燥果実を口に含んで、幸せそうに笑っていた。
「危険な魔女じゃあないよ。植物学と魔術に精通した、聡明な女性だった。僕より10歳くらい年上だったかな。……実はね、僕は8歳の時、家出して森に迷い込んでしまったんだ。怪我をして死にかけていた僕を救ってくれたのが、ミーリャだった」
子供のころから、聡明な兄と比べられて居心地が悪かったんだ――と、ユーリさまは言った。
「子供のころは、比較されるのがつらかった。だから、護衛騎士を伴ってお忍びで街に出たときに、上手いこと巻いて僕一人で家出したんだ……商人の馬車にこっそり乗ったりして、かなり遠くまで逃げ出せた。でも、迷い込んだ森で獣に襲われてしまってね」
バカな子供だろ? と、ユーリさまが苦笑している。
「僕はミーリャに救われて、一瞬で恋に落ちた。僕の悩みや怒りを全部やさしく聞いてくれてね……ずっと寄りそってくれた」
「すてきな人ですね」
「あぁ。彼女と過ごしたのはたった一日だったけれど、僕はその日、一生分の幸せを知った」
どうしよう。
ユーリさまの幸せそうなお顔を見てたら、涙がこぼれそうになってきた。
でも――泣いちゃダメだ。
「きっと、もっと幸せになれますよ! ミーリャさまにもう一度会えれば、絶対幸せになれます。早く会えるように、わたしも応援してます」
***
1か月。2か月。穏やかな日々が過ぎていった。
だけれど、その夜は。
「すぐに侍医を呼べ!」
真夜中。
自室でひとり眠っていた私は、部屋の外が騒々しくなったのに気づいて目を覚ました。
「回復魔術士も召集しろ! ユリウス殿下が手傷を負っておられる!」
ユーリさまが!?
部屋から飛び出したわたしが見たのは、従者たちに運ばれるユーリさまの姿だった。遠目ではっきりしないけれど、頭や腕から血を流しているようだった。
どうしてユーリさまがお怪我を!?
混乱しながらも、私は自分のすべきことを見失わなかった。
『呪われ聖女』の力を使って、ポーションを作らなければ。
汲み置きの飲み水を前に、心を鎮めて涙を流した。目の前の水が変異して、青く輝くポーションになる。
呪われ聖女のポーションは、ふつうの聖職者が作成したものの数十倍の効果があるといわれている。わたしは作りたてのポーションを抱えて、ユーリさまの部屋に押しかけた。
……でも。
「ミーリャ。悪いが、そのポーションは受けとれない」
部屋で治療を受けていたユーリさまは、わたしを拒んだ。傷は浅かったようで、命に別状はなさそうだけれど……
「どうして受け取ってくれないんですか!?」
「いらない。君を犠牲にして生成されたポーションなんて、絶対に頼りたくない」
――どうして?
いくら聞いても、ユーリさまは答えてくれなかった。ベッドに身を鎮め、気だるそうな顔で治療を受けている。
わたしは宰相のダリオさまに咎められ、部屋から追い出されてしまった。
「なんで……」
せっかく役に立てると思ったのに、どうしてわたしを拒むの?
そもそも、どうしてユーリさまが怪我を?
分からないことだらけで、涙がこぼれてきた。
そのとき――
「そのポーション、私が貰い受けようか」
ユーリさまにそっくりな声音が、わたしの上から響いてきた。
「……アポロ殿下?」
わたしの前にはユーリさまの双子の兄、アポロ殿下が立っていた。
「ミーリャと言ったな。君に話がある、私の部屋に来い」
*
「ユリウスの負傷は、君が原因だ」
部屋に入るなり、アポロ殿下は言った。
「わたしが?」
「ユリウスは本日、隣国の大使との面談に出向いていたわけだが――帰路で悪漢の襲撃を受けたという。黒幕は司教だ」
――司教さまが?
「2ケ月前にユリウスが強引に君を奪ったせいで、王家と教会との関係に亀裂が入っている。もはや修復は不可能だ――『呪われ聖女』である君を、教会に返す以外の方法では、な」
わたしのせいで?
わたしが毎日、ここで楽しく暮らしているせいで……王家と教会に争いが?
青ざめる私を憐れむような眼で見下ろしながら、アポロ殿下は静かに言った。
「すべての責任は、勝手気ままにふるまい続けるユリウスにある。……だが、身勝手を承知で君に頼もう。どうか、司教のもとに戻ってもらいたい」
目の前が。真っ白になってしまった。
「わたしが戻れば…………すべて、元通りになりますか?」
「最善を尽くそう」
「ユーリさまを、責めないでくれますか?」
「誓おう。君のような幼い子どもに苦痛を強いるのだから……その程度の約束はしてやる」
あぁ。
良かった。
――わたしが前の生活に戻れば。全部解決するんだ。
「わかりました。それならわたしが、…………」
廊下に、あわただしい靴音が響いた。「なりません、ユリウス殿下――!」と叫ぶ宰相さまの声も聞こえる。その直後、
ばん、という荒々しい音とともに、ユーリさまがドアを開けて部屋に入ってきた。
「兄上! 僕のミーリャに、何を吹き込んでいたのですか!?」
頭と腕に包帯を巻いたユーリさまは、アポロ殿下に掴みかかった。
「ユーリさま!?」
「ユリウス殿下、おやめください!」
わたしと宰相さまが声を荒げる。
「兄上、勝手に事を進めないでください! 僕はようやく、すべての準備を整えたんだ。 兄上と言えど、邪魔をするなら容赦しません!」
「ユリウス……いつもの余裕ぶった態度とは、ずいぶんと違うじゃあないか。『準備』とは? 何を企んでいる?」
「兄上にはすべて説明します」
「聞かせてもらおう」
少し冷静さを取り戻した様子で、ユーリさまとアポロ殿下は向き合った。
わたしは宰相のダリオさまに導かれて、自分の部屋まで戻された。
真夜中の廊下を歩きながら、前を歩くダリオさまに質問した。
「……私のせいで、王家と教会の関係が悪くなっているって本当ですか?」
「本当ですよ。あなたには酷かもしれませんが、ユリウス殿下の為すこと全てを見届けてください。間もなく、変革のときが訪れます」
「変革?」
彼はわたしに小さな小瓶を見せた。その小瓶には、毒々しい赤い液体が入っている。
「ユーリさまがずっと探し続けていたのは、この『毒』です」
「毒? ユーリさまは、本物のミーリャさまを探していたのでは?」
ダリオさまは、私の問いには答えなかった。
「この毒がもたらす結末を、あなた自身が見届けてください」
*
――その晩は、まったく眠れなかった。
「……朝一番に出向いたら、迷惑かしら」
でも、居ても立っても居られなくて……ユーリさまのお部屋に行くことにした。
ユーリさま、お怪我はだいじょうぶかな。
『毒』を探してたって、どういうこと?
その『毒』を何に使うの?
分からないことだらけ。不安で、勝手に足が早まってしまう。
ユーリさまの部屋のドアを、ノックしてみた。
――返事はない。
嫌な予感がした。
「ユーリさま? 朝早くにごめんなさい……ミーリャです」
失礼だと分かっていながら、ノックを重ねる。
「ユーリさま。いらっしゃいますか? お体は、だいじょぶですか? あの……すみません、ユーリさ――」
かちゃり。と、静かにドアが開いた。
「おはよう、ミーリャ。こんな早くに、どうしたの?」
疲れを残した表情で、彼は部屋から出てきた。
「眠れなかったのかい?」
目をそっと細めてわたしを見つめ、わたしの頭をなでようとしたのか、手を伸ばしてきた。
でも――
「なにしてらっしゃるんですか? アポロ殿下」
わたしが答えた瞬間に、彼の手は、ぴくりと止まった。
「どうして、ユーリさまの真似なんかするんです?」
彼――アポロ殿下は、気まずそうに美貌をゆがめた。
「そもそも……どうしてユーリさまの部屋から、アポロ殿下が出てくるんですか? ユーリさまも中にいるんですか?」
返事に詰まるアポロ殿下を見て、嫌な予感がした。
「なかに入れてください! ……失礼します!」
「おい、君、やめろ」
アポロ殿下がわたしを押し戻そうとするのも聞かず、私は無理やり部屋に入った。
そこで見たのは――
「ユーリさま!?」
死んだような血色になったユーリさまが、ベッドに倒れ伏していた。
サイドテーブルには、昨日の『毒の小瓶』が置かれている――小瓶を満たしていた赤い液体は、ほとんど空っぽになっていた。
「……なんで、」
なんでユーリさまが、毒を飲んだの?
なんでユーリさまの部屋に、アポロさまがいるの?
なんで。なんで……なんでなんで……………
「落ち着け、ミーリャ。これは――」
わたしの肩に触れてきたアポロ殿下の手を払い、わたしは彼に掴みかかった。
「どういうことですか!! まさか、あなたがユーリさまに毒を飲ませたの!?」
アポロ殿下は答えない。気まずそうに、口をつぐんでいる。
わたしはアポロ殿下を突き飛ばし、ユーリさまのベッドに縋りついた。ユーリさまは、とても血色が悪いけど――生きていた。呼吸に合わせて胸がかすかに上下している。
「生きてる!! お医者様を呼ばなきゃ!」
「ダメだ。余計なことをするな、ミーリャ」
「なにが『余計なこと』よ! 弟を殺すつもりなの!? あなたはやっぱり人殺し――」
わたしの声は、阻まれた。
ベッドから身を起こしたユーリさまが、後ろから抱きしめてきたから。
「――違うよ……ミーリャ。兄上は、僕を……見守っていただけだ」
絶え絶えの息で、弱々しい腕で、ユーリさまはわたしを抱きしめていた。
「どういうことですか!? どうして毒をユーリさまが……!?」
ふり返ったわたしに、ユーリさまはいきなり唇を重ねてきた。
――――?
体が熱い。
血が、骨が熱い。何が起きているの?
…………ユーリさまとアポロ殿下が、そろって私を見つめている。
驚いた顔のアポロ殿下と。とても嬉しそうなユーリさま。
「ほらね。やっぱり君が、僕のミーリャだったんだ」
―――どういうこと?
アポロ殿下が、机から手鏡を取ってきてくれた。鏡でそっと、私を写す。
「え? 私……?」
私の姿は、18歳くらいの大人になっていた。
「……どういうこと?」
「君の呪いを解いたんだ。君に憑依していた悪魔を選択的に殺す『毒』を、口移しで君に与えた。この毒は、こういう投与法でなければ効かないそうだ」
今の姿が、君の本当の姿だよ。と、疲れ切った笑顔でユーリさまが言った。
「やっと会えた。白葉月の森の魔女――ミーリャ。僕の愛しい人」
ユーリさまは教えてくれた。私が、ルカールサという『水の悪魔』に取り憑かれていたということを。
その悪魔に取り憑かれると子供の姿になってしまうが、その代償に強力なポーションの生成能力を得るという。
「司教は過去何十年の間、女性に悪魔を憑依させて人為的に『呪われ聖女』を作り続けていたんだ。『呪われ聖女』を塔に閉じ込め、ポーションを生成させていた――呪われ聖女が作ったポーションは、高値で取引されるからね」
幽閉した呪われ聖女が過労で死ねば、悪魔を回収して次の女性に憑依させる。……そんなことを、繰り返していたらしい。
「そして現在の呪われ聖女がミーリャ……君だったんだ」
痛ましい表情で、ユーリさまは私の頬に触れながら語った。
「僕は何年もの間、失踪したミーリャの行方を探し続けていた。……そして君が『呪われ聖女』にされて幽閉されているのだと知ったのは――ほんの数ヶ月前。居ても立っても居られなくなり、奪うような形で連れてきてしまった」
疲れ切った様子で、ユーリさまはベッドに横たわった。
悪魔にしか効かない毒らしいけれど……やはり、人間の体にも負担になってしまうらしい。
「呪われ聖女を作り出すために、人為的に悪魔を憑依させていたとはな。ユリウスの働きがなければ、司教の悪事を暴くことはできなかっただろう」
アポロ殿下は腕を組み、険しい表情をしていた。
「昨日、ユリウスにすべてを打ち明けられたとき――非常に驚いたよ。司教の卑しい行いにも、幼い『呪われ聖女』が本当は成人女性だったことにも。私はユリウスとともに、中央教会の教皇猊下にこの件を直訴する」
もう、心配はいらない。と、アポロ殿下が私に笑いかけてきた。
「……アポロ殿下はどうしてさっき、ユーリさまのふりをして、私を足止めしようとしたんですか?」
「時間稼ぎのつもりだった。毒を飲んだユーリが倒れている姿なんて、君に見せたら面倒だろう?」
アポロ殿下がくすくすと笑っている。柔らかい表情になると、この人はユーリさまに少し似ている。
「とっさに三文芝居をしてしまったが……、一瞬で見抜かれてしまったな」
「少し、意外です。おふたりは仲が悪いんだと思っていたので……」
「弟の真意が聞けたので、わだかまりが溶けた。いつも無責任で気まぐれだったユリウスのすべての振る舞いは、君を救うことが目的だったのだと知って……嬉しかったんだ。兄として、支援したいと思うのは当然だろう?」
それで、どうなんだ? 弟のことを、君はどう思う? ――と、アポロ殿下は問いかけてきた。
「私……私は、」
いきなり起こった自分の変化に戸惑うばかりで。
何をどう受け止めたら良いのか、わからない。
「私、昔の記憶が……曖昧なんです」
「ゆっくり思い出せばいい。弟は、何年でも君を待つだろうからな」
私は頭痛に耐えながら、昔のことを必死に思い出そうとした。
ユーリさまのことを、たくさん思い出したかったから。
――そうだ。
何年も前。
私が暮らしていた白葉月の森に。1人の男の子が迷い込んできた。
オオカミに襲われていたその子を、私が助けた。
とても可愛らしくて、心のきれいな男の子だった。心に孤独を抱えながら、一生懸命耐えていた。
深青色の、まっすぐな目で私を見つめていた。そう……
目の前のユーリさまと、同じまっすぐな目で。
私は震える手で、ユーリさまの頬に触れてみた。
ユーリさまの目が、私だけを見つめている。
「……大きくなりましたね、ユーリ。わたしのこと、覚えていてくれたんですか?」
「一日だって忘れたことはなかったよ、ミーリャ。僕の妻になってくれる?」
「――喜んで」
私たちは、もう一度口づけを交わした。
***
その後。
悪魔を人為的に使っていた司教の罪は重く受け止められ、教皇の命令によって司教は退任に追い込まれた。
この国に『呪われ聖女』が生まれることは、もう二度とないはずだ。
私はユーリの妃として、そして執務を手伝う補佐官として、彼の隣で幸せな日々を送っている。
執務室で書類の確認作業をしていた私に、ユーリが心配そうに声を掛けた。
「ミーリャ。あまり根を詰めすぎないように。くれぐれも無理をしてはいけないよ」
「これくらい平気ですよ、ユーリ」
私が笑って答えると、ユーリは私に寄り添って、そっとお腹に手を触れてきた。
「音を聞かせて」
「はい。――どうぞ?」
ユーリは甘える幼子のように私の膝に頭を乗せて、私のお腹に耳をくっつけてきた。
「聞こえますか、ユーリ」
「あぁ。温かい音が、よく聞こえるよ」
膨らみ始めたお腹のなかに、宿ったばかりの命の音が聞こえていた――