37
窓の外は、すっかり闇色に染まっている。
アメジストはもう宿に戻っただろうか。
私の書き置きは残っているのかな。もしあれを見たら、きっと怒って冷気出すんだろうな……。
一度、静かに深呼吸する。弱気になりそうな心を、なんとか奮い立たせた。
――よし。いける。
部屋の隅にいるリチアに視線を向ける。俯いていて表情はわからない。でも普段の優しく穏やかな雰囲気が萎んでしまっているように見えた。
落ち込んでいそうなところ悪いけど、私の決意は固い。空気を読んで引き下がるなんてできなかった。
「リチア」
傍に行って声を掛けると、ぴくっと肩を揺らしてから、ゆっくり顔を上げる。
どこか不安げに揺れる瞳をじっと見つめながら、私は真剣に、はっきりと告げた。
「耳、触らせて?」
それまで憂いを帯びていた顔が、ぽかんと呆けたものになる。
「……え? え?」
「耳もふもふさせて。お願いします。もふもふすれば私、この先絶対に挫けず頑張れるんで」
お願いします、どうかこの通り。後生ですから。
真摯に訴え続けたら、リチアが目を何度も瞬かせてから、噴き出した。
肩を震わせているから心配したら、今度はお腹を抱えて笑い出す。普段からは想像出来ない爆笑っぷりだ。
「そうよね、コハルはあのアメジストさんといつも一緒にいるんだもの。獣人なんて怖がるわけないか」
笑いを収めて吹っ切れたような口調で言うと、リチアは被っていた帽子を外した。
柔らかな髪の合間からぴょこんと、髪と同じ色の耳が顔を覗かせる。
いわゆるけも耳だ。
「可愛い! 尊い!!!」
私は昂る気持ちを抑えきれずにひたすら可愛いを繰り返した。異世界最大級の奇跡が今、目の前に!
「さあ、心ゆくまでどうぞ」
「で、では失礼して……」
微笑むリチアに促され、一礼してから手を伸ばす。
よかった。気持ち悪い奴と思われたりはしてなさそう。ある程度それも覚悟したけど、本気で拒絶されたらやっぱり心が折れてたかもしれない。
片手でそっと耳の先を撫でてみる。リチアが小さく笑った。今の私のデレ顔はおそらく放送禁止レベル。
形は丸みを帯びた縦長で、犬や猫系ではなく、鹿とかリスなんかに近い感じだろうか。
はあ~。至福……。もふもふの癒し効果は絶大だ。
私は今の状況を完全に忘れ、ひとしきり魅惑のけも耳を堪能した。
「普通は獣人を怖がるものなの?」
元の世界なら、怖がるどころか一部の人たちに国賓扱いされるくらいなのに。リチアほどの美少女なら尚更だ。
「……そうね、怖れる人もいれば、忌み嫌う人もいるかしら。全ての人がそうだとは限らないけど」
隣の大陸には、リチアの故郷を含めた獣人たちの暮らす土地があるという。
だけど普通の人が暮らしている場所に出てくる獣人は少なく、昔から交流はほとんどないらしい。
獣人の見た目を怖がる人が多いのも、理由としてあるそうだけど。成長の仕方や寿命など色々と生態が異なっていたり、生活スタイルの違いもあったりで、異文化交流するのもなかなか難しいらしい。人よりお酒に弱かったりとかね。
それと獣人たちは女神様を篤く信仰していて、それが今の教会や普通の人々と嚙み合わない大きな一因になっているという。女神信仰、普通の人の間では全然流行ってないんだ。私の中では結構じわじわきてるのになー。
ちなみに獣人エリアには他の地域と違ってわりと精霊がいたりもするようで、リチアも何度か見たことがあるそうだ。
「精霊、私にも見えるかな。いつか行ってみたいなあ」
「ふふ。その時は私が案内するわ」
約束だよ。と私たちは微笑み合ってから、少し顔を引き締めた。
「その日のためにも、今の状況をなんとかしないとね」
「そうね。アメジストさんが連れて来られてしまう前に、どうにか脱出できればいいのだけれど……」
……どちらかというと不安なのは、アメジストが敵の罠に落ちることよりも、人質を忘れて自分の楽しみを優先しないかっていう方なんだよね。どんな罠か知らないけど、むしろ嬉々として魔術ぶっ放して大立ち回りしそう。
「私、必要ならば魔術も使うわ。……アメジストさんのような強い力はないけれど、でも、風を起こして魔物を足止めするくらいならできるはずよ」
決然と言うリチア。だけどその言葉に素直に頷くのは躊躇われた。
「ありがとう。でも、無茶はだめだよ。それに足止めって、なんかまた犠牲的なこと考えてない? そんなので助かっても私、全然嬉しくないからね」
びしっと指差して指摘すると、リチアが口ごもる。やっぱり自己犠牲するつもりでいたらしい。
「もうちょっと色々調べて、脱出口を探す。それが無理そうなら、アメジストが助けに来るまでどうにかここで籠城する。これでいこう」
リチアはまだ何か言いたそうな顔をしながらも、一応頷き返す。
私は部屋のあちこちを調べ回る間、今までに起きたことを思い返した。
◇◇◇
気付いたら、私たちは謎の屋敷に連れて来られていた。リチアは既に目覚めていたけど、手足を縄で拘束されている。私も同じ格好だった。
応接間のような広い部屋で、そこかしこに趣味が宜しいとは言えない、怪しげな物が沢山飾ってある。なんかこう、呪いの〇〇、って感じのおどろおどろしい置物なんかが多い。でも無駄にキラキラと輝いてはいる。
「我が黒魔術邸へようこそ、お嬢様方」
しばらくすると、年齢不詳の黒マントの男が部屋に入ってきた。
短髪で大柄、ぱっと見は体育会系って見た目なのに、服装はマントも含め全体的に黒っぽくて魔術士感がある。でもアメジストと違ってゴテゴテした装飾が目立つ。
男は予想通り、あの執事の主であり、最初から私たちを騙して誘拐する気満々だったようだ。
この国の貴族だというその男は、自分は紳士なので用が済めば私たちを無傷で解放すると約束する、となんか演技過剰な仕草で言った。婦女誘拐の時点で紳士名乗っていいわけないでしょうが。
「一体何のためにこのようなことをなさるのです」
リチアが硬い声で問うと、男がにやあと笑った。
「貴方の旅の護衛――あの美しい魔物を、私が引き取って差し上げようと思いましてね」
魔物は適切な管理下でこそ飼育されるべきですから。
そう続ける男の言葉に、リチアが訝し気な顔で首を傾げる。
でも私は言葉の意味をなんとなく理解できた。
あー……つまりこの人、アメジスト(魔物)が欲しくなって、しかも飼いたくなっちゃったわけか。ガチの変態さんだ。
どうやらアメジストを旅司祭をしているリチアの護衛と思い込んでいるらしい。まあ私たち三人が歩いていたら、護衛対象はリチアだと思われるのはいろんな意味で当然かも。
アメジスト魔物説は私も否定しないけど、そう簡単に捕獲できるとは思えない。一体どうやって捕まえる気なんだろう。
麻酔銃でも持ってるのかな。……効かなさそう。むしろ効くなら、私も欲しい。
男は恍惚とした表情で、アメジストの魔力がいかに強大か、特に闇の力の危険性なんかを滔々と語り始めた。
あの闇に魅入られた魔物は、いずれ貴方のような聖なる乙女の魂を奪わんとするでしょう。私はそれを未然に防いで差し上げたのですよ、とか恩着せがましいことまで言う始末。
……いや、一瞬「まじで!? やばい、リチア逃げて!」って信じそうになったじゃないか。……う、嘘だよね? 変態貴族さん。
それまで黙って話を聞いていたリチアが、一度私の方を横目で見てから、男に厳しい視線を向けた。
「貴方のおっしゃることは私には理解できません。ですが、そういった狙いがあるのでしたら、人質は私一人で十分でしょう。彼女は無関係です。今すぐライカースまで送り届けてください」
「リチア!? 何言ってるの、関係ないのは……」
「コハル! ……あなたは、私と違って彼と護衛契約を結んではいないでしょう?」
リチアが目くばせしてくる。私はこの場で何を言うべきか否か判断できずに言葉を飲み込んだ。
「……ふむ。しかしあの魔物はそちらのお嬢さんのことも気にかけていた。まだお返しするわけにはいきませんな」
結局、良くも悪くもリチアの犠牲的な案は否定されてしまった。
それにしても、この男は私たちのことをまるで見ていたかのようだけど、今までにこんな人を見かけた覚えは……。
「あ! あの時の馬車……」
またうっかり口に出してしまった。でもきっと間違いない、魔の山の前にいた派手な馬車、御者はあの執事だ。馬車から聴こえた声も、この人のものだった気がする。
「おや、覚えていたかね。あの山には魔物を保護しに、たまに訪れるのだよ」
多分その保護というのは、私のイメージするそれではなく、無理矢理捕獲することを言っているのだろうな。
あの山の魔物が怯えた風に逃げてたのは、きっとこいつのせいだ。異変じゃなくて人災じゃないか。
「……アメジストさんを魔物と断じる前に、貴方とあの執事こそ悔い改めるべきではないですか。そうも魔物の気配を漂わせていては、私以外にも異様さに気付く者は出てくるでしょう。いずれ破滅なさいますよ」
リチアが厳かに言う。静かな口調だけど、怒りを押し込めているのを感じる。私もこの男には腹が立って仕方ない。
私たちを平然と騙して誘拐するような奴らだ。魔物をただ可愛がるために乱獲しているとは思えない。何らかの悪事に利用しているんじゃないだろうか。
男がリチアを冷えた目で見下ろした。嫌な感じがして、拘束された手足でずりずり移動してリチアの前に出た、その時。
ピーンヨロー
甲高い音と共に、天井に近い位置にある小窓が勝手に開き、そこから影が飛び込んできた。鳥だ。飛び方も大きさも猛禽類みたいだけど、顔はインコやオウムに似てる。
そいつが私たちの頭の上を何度か掠めるように飛んだ。なんか嫌がらせっぽい。
「きゃあっ」
鳥がリチアの帽子を足で奪い、一回ぐるっと旋回してから男の腕に止まった。ピンヨロー! とどこか得意げに一声雄叫びを上げる。うるせー。
振り向いた私は思わず絶句した。髪の間からちょこんと覗くけも耳に目が釘付けになる。リチアは青い顔で茫然としていた。
「ほう! これはこれは。御大層に説法される司祭殿は、なんと汚らわしい獣人でしたか。悔い改めねばこれもいずれ白日の下に晒され、破滅なさるのでしょうな?」
リチアが俯く。私は男の言葉そっちのけで、けも耳に魅了されていた。
異世界ならそういう人たちもいるかもと密かに期待していた、でもまさかこんな身近にいらっしゃったなんて。
「それでは、麗しの魔物を歓待する準備があるのでこれで失礼する。魔物が無事到着すれば部屋の鍵は解除されますので、その後はお好きに。――ああ、私の可愛い魔物たちが邸を散歩しているので、よければ触れ合ってみてはどうかな」
リチアの帽子をそのへんに放って、笑いながら男が鳥と一緒に部屋を出て行った。
ばたん、と扉が閉まる。鍵を掛けられる音と同時に、何故か私たちの拘束が解けた。魔術っぽい。
体は自由になってよかったものの、不穏な言葉を残された。
アメジストが到着したら、部屋から出られるようになるらしい。でも屋敷には魔物をうろつかせているようだ。全然無事に解放する気ないじゃん。
私とリチアはまず窓の外を確認した。
三階くらいの高さだ。伝って降りられそうな高い木なんかも見当たらず、地面の近くでは動く影がちらほら見えた。大型の動物みたいな。……きっと魔物だ。
すでに屋敷の周りを魔物に見張らせている。だから余裕ぶって拘束を解いたとしか思えない。
それから八方塞がりな状況に落ち込む心を奮起するため、正直言うとただ欲望に負けて、けも耳を堪能してから部屋中を調べ回るも、脱出の糸口は見つからずにいる。
こういうピンチの時って、今までは魔本に願えばなんだかんだ切り抜けてこれたんだけどな。
置いてきちゃったんだよなー。今の私の鞄、財布しか入ってないからスッカスカ。なんでひとの財布だけ所持してるんだよって。
どちらにせよ、魔本に願って出てくるのはいつも魔術だったから、もしリチアには使えないものだったら意味がない。
私の作戦は基本、他人様の力を当てにすることで構成されている。
……実際にこういう目に遭うと、アメジストがいない場合どう動けばいいか、もっとしっかり考えておけばよかったなーって後悔が押し寄せる。今更だけど。
ただ今回は、アメジストを飼いたい人に人質にされるとかいう、想定外にも程があるだろ事件だ。事前に策とか打てるような案件でもないよね。
まったく、魔王のくせに逆に人質を取られるとはなんたる体たらく。称号を剥奪するしかないな。
大体が無駄に強すぎるから私たちが標的にされたんじゃないか。直接狙われて捕獲されちゃってれば、こんな目に遭わずにすんだのに。責任取って、罠も魔物も秒殺してさっさと助けに来いっての。
とにかく早くどうにかして! 助けろ~!
私はアメジストにひたすら(怨)念を送った。
……まあそれでどうにかなるんなら、悪人もいちいち誘拐なんて面倒なことしないか。
この世界に来てから、ここまで長い時間アメジストと離れたことはなかった。
悔しいけど、どうやら自分で思う以上にそれを心細く感じてしまっているらしい……。