拾玖 傘差し狸
「うわー、雨降ってんじゃん。最悪。天気予報は晴れだったのに……」
女子生徒は、下駄箱から見える大雨にがっくりと肩を落とす。
誰かの傘に入れないかと周囲を見渡すも、夕暮の静けさがあるだけで、誰もいない。
いつもであれば部活帰りの生徒がいるはずなのだが、生憎今はテスト前。
すべての部活は休みになり、生徒たちは早々に帰宅していた。
ではなぜ、この女子生徒が未だに学校へいるかというと、教師から雑用を押し付けられたせいだ。
テスト前になんてことを押し付けてくれやがんだと憤慨しつつ、断る勇気もなかったので安請負してしまっていた。
「……先生に送ってもらおうかな。それくらいやってくれるでしょ」
この状況は教師のせいであると考えた女子生徒は、教師に責任を取らせようと、職員室に向かって歩き始める。
「あれ? 傘、ないの?」
そして、突然に下駄箱からかけられた声に足を止める。
「え? あ、はい……」
「よかったら入ってく?」
女子生徒は、思わず動きを止め、目の前の男子生徒に見入る。
名札の色から、目の前の男子生徒は一学年上だと分かった。
高い身長に整った顔立ち、そして困っている自分に甘い声で話しかけてくれる優しさ。
少女漫画のワンシーンのような状況に、心臓が高鳴る。
(……先生ありがとう!)
思わず心の中で、さっきまで怒りさえ抱いていた教師に感謝を述べる。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
女子生徒はおずおずと傘の中に入る。
途端、香水のような甘い香りがした。
感情がとろけそうなほど、甘い香りが。
「家はどっち?」
「えっと、そこを右に曲がって」
心臓の音が聞こえそうなほどに近い距離で、二人は並んで歩き始める。
たわいない会話と笑顔が作り出す空間は、女子生徒の意識を溶かしていった。
ピピピピピピ。
「あ……朝……月曜日……」
女は、死んだような目でスマホの時刻を確認する。
「会社……行きたくない……死にたい……」
そして、心の底から絶望する。
(誰か助けて……)
傘に入って歩いていた記憶を最後に、気が付いたら女子生徒は女子生徒でなくなっていた。
見たことも聞いたこともない土地で、全く別人の姿で、ブラック企業の会社員をしていた。
今、女には、二つの人生の記憶がある。
大人に憧れて楽しく過ごしていた女子生徒の記憶。
そして、地獄のような子供時代を経験し、就職後もブラック企業で奴隷のように働く女の記憶。
現在の姿形は、後者の女だ。
発狂し、泣き叫んだが、女子生徒の持つ記憶の世界に戻ることはなかった。
生きるために、女の記憶を頼りに働くしかなかった。
人生に絶望し、心は静かに削れていった。
「無理…………」
女はそのままパタリと布団に倒れ込んだ。
できればこのまま目覚めないで欲しいと祈りながら。
上司から鬼のような電話が来るまでずっと。
知らない人の差し出す傘に入ってはいけない。
傘差し狸の差し出す傘に入ってはいけない。
そのままとんでもないところに連れていかれるから。
それは物理的な場所とは限らない。