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おいしい朝食で心が大回復した。ご飯の力は魔術にも勝るかも。
大満足で部屋に戻る途中、私ははたと足を止めた。
――もし元の世界へ帰る手段が、アメジストの魔術しかなかったら。
なるべく離れないように、くっついているべき……?
それだと前提が変わってしまう。どうしよう。お腹いっぱいで頭が働かない時に気付いてしまうなんて……。
まずは状況を整理してみよう。
私は元の世界へ帰りたい。
帰る方法がわかるまでは、なるべく安全に暮らしたい。魔物とかいる世界だし。
そのためにはお金がいる。だから安全な町への案内とそこでの一年分の生活費という条件で、魔本をアメジストに売ることにした。
案内の中にそのサービスは入っていなかったらしい。仕方なくアメジストを護衛として雇うことになった。
傭兵であるラズの話によると、強い人ほど報酬も高額になるらしい。
アメジストは強いはずの魔物を秒で倒す実力の持ち主だ。長く雇っていると大赤字の予感。
……というのが、ここまでのおさらい。
そしてやばい魔術士のアメジストは、私を元の世界へ帰すことができるかもしれない……?
これはあくまで私の願望みたいなものだけど。
どちらかというと、アメジストの魔術以外は期待できそうにない、って感じ。
まだこの世界へ来たばかりだし、結論を急ぐのは早計かもしれないけど。
とりあえず現時点での問題は、安全な町で引きこもるか、それとも魔術に期待を込めてアメジストにどこまでもくっついていくか、だ。
率直な気持ちを言うなら、むしろ今すぐ離れたい。
だってあの人やばいもん。もう疑う余地ゼロだよ。やべーよまじで。
魔物みたいに強いという点は、この世界にいる限りむしろ頼もしいんだけど。あの性格がな。
子供が泣いて助けを求めてるのに、無表情で「それがどうかしたか」だよ?
人体実験とかも平気でやりそうだし。(というよりもうやってますよね。)
私になんかそういう、恋愛的な気持ちなんて雀の涙程もなさそうなのに、魔本読む時だけ膝に乗せるのも理解不能のやばさ。
記憶がなくて不安になるどころか、そのことへの興味は魔本以下。名前にすら興味がないらしい。
記憶喪失ってそういうもの? なったことも、なったという知り合いもいないからさっぱりわからない。でも個人的な感覚で言えば、アメジストがいろんな意味で普通じゃないせいな気がする。
例を挙げたらキリが無いな……まだ知り合って二日程度なのに……。
なんにせよ、問題はお金だ。
アメジストと一緒にいる、イコールお金がかかる。
だったら護衛を雇わなければいいだけなのかもしれないけど、魔物のいる世界で無事に生き抜いていける自信もない。
異世界で最初に直面するのが金銭問題だなんて。次に寝て起きたら、もっと楽そうな別の異世界だったりしないだろうか……。
これといって結論の出ないまま、部屋の前に着いてしまった。
……またカツアゲ読書させられるのかな。やだなぁ。
ああそれより、ラズの依頼を一緒にやるよう説得しなきゃいけないんだった。気が重いよう。
そろそろ魔本いじめが定番化しそうだ……。
深呼吸してから、そーっとドアを開けて部屋の中を見る。
……あれ? アメジストの姿がない。
ドアを閉めてしっかり部屋を見渡す。やっぱりいない。まさかお風呂とか?
もしどこかに銭湯とかがあるなら私にも教えて欲しい。この宿にお風呂はなさそうだった。庭には水を汲み上げるポンプらしきものがあったけど、宿の中には水道なんかもない。
あーあ。早く家に帰りたいよー。
お風呂に入って、自分の部屋でゆっくりしたい。当たり前のことは当たり前じゃなかったんだと、異世界で思い知る……。
とりあえず着替えは欲しい。森歩きで服は汚れ、ジャージの裾はボロボロだ。
少し食休みしたら、貰った前払いで着替えを買いに行こうかな。アメジストに先に話をしておくべきかもしれないけど、いないし。
汚れた服で少し気が引けるものの、私はベッドに腰かけた。もちろん自分の方の。……自分のベッドに初めて触った。
昨日は夕飯の途中で寝落ちしてしまい、アメジストに部屋まで運んでもらったようだった。
そして何故か私は奴の膝の上で朝を迎えたのだ。
その体勢でずっと寝てたの? アメジストもよく足痺れたりしないな?
もうわけがわからない。と思う暇もなくそのまま地獄の読書タイムに持ち込まれて、ラズ達が来てくれた時は本当に天使に見えた。
着替えを買ったら、水を汲んでお湯を沸かして、適当な布とかで体を拭いたりしよう。タオルみたいなものがあれば嬉しいんだけど。
それからこの先どうするかも考えなきゃな……。
座っているだけのつもりが、いつの間にかベッドに横たわっていて、気が付いたら意識を飛ばしていた。(本来の意味で。)
◇◇◇
「起きろ」
……寝てはいない。意識を飛ばしていただけ……
「ぐえっ」
パーカーのフードあたりを掴んで引っ張られ、強制的に起こされた。そこは掴むところじゃない!
「村の周辺を見回った。魔物は見つからなかったが、守りは手薄だ」
目の前に立って言うアメジストを見上げる。あ、それで出掛けてたんだ。仕事早いですね。
それでも構わないなら……と続きを言う前に首を振る。
「できれば確実に安全そうな場所がいいんで。あと理想を言えば、気軽にお風呂に入れるような町がいいです」
「……風呂?」
私は寝起きの頭でアメジストにお風呂の尊さを語った。
家もいいけど、たまには銭湯も楽しい。温泉旅館なんて最高ですよね。
部屋に備え付けなんて望まないから、公衆浴場的なものがある町がいいなぁ。
不思議と大人しく話を聞いていたアメジストが、一つ頷いた。
「つまりぬるま湯で体を清潔にしたい、ということか」
そんな風にまとめられて、私のお風呂ロマンがしゅん、と鎮火する。
もっとこう、風情とかさ……。
「わかった」
いや、君はお風呂の素晴らしさを何もわかっちゃいない。この世には情緒ってもんがあってだな……。
ってそんなことより、ラズに頼まれてる件を話さなきゃ。と思い直した瞬間。
――――ざざーん!
私はいきなり波に呑まれて溺れかけた。また比喩じゃないやつ。物理的に、波。
「~~~~~!? ぶほぁっ!?」
水責め!? なんで私、唐突に拷問受けてるの!?
実際はほんの数秒だったのかもしれない。だけど混乱した頭では、いきなりどこかの海に突き落とされたのかと思うくらいの恐怖を感じた。
必死にもがくと、やっと波が消えた。ずぶ濡れの頭からぽたぽた水滴が落ちる。
な、なん……!? 何が起こったの?
涙ぐんで咳き込んでいると、今までよりは多少、感情らしきものがある声が降ってきた。なんか楽しそう……?
「これは意外と難しいな。よし、次は全身いくか」
なん……? 今のGOサイン、なに……?
服のポケットから、すっと魔本が抜き取られる。待て待て、なんで魔本取るの? 嫌な予感しか……!
――――だっぱーーーん!!!
再び特大の波に襲われ、今度は頭からつま先までしっかり水の中だった。
「……威力を無くし、火、風もごく微量に起こす……」
何か言ってるみたいだけど、水音で全然聴こえない。
私の全身を温い水が包み込み、ごうんごうんと音を立てて水流が上下左右に動くのを繰り返した。
違う。これはお風呂じゃない、洗濯機だ。
冗談じゃなく溺れそうになった頃、ようやく水が引いていった。
濡れ鼠状態でベッドに倒れ込み、咳き込みながら必死に呼吸する。
普通に溺死するとこだったんですけど!?
文句を言いたくても、空気を取り込むので精一杯だ。
すると今度はふわりと風を感じた。ほんのり温かい。そよ風が全身を心地よく打ってくる。
……と思ったら、風の勢いがどんどん増してきた。
ブオーくらいだったのがゴオーになっていく。まるで風力が台風レベルの、巨大なドライヤーを当てられているかのよう。
いや強い強い! シーツが顔に張り付いて、また呼吸困難になりかけた。髪が顔を打って地味に痛い。あ、枕が吹っ飛んだ。
顔のシーツを引き剥がし、ベッドに必死でへばりつく。
暴風の中どうにか薄目を開けると、魔本を片手に見下ろしてくるアメジストの顔は、ほんの少し口元が緩んでいた。
わ、笑ってやがる……。(笑顔なのか判定が難しい表情だけど。)
今まで魔物とか鬼とか思う時もあった。だが違う。
こいつは魔王だ、間違いない。