84
崖の上から海を眺める。渦の様子に変化はない。
そろそろ蝕も終わる。
諦めて宮殿へ戻ろうとした時、渦が大きく波立った。
ゆっくりと流れを止め、瘴気を吸い込み逆回転を始める。
回転の勢いが増し、あたりに暴風を巻き起こした後、渦が急停止した。
凪いだ海面から球体が現れた。
卵のような形のそれが空中に浮いたまま、少しずつ成長していく。
この卵から竜が孵るのだろうか。
成長を続ける卵を見守っていると、海底から近付く気配があった。
欠けた月を映す海面を荒らし、巨大な魚が顔を出す。
司令官が乗っていたあの怪魚だ。
崖に近寄ってくると、大きな目を寄せ竜の卵を眺める。
攻撃する意思はない。
そう判断した直後、巨大な口が開いた。ようやく人の頭ほどに育った卵を海水ごと吸い込み、呑み込む。
…………悪食にも程がある。
禁術の設計も問題だ。何故卵から始めた。せめて幼体にしろ。
空腹を満たすのが目的とも思えないが……。どこか濁った双眸に感情らしいものは読み取れない。
何にせよ生まれかけた竜は怪魚の腹に収まってしまった。
残念だが、その程度の存在だったということだ。
虚しさを感じながら踵を返しかけた瞬間、島が揺れた。
怪魚を中心に海が激しい波を起こす。
魚が咆哮を放つ。波濤が周囲の岩を粉砕した。
なかなかの破壊力だ。竜の卵を喰ったことで力を得たのだろう。
少なくとも卵より強大な力を感じる。竜魚とでも呼ぶべきか。
再び竜魚が吠えるとその身を瘴気が包んだ。
こいつも瘴気を生み出すことができるらしい。異変を誘導している者の目的は、この特技を持つ生物を増やすことなのか。
時間をかけて観察したいところだが。これを野放しにすれば異変は確実に悪化するだろう。
竜魚の上空に雷雲が集まった。轟音を立て、俺がいた場所に稲妻が落ちる。
飛びのいた先にも落雷の連打が追いかけてきた。
どうやら向こうも俺を逃がす気はないようだ。
雷撃で崩れかけた崖を駆け下りる。
口を開け水術を吐き出すのを避けた後、岩を蹴って竜魚の背にとび降りた。
そのまま瘴気を奪い、鱗ごと素手で刺し貫く。
だが身の一部を削った程度で暴れ回られ、海へ振り落とされた。
一時的に力は増したが、今までのような威力は出なかった。瘴気の量が不足していたのか。
怒りに満ちた唸りと共に、竜魚を更に厚い瘴気が覆う。
尾ひれでの攻撃を避けつつ岸に上がり、もう一度瘴気を奪おうとしたところ、
『アメジスト様っ……!』
暴れる竜魚の立てる波に逆らい、肉が近付いてきた。近くに潜んでいたらしい。
『邪魔だ。宮殿へ戻れ』
『瘴気をお使いになるのはおやめくださいませ』
波に耐え、必死に訴えてくる。
説教するためにわざわざ出てきたのか。鬱陶しく思いながら通信を返した。
『瘴気はただの力だ。お前達が忌避するのは勝手だが、俺にとっては魔力同様……いや、もっと近しいものだ』
自然と出た言葉に自分で納得した。
瘴気はなによりも俺に近い、本質的なもの。そんな気がする。
『いけません……。いつか代償を払うことになりますわ』
代償?
精神を失調するとかいう話か。俺に影響があるとは思えないが。
竜魚が岸に向かって突進してきた。肉を抱えて島の奥へ移動する。
砂浜を破壊しながら乗り上げた竜魚が吠え、瘴気が増す。
魚の腹が蠢き、そこから四つ足が生えた。ガビアロドンのものに似ている。
何度も衝撃を受けた崖が大きく崩れた。下敷きになった竜魚が、土砂の中で不慣れな足をばたつかせる。
崩壊寸前の島に残った足場で闇の攻撃術を用意する。威力を高めていると背後の肉が鳴き声を上げた。
『お待ちになって! 死骸から大量の瘴気が流れ出し、海が汚染されます』
『肉、今日は妨害ばかりだな』
『申し訳ございません。ですがこれ以上瘴気が増えれば、もうこの海で暮らせるのは魔物だけになるでしょう』
この海がどうなろうと、俺には関係ない。
……だがここにあいつがいれば、何とかしろと騒ぐだろうな。
『だったらどうする。相手は悠長に待ってはくれないぞ』
『海の魔力をお集めになって。わたくしが先導いたします。その力であの者を海底へ封じてください』
『海の魔力? そんなものどこにあるんだ』
『お持ちの魔力を海へお渡しくださいませ。力を還してくれます』
魔力を海へ渡す?
失敗すれば魔力を失い、竜魚を倒す手段まで失うことになる。
狂っているとしか思えない提案に振り返ると、真剣な表情で頷いた。
『アメジスト様にならできますわ』
土砂から這い出てくる姿が更に変形した。
大きく裂けた口から牙がのぞく。尾ひれは長く伸び、全身が横に平たくなっている。魚よりも爬虫類に近い。
呑まれたガビアロドンの魂の方が勝っているのかもしれない。
何かを得るために何かを捨てる。時にはそんなやり方も必要だということか。
意識を内側へ向ける。
魔力を錬成することなく、手の平から海へと吐き出すような感覚で流していく。
そうしてひたすら魔力を放棄した。
竜魚が這い寄ってくる。俺のことも丸呑みしたいらしい。
ほとんどの属性が空になり、闇の魔力を半分ほど流したところで逆流が起きた。
どこからか俺のものではない魔力が流れ込んでくる。
『今です!』
肉の合図で眼前に迫っていた口腔へ手の平を向けた。
海から返還される魔力が、俺を通して竜魚へ放たれる。
広がる水の膜が瘴気ごと巨体を包み込んだ。
暴れ回る竜魚を閉じ込め、巨大な水球が徐々に縮んでいく。それにしたがい中で竜魚の身も縮小する。
気付けば竜の卵程度の大きさになった頃、水球がひとりでに空中を漂い、海に落下した。
水球が海底深く沈んでいく。同時に流れ込んでくる魔力が止まった。
『お見事でしたわ』
竜魚の封印に成功したらしい。
試しにもう一度、魔力を海へ流した。魔力が還ってくる気配はない。
新しい力の使い方を知ったのはいいが、いつでも自由に使えるものではなさそうだ。肉の補助がなければ成功しなかっただろう。
どうもこういった期待外れがよく起こる。俺は運がないのか……?
◆◆◆
『不完全なものだったとはいえ竜を封じるとは。感服いたしましたぞ』
宮殿へ戻ると、大精霊の広間にマーナイゴンの長老がいた。
捕まっていた者達から話を聞き、二匹の護衛と共に禁術を見届けに来たらしい。
『竜について知っていることを全て話せ』
長老の語る伝承を簡単にまとめると、“強大な力を持つ凶悪な存在”というものだった。
姿も行動も一定ではなく掴み所がない。
凶悪とされる点は主に、瘴気を発生させ自在に操ることが理由らしい。
異変を誘導する者の目的は、竜の創造なのだろうか。
だとすれば今回の竜魚を含め、これまでに遭遇した瘴気を生み出す生物は、そのための実験動物か。
粗方話し終えると重い息を吐いて続けた。
『竜が現れれば楽園の主が復活する、でしたか。一体どういうことなのか、皆目見当もつきません。お目覚めになられたとして、この方の力で竜を封じることはできても、女神様のように従えるのは難しいでしょうな』
言いながら大岩を見上げる。
『竜を服従させた女神……エルテクタだったか。それはただの神話だろう』
『陸のお坊ちゃまには女神様の存在は信じられませんか』
『少なくとも存在するかしないかといった話に興味はないな。ともかく、竜の不完全体によって大精霊が復活することはなかった。おそらくあのガビアロドンをその気にさせるための方便だろうな。奴に禁術を授けた者に心当たりはないのか?』
長老が首を横に振る。今回も黒幕は尻尾を掴ませなかった。
書庫の監視者の思惑も謎のままだ。それとも本命は貝の方で、これから何かが起きるのか。
さっさとアコ・ブリリヤを入手し、コハルと合流しよう。手紙は三日分あるはずだ。
『扉を開けてくれ』
俺の言葉に長老、肉と術者のマーナイゴンが集中し、奥の巨大な扉へと一斉に魔力を送った。
六属性の魔力を均等に受けた扉が重い音を立てる。光を溢れさせ、半分ほど押し開かれた状態で動きを止めた。
奥には回廊と似た透明な通路が伸びていた。
通路を進んだ先、外から見た時には何もなかったはずの場所に、広間より一回り小さな部屋が見える。
しかし部屋を覆う透明な壁に入口はなく、マーナイゴン達でも入ることはできなかった。
『そんな……女神様の御力は感じますのに。わたくし達も入れないなんて』
四方の壁を全て調べた肉が項垂れる。
『ここは楽園の主様の宝物庫。他者の侵入は許されないのかもしれませんな』
『つーか物がゴチャゴチャ積んであって、宝があるのかどうかもわからないよ。片付けられないメスだったのかねぇ』
『……うっ……』
『なんであんたが頭を抱えるんだい?』
『い、いえ……急に謎の頭痛が……』
『……まさかあれもアコ・ブリリヤなのか?』
乱雑に散らばる物の隙間から、部屋の中央で口を開く二枚貝が見えた。
『ふむ。見たことのない大きさですが、そのようですな』
本来なら手の平ほどのはずが、貝の中に人が一人収まるほどの大きさだ。
『宝石は出来てないけど、生きてはいるみたいだね』
『……ブリリン……』
『ブリリン?』
どこか虚ろな眼差しの肉が呟いた時、巨大な貝がわずかに身を震わせた。
マーナイゴン達が部屋を覗き込む中。あるはずのない気配を感じ、思わず望遠を起動した。
感知できる範囲にいるはずがない。だが妙な胸騒ぎがする。
周囲の海をくまなく見渡す。同時に探知を使いながら探っていると、視野にその姿が映った。
身体を丸めて何かを抱きかかえるような体勢で沈んでいく。海面に近い、落ちてからまだ間もないだろう。
「コハル!」
薄く開いた黒い瞳と視線が合う。
両手で握りしめた物が淡く輝き、闇の中に漂う姿を浮かび上がらせた。