≫117
「……逃げろ」
振り返った顔には珍しく焦りが滲んでいた。
私の頭に手をかざしたあと、肩を掴んで目を合わせる。
「コハル。転移でジオのもとへ飛べ」
「ジオさん? なんで?」
「俺が戻るまで、あいつを頼って安全な場所にいるんだ。急げ!」
早口で言いきり、手を離して長い髪をひるがえす。
自分にもいくつか術をかけ始めるのを見たら、なぜか声をかけなくてはいけない気がした。
「アメジスト! すぐに倒して、迎えに来てくれるよね」
「……ああ。必ず」
魔術を操る手を止めないまま、振り返らずに言う。
それでも返事を聞いて、私は少しだけ安堵した。
「わかった。ジオさんと待ってる……だから、」
風に乗り、砂埃を立てて黒い背中がどんどん離れていった。
いきなりアメジェットの最高速度だ。土煙がはるか先まで続いていく。
「あんなゾンビドラゴン、いつもみたいに秒で倒して帰ってきて」
その時はこっちからダイナミックハグでお出迎えするから。
アメジストが引き返していった方角には、恐ろしい何かがいる。
爬虫類のような巨体は全身ボロボロで、なのに目を合わせただけで潰されてしまいそうな威圧感を放っていた。
見た目は“竜”のイメージそのままだ。
生きて動いているのが不思議な有様に見えたけど。今日のアメジストにバトルを楽しむ雰囲気はない。きっと放っておいたら深刻な被害が出る強敵なのだ。
私は言われた通り、数日前に出会った青年を頭に思い浮かべてハルポートをはじめた。
だけど胸にもやもやと広がっていく不安は、過去最長距離の転移をしても吹きとんでくれなかった。
◇◇◇
フィンダル王国に入って間もなく、私達は道端で一人の行き倒れを拾った。
「いや~、助かった! 数日食ってなかったのをすっかり忘れていてな」
20代後半くらいだろうか。アメジストより背が高く、鍛えられた体格のせいか身長以上に大きく見える。背中に大きな剣を背負い、歴戦の戦士感が漂っていた。
だけど人のよさそうな顔は、笑うとちょっと少年っぽくなる。
ジオと名乗ったその行き倒れは、アメジスト作・異世界オムライスを一瞬で完食すると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そんな腹ペコでよく魔物退治なんて請け負ったね。その村でまず腹ごしらえさせてもらえばよかったのに」
「うーん。空腹って急に襲ってこないか? それまで平気だったのに、いきなり「あ、腹減った!」って……」
「いや数日食べてなくて倒れる寸前でやっと!?」
よく今まで生きてこれたな。私は一食抜いたらすぐ空腹に襲われますけど。
旅人のジオが立ち寄った村では、最近魔物が出没するのだそうだ。
人里に現れる魔物の話なんて初めてかもしれない。瘴気排出量が大陸ナンバーワンなだけあって、ここは他の国よりも異変的なことが起こりやすいのだろうか。
話を聞いたジオは、すぐに魔物退治を引き受けた……ものの。志なかばで(空腹で)倒れたのだった。
「魔物ではなく狂暴性が増しただけの動物だ。田畑を荒らした程度でどうせ大した被害も出てないだろ。狂暴化した個体をニ、三倒せばこと足りる」
ジオが驚いてアメジストを振り返った。
まるで見たように言う。もしかして遠い目で実際に見たのかな?
「なんだ? 千里眼の持ち主か?」
「まぁそんなとこ。たぶん当たってるだろうから、言う通りにしてみなよ」
「確かに聞いた魔物の特徴は、よくいる害獣に似ていると思ったが……」
隣でオムライスを堪能中の私から、後方の木にもたれているアメジストにまた視線を戻し、髪と同じ褐色の瞳でしげしげと無表情を眺める。
「……あんた、前にどこかで会ったか?」
意外な質問に、私はオムライスを喉に詰まらせそうになった。
アメジストがジオに目を向けた。少しの間見つめ合ってから視線を外す。
「覚えてない」
「そうか……俺の勘違いかな。あんた程の美人を見たら、忘れないだろうしな」
「ぶほっ」
「コハル、飯はよく噛んでから飲み込むんだ。大事なことだぞ」
「~~~!」
私の背中をさすりながら、用意してあった水を手渡してくる。
いやびっくりしてむせたの、あんたのせいだから!
確かに事実ではあるけど。アメジスト相手に美人とかサラッと言う人、はじめて見た……。
その後はいつも通り無視を決めこむ美人魔王。
ただなんとなく、いままで会った人に比べればジオには多少、当たりが柔らかめというか。私の気のせい?
「うまい飯をありがとな。俺もこの件が片付いたら砂漠へ行くつもりなんだ。あのあたりは休憩できる場所なんていくつもない、もしかしたらまた会うかもな」
「ジオさん。砂漠に入る前は、お腹がすいてなくてもご飯を食べておくんだよ」
「おう。砂漠で倒れたらシャレにならんしな」
「水もちゃんと準備して。こまめに水分補給すること」
「ははは! コハルは俺の母親みたいだ」
明るく笑いながら大きな手で私の頭をぽんぽんする。
私がオカンみたいなのではなく、あなたが心配せざるを得ないキャラなのよ。
それから真面目な顔に切りかえると、神妙な声で続けた。
「あんたたちも、あの砂漠には気をつけろよ。以前と比べて瘴気が増えた。それにあの奥には、魔物よりも厄介なものが眠っているらしい」
「厄介なもの?」
「目覚めれば死と災厄を振りまく太古の遺産……だったかな。昔そんな話を教わった。各地によくある伝説のようなもんだろうが、注意するに越したことはない」
アメジストの瞳が険しくなった。やや高い位置にあるジオの目を見据える。
「ジオといったな。お前は何者だ」
「俺? 俺はただの旅人だよ」
「何が目的で旅をしている」
「目的……そうだなぁ。世界を見て回りたくなったんだ。ずっと同じ場所にいるのが苦手な性分でね」
コテコテの風来坊って感じ。
魔物退治を進んで引き受けるくらいだから、腕や体力に自信があるにしても。やっぱりまたどこかで行き倒れそうで心配だ。
「アメジスト、コハル。いつかまた会おう。その時は今日の礼をする」
返事を返したのは私だけだったけど。
去っていく広い背中を、アメジストの方が長く見送っていた。
◆◆◆
ケイというマガタの弟子を連れ、来た道を引き返す中。
書庫へ渡ると光る本が待ち構えていた。
大人しくそれを手に取り開く。
『……「全部きみにあげるよ」「ありがとう」ぼくは甘ったるいだけのお菓子を、ぼくが作った“ともだち”に食べさせた。それからこっそり、彼の飲み物にお昼の分の薬をほうりこんだ。やった、大成功。これで大嫌いなお菓子や、最悪な薬ともおさらばだ……』
「……?」
これは以前コハルが読んでいたものだ。
何故こんなものを? 次の目的地を暗示するような内容も見当たらないが……。
数ページ分を表示した後、別の棚に置かれた本に光が移った。
『《光彩のカナート》……オルハカ砂漠中央部、オアシスを補強する地下水路網。大賢者メトラの残した遺跡であり、光の遺物《蜃気楼の杯》の安置場所』
今度はわかりやすい。
今まさに光属性の増強を考えていたところだ。
闇ばかり強めるよりも、偏りがなくなるように全属性を向上させる。
新たな力を得る可能性を上げるため、精霊らしさを増していく方針だ。
以前立ち寄った遺跡に光の遺物は存在しなかった。だがこうして情報を出すからには、期待していいのだろう。
コハルとの関係に手詰まりを感じる今。これまで通り俺自身の強化を目指せという意味ならば、それもわかりやすくていい……が。
どこかで監視しているのなら、あのクソじじいよりも少しはましな策を授けてほしいんだがな。
一度本体へ戻る。書庫の鍵を開いたまま俺にもたれて眠る顔を見下ろした。
秘湯蛍を見たところまでは上手くいっていたように思う。しかしあの時を境に様子がおかしくなった。
異世界では顔と顔が接触するのは、余程の禁忌だとでもいうのか?
……俺も驚きはしたが、あれに悪い意味があるとは思えなかった。信頼が深まりそうな気さえしたのも……ただの勘違いか。
転移を覚えたのはいいが、面倒なことにもなってしまった。
お蔭でこうして意識のない時を狙うしかない。
「逃がさないからな」
腕の中に閉じ込めた、無防備な寝顔を眺める。
マガタの策の中で実行できなかったものがある。
「ハルちゃんを守りたい理由をちゃんと自覚して、伝えること」
この言い表しようのない感情を解明し、伝えれば。何かが変わるのだろうか?
俺はどこからともなく湧きあがる不可解な力を全身に巡らせた。