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樹海。
という言葉に、なんとなく怖いイメージを持っていた。
だけどその単語自体は、“高い所から見ると、生い茂った樹木が海のように見える”というような意味だと知った時は拍子抜けした。特に怖い意味もないし、むしろ綺麗な景色のようにも思える。
いつの間にか変な先入観を持っていたんだな、と気付いた。
そして今。樹海という言葉がぴったりの光景が、私たちの前に広がっている。
風も無いのに波打つツタ。びたんびたんと激しく地面を打つ様は、さながら荒ぶる大海原のよう。
ツタの巻き付く樹木自体も、小刻みに震える動きを繰り返し、たまに大きく頭を揺らす。
それらが鬱蒼とした森をぐるりと取り囲むように密生していて、大きなうねりを生んでいた。まさにビッグウェーブ。
「おー。今日もキレッキレすわ」
パドルを持つ手を休めて、ジャンが感心したような声を出す。
こんなの、先入観抜きでまるっきり恐怖の樹海じゃないですか。
一歩でも足を踏み入れようものなら、ツタの鞭にしばかれて遭難すらできずに終わりそう。今まで訪れた魔物の生息域だって、ここまでやばい外観の場所はなかった。
「え、これがアゴラ大森林!? 本に載ってたのと全然違うけど!?」
魔本で読んだ内容も、こういう樹木や蔓草なんかが密生するいわゆるジャングルだった。だからって、こんな荒ぶる動きをするなんて聞いてない。
ジャンが振り返り、驚く私に緊張感のない笑顔を向ける。
「ハルコってば。だから異変だって言ってるじゃないすか」
「ハルコじゃなくてコハルです」
名前を間違えるジャンに訂正を入れると、私たちを交互に見た後、テンちゃんが小首を傾げた。
「ハル……コ?」
「違うよテンちゃん。私の名前は、コ ハ ル」
「コ……ハル」
しっかり言い聞かせると復唱し、こくりと頷く。かわいい。
「岸側の植物は比較的大人しい。この先にある桟橋から上陸する」
隊長がパドルを操り、少しずつ軌道をずらしながらカヌーを進ませていく。
岸に近付いてきたあたりで、苦み走った顔を更に渋くさせて振り向いた。
「それにしても、以前よりも活発になっているようだ……。皆、気を引き締めて臨んでくれ」
◇◇◇
隊長の言う通り、上陸したあたりの木やツタの動きは他の場所程キレはなかった。
若干震えている蔓草が垂れ下がる緑のアーチを抜け、私たちは大森林の奥目指して進んでいく。
延々と動く植物が出迎えてくるのかと思いきや、どうやらあれは大森林の外側部分だけらしい。
中はいかにも熱帯といった雰囲気の植物が生い茂っていて、わりと普通のジャングルだ。他のジャングルに行ったことはないので、あくまでイメージ。
かなりの蒸し暑さを覚悟していたけど、案外気温は他の場所とそれ程変わらない。これならチョコも溶けなかったんじゃないだろうか。
いかにもジャングルな見た目とは裏腹に、森の中は不自然なほど静かだった。今のところ動物は一切見かけないし、鳴き声なんかも聴こえない。
テンちゃんの話では、蝶の幼虫に寄生されて行動が変わったり、狂暴になるものが増えたせいか、今までいた動物たちがどんどん森の外へ出てしまっているということだった。
説得を試みても、寄生された相手とはコミュニケーションが取れなくなってしまうらしい。しょんぼりしながらそう語っていた。
その上今まではいなかった魔物も出現しだして、普通の動物が暮らすには厳しい環境になりつつあるようだ。
いくら変化できたり魔術が使えるといっても、このままではテンちゃんだって暮らしにくいだろう。早くなんとかしてあげたい。
「ここも魔の森認定されちまうのかなー」
独り言のような呟きに、隣を見上げる。
「瘴気がなくても、魔物がいれば魔の森になっちゃうの?」
「まあ魔物がいれば遅かれ早かれ瘴気も溜まっていくんじゃないすかね」
「へー。そういうものなんだ」
「そういうものっすよ。知らんけど」
どっちだよ。
今、私の隣を歩いているのはジャンだ。
大森林に入る手前で障壁をかけた後、アメジストは私たちの後方でひたすらマガタと話している。
前方では剣を抜いた隊長が、たまに邪魔な枝や蔓草を払いつつ先陣を切っていた。その斜め後ろあたりをテンちゃんが四足歩行している。
間に挟まれた私たちは比較的安全なポジションということもあってか、なんとなくダラダラと会話が続いていた。ジャンがとにかくお喋りなせいだ。
「ハルコはさー、」
「だからコハルだってば!」
ジャンがまた私の名前を間違える……絶対わざとだ。歩きながらちらっとテンちゃんがこちらを振り向いたので、私はもう一度「コ ハ ル」と念を押した。
「珍しい名前っすよね。どこの出身?」
……おっと? 久々に来たな、この手の質問。
「スロシュのかなり奥の方かな。人なんて全然来ないド田舎だよ。あるのは大根畑くらい」
ある意味それほど間違ってもいない設定で返してみた。この世界に来て最初にいたポイントは、スロシュ王国の魔の森、大根畑の奥あたりだったから。
私の返答に特に疑問を持った様子のないジャンが、こちらを見たまま視線を少し下げた。
「ふうん。つーか彼氏の束縛半端ないすね」
「はあ? ……って束縛されてるっ!?」
つっこみ所満載の発言をどこから否定しようかと口を開いたら、一部は事実だった。いつの間にか私の腰元に、あの黒い紐が巻き付いている。
とはいえ正しくは“護衛の命綱”だと訂正しておいた。
「護衛してくれる彼氏なんて最高じゃないすか」
「だから彼氏じゃなくてただの護衛!」
すかさず訂正を入れる。ジャンの発言はどこまで本気なのか冗談なのか、区別がつかない。アメジストとは別の意味で面倒臭いお兄さんだ。
「オレさあ、実はあの時村にいたんすよ。いきなり現れて片手振っただけで風向き変えるわ、水ドバー出したと思ったら水溜まり一つ残ってないわ、まじやべーのなんのって。仕事柄何度か魔術士って奴も見たことあるけど、全然次元が違ったわ」
あの時、ジャンにも見られてたのか。アメジストの魔術は傭兵も認めるレベチらしい。
「ハルコ、どこであんなやべー兄さん捕まえたんすか? ちなみに告白はどっちから?」
そう次々畳みかけてこられると、訂正が追いつかないんだけど……。
変なあだ名もテンちゃんが混乱するみたいだからやめて欲しいのに。ほらまたこっちをチラ見してる。
「テンちゃん、コハルだよ。コハル。……詳しいことは省くけど、私たちは正当な取引の上で護衛とその対象という関係に至っているだけなの。利害の一致ってやつ。ジャンの思うような間柄では一切ございません」
きっぱり言うと、ジャンのヘラヘラ顔が嫌なニヤニヤ笑顔に変化した。
「ハルコはお子様だね~、そんなに信用しちゃって……。後で裏切られても知らねえっすよ」
信用? 私が、アメジストを?
やばい奴だということには確信を持っているけど、それは信用という言葉とは程遠い感覚のような気がする。
そんなふうに返そうとした時、隊長の鋭い声が響いた。
「――皆、気をつけろ。魔物だ」
鬱蒼としているのは相変わらずでも、そこは今までよりもかなり広々とした空間だった。
樹齢何千年?と言いたくなるような巨木がいくつもそびえ立ち、はるか上空で枝葉を広げている。地面は苔むしていて、少し先の方からせせらぎのような音が聴こえた。ガンラル川の支流があるのかもしれない。
そうしたどことなく神秘的な景色の先に、明らかに不自然な白い霧が溜まっているのが見えた。まるで高い壁のように、前後左右にぶ厚いもやもやが漂っている。
その霧の壁の前に魔物が一匹、ぽつんと佇んでいた。
サッカーボールくらいの大きさで、体は全体が透明感のある青。顔も手足も何もなく、時々プルプルと震える様は、まるでバケツで作った巨大ゼリーのよう。
見た目の印象は、いわゆるスライムだ。ゲームなんかでよく最初の方に出てくる、雑魚モンスター。
「うわ出た。厄介なやつ……」
ジャンが呟いた。顔を顰めて剣を抜き、重い息を吐く。
「そんなに強いの?」
「や、強くはないんすけど。とにかく面倒なんすよ。なんか色違いの仲間呼ぶし、集まると合体して魔術使ってきたりして」
「アメちゃん」
マガタが仮面を向けると、アメジストが頷いた。
「お前たちは下がっていろ」
一度皆を見渡してからそう言うと、妙にやる気をみなぎらせてスライムの前に躍り出る。
こう言っちゃなんだけど、青銀の傭兵ジャンが弱いという魔物が、アメジストを楽しませてくれるとは思えないけどなあ……。秒殺して残念顔する羽目になるんじゃないの。
結論から言うと、思っていたよりは長期戦だった。
ただしどう見ても苦戦している感じはない。多分、また実験だ。
色違いの仲間たちが呼ばれる度に律儀に現れる。でも最後の方に来たやつは、遠くの茂みで窺いながらしばらくプルプルしていた。仲間への友情と本能的な恐怖との間で葛藤していたんだと思う。
魔物を倒した後、(スライムたちに合掌して)、私たちは揃って霧の壁の前に立っていた。
これはただの霧ではなく、本当に壁のようなものらしい。触ってみると、柔らかい不思議な感触で押し戻される感じだった。
マガタが言うには、この霧を通り抜けて行けるのは陰陽蝶だけだという。見ていると、たまにあの蝶々が霧に入ったり出てきたりしていた。
もしかしたら危険な虫なのかもしれないけど、瑠璃色の中に金や銀の粒が散りばめられた鮮やかな羽は、やっぱり綺麗でつい見惚れてしまった。
テンちゃんの傍でも一匹ひらひら飛んでいる。テンちゃんが視線を向けると、なんとなく離れて近くの茂みにとまった。
マガタが霧の壁をぽんぽんと叩きながら言う。
「これがアメちゃんに協力してほしい理由。この壁を転移して、皆を向こう側に運んでくださいな」
「魔術で壊せないのか」
「もし出来たとしても、今はしたくないね。これ多分、森の女王が作ったものだろうから。手荒なことして怒らせても面倒でしょ。わしらはあくまでこの異常を解決するために来たんだし、まずはこの先の様子を見に行かなきゃね」
ちょっと面倒臭そうな空気を出しつつ、アメジストが言われた通り集中し始める。
転移って、瘴気機関でいきなり目の前に現れたやつのことだよね。
驚くべき瞬間移動、アメイジングなテレポート……略してアメポートだ。ついついまた名付けてしまった。
アメジストの姿がぶれた気がした次の瞬間、景色が変わっていた。
後ろを振り返ると、それまで前にあった白い霧の壁が見える。
アメポート、成功。
「……お前だけか」
隣の呟きに、辺りを見回す。本当だ、私たちしかいない。
壁の向こうで声がした。他のメンバーは転移できなかったらしい。
アメポート、微妙に失敗。
何度試しても、壁の先へ行けるのは毎回私たち二人だけだった。
「……うーん。あともう一歩、って感じなんだけどねえ……」
「何が足りないんだ。魔力は十分ある、構成も破綻しているようには思えない」
「それなあ……ふうむ……」
マガタと二人でなにやら喧々諤々、魔術談義を繰り広げる。
私たち外野は、それを見守りながら適当に時間を潰した。
そのうちジャンが手の中の硬貨を消すというシンプルな手品を始め、タネを暴こうと躍起になっていた頃、アメジストが隣に戻ってきた。
それから流れるような動作でジャンの手元から私の手を剥がし、きゅ、と握りしめる。
……え? なん、……え?
思わず呆然と、なにやら真剣な眼差しで見下ろしてくる無表情、繋がれた手を交互に眺めた。
静まり返る現場。誰か説明して。たった今事件、もしくは事故が起きてます。
謎の見つめ合いの後。場に沈黙と困惑をもたらした元凶が、無表情のままぼそっと呟く。
「…………で?」
いや、何がだよ。こっちが聞きたいのよ。
硬直を解いた隊長が、赤面しながら私たちを叱りつけた。
「こ、こらっ! だから節度を守れと……っ! そういうのは二人だけの時にやりなさい!!」
……あー。節度って、あれそういう意味だったのか。