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迂闊だった。コハルの弱さを甘く見ていた。
コハルだけではなく、俺以外の人間はほとんど瘴気に耐性がないらしい。
瘴気という謎の物質は、様々な仮説や迷信の類を生んでいる。
どれもが信用に値しない空論ばかりだ。人体にどんな悪影響をもたらすのかも解明されていない。
多少の魔力が含まれているのは感知できるが、それ以外の成分は不明。俺が吸収すると回復する理由も謎のままだ。
ただ実際にことが起こった時は、悠長に未知の成分について考察している余裕などなくなることは理解した。
それまで後ろをついてきていた足音が途切れる。
振り返ると、青白い顔で床に倒れ込む姿が見えた。
「コハル!」
抱き上げると、くたりと手足の投げ出された体が異様に冷えていた。ついさっきまで動き回っていた人間の体温とは思えない。
自分の鼓動がやけに大きく聴こえた。
すぐにコハルを抱え、風の身体強化で来た道を戻り、遺跡を出た。
そのまま一番近い町を目指す。
もっと速度を上げたい。まだ試したことのない術に切りかえた。
風を操り、それに乗るようにして移動する。今の俺にはやや高度な術だ。何度か振り落とされそうになったが、徐々に慣れてきた。
腕の中から落とさないよう慎重に風に乗り、辿り着いた町の宿に駆け込んだ。
コハルをベッドに横たえる。依然として目を覚ます気配はない。
弱々しいものの鼓動はある。だが呼吸は浅く、顔色は紙のように白い。
これは一体どういう状態なのか……。
ただの疲労ではない。移動の間、回復術もかけたが効果は無かった。
どう考えても瘴気の影響だろう。
遺跡内には瘴気が満ちていた。俺には何の影響もない。だがコハルには何らかの悪影響があったとしか思えない。
今からコハルを操作し、書庫で文献を探すか?
……瘴気に関する書物は当てにならない。時間も惜しい。
逡巡した後、俺は覚悟を決めて眠るコハルに手の平を差し出した。
いつでも停止できるよう目を離さないまま、意識を集中させる。
頼むから、灰になったりするなよ……。
コハルの身体から黒く揺らめくもやが立ち昇り、少しずつ手の平へ吸い込まれていく。
俺はいつもの何倍も時間をかけ、時折中断して様子を見ながら、ゆっくりと瘴気を吸い出した。
瘴気を全て吸い出した頃には、夜になっていた。
小さな光球を生み出し、天井付近に浮かべておく。
瘴気はもう体内に残っていないはずだ。なのにコハルは目覚めない。
また回復術をかけたがやはり意味がなかった。
以前使った睡眠や心神喪失の耐性をつける風の術も、すでに気を失っている者を覚醒させる効果はない。
眠りを覚ます術を試す。これもやや高度な光の回復術で、苦手分野のせいか発動自体を何度も失敗した。ようやく成功したと思えた時も、効果は現れなかった。
何度も続けているうちに光属性の魔力が空になった。光はまだ最大値が低い。その一種類だけとはいえ、魔力が尽きるのはこれが初めてだ。
身体を休め、自然に魔力が回復するのを待つしかないのがもどかしい。魔物の瘴気を吸収しようにも、コハルをこのままにして行くわけにもいかない。
他に何か手はないか……。
それとも医者を捜すべきなのか。……いや、期待できないな。
瘴気の治療法が確立しているなら、魔の森などの魔物の生息域にもっと人の手が入っているだろう。
魔動ギルドは瘴気に詳しいようだが、今まで訪れた場所にその組織の支部は存在しなかった。
トルムにもっと詳しい話を聞き出しておけばよかったか。そいつらにこの症状を治療できる保証もないが。
解決法が見いだせないまま、時間ばかりが過ぎていく。
苛立ちを感じながら、薄明りに照らされた白い顔を見下ろした。
眠るコハルは一滴の魔力も持たないせいか、どんなに微細な魔力でも感知できる俺には、まるでただの人形のように見えた。
呼吸を確認しなければ、死んでいるのかと疑いそうになる。
これまで見た限り、魔術の才能は無くても多少なりとも魔力を持つ者は多い印象だった。
奇妙な奴だとは思っていたが。コハルは特殊な人間なのだろうか。
もしコハルとはぐれたら、捜し出すのに苦労しそうだ。
万一の時のために、探知しやすくなる物を持たせた方がいいか。
証印石は魔動具だが、反応が弱い。持っている奴も多く特定し難い。
コハルが起きたら何を持たせるか、改めて考えることにしよう。
早く起きろ。
そう強く思ったせいか、コハルが上半身を起こした。
意識が戻ったわけではない。俺が無意識に使った操作だ。
操作を切り、また横たわらせるため伸ばしかけた手をとめた。
……いや、待て。
この操作を使って、コハルの意識をこちらへ呼び戻すことはできないだろうか?
いきなり覚醒させるのが無理なら、一旦どこかへ――たとえば書庫の中に、コハルの意識を引き込む。それから俺も書庫へ渡って、意識を肉体まで誘導する。
少々無茶な発想かもしれないが、試してみるか。
ベッドの端に座ってコハルを膝に乗せ、俺は小さな両手に自分の手を添えると書庫の鍵を開いた。
◇◇◇
気が付いたら私は畑の中にいた。
あの魔の森の大根畑じゃない。色とりどりの花が咲き乱れている。お花畑だ。
大きな木の上から、小鳥たちが可愛らしい鳴き声を響かせている。
最近こういう普通の小鳥を見かけなかったな。でかいハトに似た鳥は見たことがあるけど。(そして一度美味しくいただきました……。)
花畑を当てもなく歩いていると、少し先からかすかに歌声が聴こえてきた。
妙~に聴き覚えのある、特徴的な音。
私はそちらに向かって駆けだした。いる場所が場所だから、別れの挨拶ができなくて本当は心残りだったんだよね。
「大根~! ……いやミニ大根っ!?」
花畑で輪になってきゅるきゅる歌っていたのは、本来の半分くらいのサイズの大根たちだった。
七匹のミニ大根たちが、手足をぴこぴこさせながら花畑で歌い踊る。どうやら私の友達の大根はいないらしい。残念。
ふと見ればミニ大根サークルの中心に、布のようなものが落ちている。
踊りの邪魔をしないように気をつけながら中へ入り、それを拾いあげた。
ビロードみたいな黒い生地。縁には所々に銀糸の刺繍がある。持ち上げた時にシャラ、と音を立てたのは、いくつか小さな石の飾りがついた銀の鎖だった。
……こ、これはっ……まさか!?
「マント君(完全版)!?」
見た目こそ全くの別物に見えるものの、面影がある。これが年季物になってボロボロになったら、アメジストが最初に着ていたマントにそっくりだ。
こんな場所で本来の姿(?)に会えるなんて。しかも何の因果かトドメを刺した大根に囲まれているとは。まあやったのはここの大根たちじゃないけど。
それにしても、ここは一体どこなんだろう。
ミニ大根サークルからそっと抜け出して、私はマントについた草を払い、たたんで両手で抱え持った。
…………ル……
今なにか聴こえたような。大根たちの歌かな。
どこまでも続く花畑を歩く。時々蝶々が飛んだり、リスみたいな小動物が前を横切っていった。
私は状況も忘れて、ほのぼのした風景を楽しんだ。
……コ……ハル……
またなにか聴こえた気もしたけど……気のせいだよね。うん。
花畑の道から離れ、大きな木の下へ向かった。心地よい風にさらさらと葉擦れの音を立てていて、小鳥の声と相まって癒される。
……ロ……コハル…………オキロ…………
私はそっと、目の高さにある木の枝にマントを引っかけた。
最後に元気な姿を見れてよかったよ。グッバイマイフレンド。
それから花畑まで戻り、振り返らずに歩いていく。
…………ミツケタゾ。ソコニイルナ?
いません。そこにも、どこにもいません。
私は前だけを見て全力で走った。絶対に振り返らない。後ろは見なくても何となくわかる。
――まあ逃げきれないんだろうなーて思ってましたけど。
ほどなく背後から覆いかぶさってきたマント(完全版)に、私の全身はあっという間にコンパクトな風呂敷包みにされてしまった。