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この世界に女神は二人いるらしい。
一人はルクスダイア。もう一人はエルテクタ。
書き方教室・魔王塾のお蔭で、だいぶ文字を書けるようになってきた。
もちろん“アメジスト”の綴りなんてもう完璧だ。
前に間違ったことをまだ根に持っていたのか、百回くらい連続で書かされた。
……実はこの綴りも間違いでした、とか言わないだろうな……?
そこで原典、懐かしのお姫様と竜の恋物語で確認してみたところ。(はい、魔王様が正しかったです。)
女神様の名前、なんか引っかかるんだよな~。
以前リチアに教わった時、何故かそう思った謎がやっと解けた。
エルテクタ。それはこの物語の姫の名前だったのだ。すっかり忘れてた。
この物語、作者も、いつ書かれたのかも不明。姫に女神の名前を付けた理由も。
竜という存在も謎めいている。今のところ他の本に登場していたことはない。リチアの基礎知識でも習わなかった。
元の世界と同じく、想像上の生き物なんだろうか。この世界ではもっとマニアックな架空生物なのかもしれない。
それとこの話はどうも未完らしい。最後のページから先は、どれだけ念じても出てこなかった。
うーん。今まさに執筆中、ってことはないかな。もし待っても続きを読めないなら、ちょっと残念……。
一息ついて、私は魔本を閉じた。
今はフィンダルの国境近くにいる。
まだ治安の悪さは感じないものの、エミーユと比べるとどことなく雰囲気が暗く、この町もいまいち活気が足りない。
このあたりは中央からは遠いとはいえ、街道の整備も行き届いていなかった。
たまたま入った店の料理も、素朴を通り越した大雑把な味付けだ。
唯一美味しいと思ったのは、分厚いお肉をただ焼いただけのやつ。
それをもりもり食べていると、辛すぎる野菜炒めを無表情で片付けた(無理だったので処理をお願いした。)アメジストが口を開いた。
「目的の場所には幻の美味と呼ばれる肉が存在するそうだ」
肉を頬張りながら顔を上げる。
余程おいしいんだろうな。口の中で幻のように溶けちゃったり。なのに食レポとしては普通のコメントになってしまったり。
正面に座るアメジストがうすく微笑んだ。
いつもの嫌な笑い方ではない。優しそうと表現してもいいレベルだ。
だけどその理由がわからないせいか、悪意に満ちた微笑みよりも怖い気がした。
「楽しみにしていろ」
ということはいつか食べられるのかな? 幻の美味を味わえるなら、それはすごく楽しみ、なんだけど……。
非常に珍しい魔王の柔らかい表情を眺めながら、私はなんともいえない気分で素材の良さだけが際立つ肉料理を完食した。
◆◆◆
アコ・ブリリヤとは特殊な貝から採れる宝石のことらしい。
ごく一部の海底に存在する貝が特定の条件下で生成するものだそうだが、その間隔はおよそ百年に一度とする説もある。
該当する海域は昔から原因不明の遭難が起こりやすく、魔物の生息域だとも言われるが、詳しいことはわかっていない。消息を絶つ船が多く、調査も進まないらしい。
そうした入手条件の厳しさも、奇石と呼ばれる所以のようだ。
フィンダルに入って間もなく、書庫に渡ると光る本の誘いがあった。
示してきたのはアコ・ブリリヤの概要と、ある生物の情報だ。
『《マーナイゴン》……魔力を持つ稀少な生物。幻の美味とされるその肉を食べた者は、瘴気から身を守られるという伝説がある。生息地:シャルーク海』
またわかりやすく俺を釣れそうな話を持ちかけてきた。
シャルーク海とはアコ・ブリリヤがあるとされる海域だ。何としてもそこまで連れて行きたいらしい。
それほどこの奇石が欲しいのか、俺やコハルにそこで何かをさせる気でいるのか。
おそらくはまた妙な事が起きているのだろうが……。
「行くのは構わない。だがいい加減、正体くらい明かしたらどうだ」
審査をする気があるかはともかく。監視者の存在については、もはや疑う余地はないだろう。
とはいえその筋書きに、満足いく結末を本気で期待するほど愚かじゃない。
俺か、コハルか。それとも両方か。
誘導する先に何らかの罠が仕掛けられている可能性も、今後は考えに入れておいた方がよさそうだ。
こうして書庫を利用する限り、誘いを断ったところで大した意味はない。
だったら力を得られる可能性が高い道を選ぶ。この判断もどうせ把握済みなのだろうが。
しばらく待つが返答はない。
俺は本を閉じると書庫を後にした。
◆◆◆
「ご覧ください魔王様」
顔を向けると神妙な声で続けた。
「最近お馴染みのアレかと愚考します」
「だろうな」
港を指差すコハルに同意する。
波打ち際には大量の魚が打ち揚がっていた。
漁をした成果ではない。魚が勝手にとび込んできているという。
一見歓迎すべきことにも見えるが、食用には適さない深海魚などが多いようだ。
この港町ではここ数日、他にも妙なことが度々起きているらしい。
まだ魔物が出没するといった話まではないものの、何らかの異変が起きているのは想像に難くない。
見上げてくる黒い瞳に視線を合わせる。
「解決してみせれば、また一つ信頼が積み上がるわけだ」
「積んじゃう積んじゃう。ジェ○ガのように!」
それは積んでいいものなんだろうな。
ここから出航し、南に進めばシャルーク海に入る。
推測通りならば、異変の根本はそのどこかで発生しているはずだ。
書庫からの監視などの説明は省き、コハルに目的地を告げた。
「じゃあそこまで行くついでに、異変を見つけて解決できれば完璧だね。でも大海原の真ん中にどうやって行くの? 魔術?」
「そこまで都合のいい術はない。船で行くしかないだろう」
「普通に船旅かぁ。酔ったらどうしよう」
そう言って危機感という言葉を知らないとぼけた顔を、さらに緩ませた。
「スワンボートなら何度か漕いだことあるけど。実は船に乗るの初めてなんだ~」
どうやら観光気分でいるらしい。
とはいえ行き先が問題だ。ある程度金を積んだところで、出航を渋られる可能性は高い。
安物の船ならば買えるかもしれないが、安全面に問題がありそうだ。
足で漕ぐ小舟について語る能天気な笑顔を眺めるうちに、ここへ来るまでに耳にした情報を思い出した。
「コハル。お前は“善行”を好むようだが」
「何、いきなり。好きっていうか……解決できそうな力があるのに困ってる人とかを見過ごすのは、どうなのかなって思うだけで」
「可能な範囲で、人を救ってやるような選択をしろ。結局はそういうことだな」
戸惑いの表情のまま頷く。
「目的地へと到達し、善行も行える良案が浮かんだ」
服の腹部分に両手を入れ、コハルが半眼で見上げてきた。
「アメジストが言う善行とか良案って、なんか怪しいんだよなぁ……。積みかけた信頼をぶち壊す真似だけはしないでね。ジ○ンガのように」
それがどんなものかは興味もないが、やはり積んでいいものではない。
首の後ろのフードを掴む。喚いて逃げようとするのを制御しながら、夕暮れの町を喧騒の方へと進んだ。