47
速度が徐々に落ちてきて、肩のあたりに埋めていた顔を上げた。
視界の端に小さく、風車に似た建物がいくつか見える。前にスロシュで見たものと同じ、瘴気機関だ。
隣を走っていたマガタが立ち止まる。それに合わせてアメジストも術を解除した。
「老師も魔術士だったんだね」
アメジストから降りて地面の感触を味わいながら言うと、白と黄色のパンダのお面がゆったりと上下した。
風に乗って高速移動する魔術、アメジェットをマガタも使えるらしい。取り調べを受けていた村の民家を出た後、二人(とアメジストに抱えられた私)は術を使って一気にここまで移動してきた。
「うん。正確には方術士ね」
あ、そっか。本来この国で魔術を使っていいのは、方術士っていう有資格者だけなんだっけ。
マガタがこちらを振り向き、のんびりと言う。
「ハルちゃんとアメちゃんは、仲良しだねえ」
私はにっこり笑顔で首を振った。もちろん、横に。
「お面のせいで視界が悪いんじゃない? 危ないから取った方がいいよ」
「ハルちゃんの照れ方は独特……」
このじじ……いやおじいちゃんったら。独特なのはそっちの老眼だ。
私へのハルちゃん呼びはともかく。魔王を可愛いあだ名で呼ぶ豪胆さに敬意を込めて「老師」と呼ぶことにしたけど、やっぱりマガパンダとかに変更しようかな。
「それで? あの群がっているのを掃除すればいいのか」
マガタに向き直ったアメジストの言葉に、私は瘴気機関の方を眺め、周囲を見回してから首を傾げた。
どこに何が群がっているのだろう。これといって何も見当たらないけど……。
「まあそう慌てなさんな。関係者に連絡するからちょっと待ってね。……あ、盗聴しちゃだめよ」
アメジストをびっと指差した後、マガタが少し距離を取って目を閉じた。
口は動いていないのに時折、うんうんと頷いている。……念話かな? それなら盗聴の心配はなさそうなのに。それとも念話すら魔術で盗聴できるのだろうか。
隣を見上げると、盗聴に励んでいるわけではなさそうな無表情で見返してきた。
「珍しいね。大人しく協力するんだ」
「瘴気機関の内部に入れる機会はそうないだろうからな」
工場見学とか好きなタイプか。私はどちらかというと最後に貰えるお土産の方にテンションが上がるタイプ。
「アメジストって瘴気吸うと元気になるでしょ。あれって魔力に変換してるの? 瘴気機関みたいに」
何気なく言ったら、紫の瞳でじっと見つめてきた。
「な、なに?」
「……妙なところだけはよく勘付くな。この内部はどういう構造になっているんだ」
言いながらまた頭を鷲掴みしてくる。その内部は見学できるようになっていないので、興味を持たないでください。
……もし本当に頭の中を覗ける魔術があったらどうしよう。念話を盗聴できる術があるなら、あるのかも……。まずい、下手なこと考えないようにしないと。
「ほい、お待たせ。じゃ行きますか」
関係者への連絡を終えたらしいマガタが戻ってきた。
すると鷲掴みしたまま障壁をかけられた感じがした。魔物がいるのだろうか、一見どこにも見当たらないけど。
その後、中へ入るための鍵を取り出したマガタに小さく手招きされて近寄ると、瞬きする間もなく瘴気機関の中へと移動していた。
私とマガタの二人だけで。
耳打ちされた指示通り、私は目の前の白い壁に向かって声を張り上げた。
「きゃー! アメジスト、助けてえ~」
きゃー、って人生で初めて叫んだかもしれない。
◆◆◆
「おい、マガタ! どういうつもりだ!」
魔力を込めた拳を壁に叩きつける。
だがその衝撃はただの石造りに見える壁に吸い込まれ、拳が石を叩く音だけが虚しく響いた。
「いや~! なんかもう言葉で表現できない大変なことに! ヘルプミー」
何度目かのふざけた悲鳴が壁の先から届く。
相変わらず危機感の欠片もない。それどころかこの状況を楽しんでいるとしか思えない声だ。
このところ甘やかしが過ぎていたせいなのか。逃げられる心配をするより先に手懐けておこうと、必要以上に菓子を与えた結果がこれか。
目の前の瘴気機関の周囲には、陰陽蝶と思われる虫が大量に飛び交っていた。
この蝶は姿を消すことができる。俺には効かないが、普通の人間の目には映らないよう魔力を操れるようだ。動く度に薄い魔力を鱗粉のように振りまいている。
ほとんどはただまとわりついているだけだが、時折壁に溶けるようにして姿を消すものがいた。おそらく内部に侵入しているのだろう。中にはかなりの数の蝶が入り込んでいる可能性がある。
この蝶が人を襲うことはないというが、文献にはなかった異常な行動を取っている。油断はできない。
「ほれ、アメちゃんやー。早くこっちへ来ないと、ハルちゃんの言語表現がそろそろ限界よ」
ふざけやがって……。
マガタの挑発にまた壁を殴りかけ、思い留まる。この程度の攻撃をいくら繰り返しても無駄だ。攻撃術をぶつけても同じように全て吸収された。
光、闇の上位二属性が四属性を吸収するのとは、全く別の仕組みに見える。一体どういう技術なのか。
もしこの魔動の壁を魔術で応用出来れば、今使っている障壁よりも有用かもしれない。悔しいことに知る限りの魔術では、この壁の効果を打ち破る手段は思い浮かばなかった。
壁を砕くのが無理なら、他の手を考えるしかない。あの蝶たちはどうやって中へ侵入しているのだろうか。
蝶の様子を観察しながら、俺は苛立ちのままに壁を蹴った。
マガタは俺がコハルを守る理由を知らないはずだ。だがコハルを攫えば必ず追ってくると何故か確信しているらしい。
理由は分からないが、この行動で俺の何かを試そうとしている。人を食ったような印象以上に腹黒いじじいだ。
「本当に入れないの? 魔動ギルドの技術ってすごいんだねー。アメジストが手も足も出な……ひゃっ!?」
不自然に途切れた言葉に、蝶の観察は中断した。
望遠を使うもやはり無効化される。
「何があった! マガタ、説明しろ!」
マガタが今更コハルに危害を加えるとは思えないが……。返事はなく、中の様子を知ることもできない。
俺は闇の魔力を一気に錬り、攻撃術を用意した。
いくら魔力や術を吸収するといっても、限度はあるはずだ。
今まではコハルに当たることを考えて強力な術を試すのは避けていたが、仕方ない。障壁で防げるはずの限界まで威力を上げていく。
「こらこら。ハルちゃんなら大丈夫だよ。それより蝶をよく見てごらん、魔力の流れはどうなってるかな?」
宥めすかそうとするマガタの反応から、威力さえあれば壁を破壊できると確信する。
少し考えた後、術は維持しながらそれに返した。
「今すぐコハルを返せ。できないならまず隣の一台を破壊する」
周辺にはこれ以外にも三台の瘴気機関が設置されている。その内の一つに狙いを定めると、マガタの慌てた声が届いた。
「ほあっ!? だから落ち着きなさいってば、ほれ!」
その言葉と同時に正面の壁の一部が透けた。
壁自体はまだ存在し、魔力を吸収する効果も続いている。マガタの細工で中が見えるようになっただけのようだ。
コハルの姿を探す。マガタの傍で、その身に多くの蝶をとまらせている姿がこちらを振り向いた。
蝶たちは姿を消すのをやめ、コハルの周囲を飛び交っては、腕や頭にとまって羽を休めている。
「あ、アメジスト! 見て見て、綺麗な蝶々がいるよ。なんか私にだけどんどん集まってくるんだけど~」
何が面白いのか、蝶を纏わせながら笑顔を見せる。
蝶に攻撃の意思はない。あれば障壁が防いでいる、今のところ危険はないだろう。
……本当にそうか?
コハルの視線の先を、鮮やかな羽を見せつけるようにして蝶が舞う。
この蝶たちは何かがおかしい。生息地を離れ瘴気機関に入り込むのもそうだが、マガタは無視してコハルにばかり纏わりつくのも妙だ。
敵意はない。だが狂ったようにコハルの視界を飛び回り、差し出された指先に我先にと群がる。
見ているうちに、何故か苛立ちが増してきた。
この光景の何が腹立たしいのか分からない。
ただこのままぼんやり眺めている気にはなれなかった。
魔力を奪う壁。それを越えていく蝶は、自らの体を脱ぎ捨てるかのように溶かし、内部へ侵入していく。
俺も書庫に渡る時のように意識体にでもなれば、越えられるのだろうか。とはいえ役に立たない体で行っても意味がない。
擦り抜けていったものを再びこの手で捕える。
邪魔な障害は全て――――消す。
気付いた時、目の前に驚いた顔で見上げてくるコハルがいた。
蝶を纏わせた腕を取り、引き寄せる。ほとんどのものが一斉に飛び立ち、離れていった。
それでもしがみついたまま離れない個体は、魔力を指先に乗せて払いのけ消滅させる。
「ひどっ!」
コハルを背後に回し、奇怪な動物の面に対峙した。
「うわー。いきなり大技で来たねえ……」
呆けた声を出すマガタに蹴りを放つ。しかし老人とは思えない身のこなしで避けられた。
もう一度闇の攻撃術を用意する。
「一体何のつもりだ。下らない理由ならここで瓦礫の下敷きになってもらうぞ」
「わかったわかった。ごめんて。説明するから、ここでそんなのぶっ放さないでちょうだいよ」
「アメジスト、お年寄りにはもっと優しく……わー! ごめんて! ちょっと悪ノリしすぎました!」
振り向くと黒髪にまた蝶がとまっている。
術を解除し、頭を掴んで蝶を消すと、コハルが慌てて顔の前で両手を合わせた。
◆◆◆
「送気塔から送られてきた瘴気は、この原動機の中でいろいろやって魔力に変換されているらしいよ」
階段を登った先、二階部分にあたる足場で俺たちの前を歩いていたマガタが部屋の中央を指差した。
天井付近の壁から伸びた管が繋がるその装置、原動機の周辺では、いくつかの歯車が回り続けている。
魔力の発生器があるという内部を直接見ることはできないが、中で魔力が生み出されているのは感知できた。
「だけどその大事な機械が今、こんな感じになっちゃってます」
原動機の本体部分には、見慣れた黒い靄が取り巻いていた。更にその周りを蝶が飛び回る。
入り込んだ蝶のほとんどが、この瘴気に引き寄せられているようだ。まだコハルにも近寄ってきていたが、しつこい個体を消滅させているうちに数は減ってきた。
「ただの故障なのか、それとも誰かのいたずらか。原因はまだギルドの子たちにも分からないそうなんだけど、最近こういうことがちょくちょく起こるらしくて困っているみたいだよ」
マガタの言葉に改めて原動機にまとわりついている瘴気を見る。しかし他のそれと何が違うのかは分からない。
「この瘴気は魔力に変換できないということか。この状態の何が問題なんだ」
「うーん。放置したらどんな問題が起きるか分からないのが問題、かな。現に陰陽蝶がおかしくなってるのも、これが原因の一つかもしれないからね」
間の抜けた顔の動物の面が見上げてくる。
「アメちゃんは瘴気を吸収できるでしょ。この現象の犯人である可能性も否定できなくてさ。ハルちゃんを取り戻すために軽く侵入してきたり、瘴気を操ったりするようなら、こっちの件でも限りなくクロに近い容疑者だったよ」
どこかで瘴気を吸収するところを見られていたらしい。
魔術に長けた相手に気配を消されると気付けないのは、少々厄介だな。
「瘴気を自在に操る方法など知らん」
「そうだろうとは思ってたんだけど、まあ念のためね。それから陰陽蝶と同じことが出来るなら、大森林の方の問題にも力を貸してほしいなーって。……まさかぶっつけ本番で転移するなんて、じじいの想定を文字通り一瞬で越えちゃったよね」
転移。……あの移動のことか。
壁を越えてコハルの前に移動したあの力は、おそらく魔術ではない。望遠や操作に近い能力のように思えた。
マガタの知識をもっと引き出しておくべきだろう。大森林で俺に何かさせたいらしい、内容次第ではスピネリスを探すついでに引き受けてもいいか。
「魔動ギルドの奴らこそ、瘴気を操るすべも持たずにこんなものを世界中にばら撒いているとはな」
コハルの頬にとまった蝶を消しながら言うと、マガタが視線を原動機に戻した。
「どうなんだろうね~。わしもこうやって協力してるとはいえ部外者だし、魔動のことは詳しくないから何とも。瘴気についても詳しくはないけど、知っていることはあるよ」
仮面の下、金の瞳が瘴気を見据える。
熟練の魔術の使い手だというだけでは説明のつかない気配が、マガタには漂っている。底知れなさはあの金髪男と同等だ。
「瘴気は、いつのものか誰のものかも定かではない感情の影が、彷徨い歪み穢れながら混ざり合った、害の気。ふんわり表現すると、悪意、に近い感じかな」
瘴気の正体が、“感情”?
そんな話は聞いたことがない。今まで読んだ文献にも載っていなかった。
だがそれについて深く追求するより、先に仕事を片付けることにした。
「あの瘴気を全て取り除けばいいんだな」
「さすがアメちゃん、話が早い」
原動機に向け片手を差し出し、俺はマガタに報酬の確認をした。
「対価は情報だ。瘴気や陰陽蝶、魔術方術、お前の知る限りの知識を寄越せ」
「お、おお……欲張るねえ」
「はい! それめちゃくちゃ時間かかりそうなんで、一旦持ち帰ることを提案します! ご飯の時間が潰れたら、私の心が悪意すなわち瘴気を生み出してしまうかもわかりません」
片手を上げて割り込んできたコハルに、俺同様、脱力させられた仮面が項垂れる。
「ハルちゃん……その程度で瘴気は出ないから安心して」
「いっそ出してみろ。吸収してやる」
「いいから早く終わらせてよ」
また腹を空かせて機嫌が落ちてきたコハルが、差し出した俺の腕を取って動かし原動機に向けた。
瘴気機関内を隅々まで眺めた後、外へ出た。マガタが距離を取り、風の障壁を纏う。
また通信術だろう。しばらく待つとこちらを振り向き、片手の指を二本だけ立ててみせた。
「うちの弟子たちが頑張って、無事放火犯らしきそっくりさんを逮捕できたみたいだよ。やったね」