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元々へなちょこだった風邪が闇の看護士に完封負けしたところで、問題が二つ。
一つ。何故か私の表情筋が仕事をしなくなった。
そんな後遺症ある?
体調は至って良好。顔の神経が麻痺しただとかの重篤な症状は一切ない。
ただ、笑ったつもりでも表情は動いてなかったり、感情を表現するのが難しくなってしまった。
異世界にはこんな微妙な症状を引き起こすウイルスがいるってことなのか。地味に嫌な置き土産だ。
二つ。そのせいでアメジストの様子のおかしさが極まった。
正直、こっちの問題の方が厄介というか……。
「あのー。そろそろ次の目的地に……」
「今はそれどころじゃない」
力を追い求めし厨二病の旅は、無表情のため一時中断するもよう。
無表情から無表情を死ぬほど心配されるという理不尽に、私はどう向き合えばいいのでしょうか。
もう命の危機は脱したはずなのに(そもそも危機ですらなかった。)
四六時中こちらの体調を気にしては、書庫からとんぼ返りしてこれまで以上に回復術を浴びせてくる。
表情筋に効果のある術なんてなさそうなものだけど。もしあるなら、開発しようと思った理由を訊いてみたい。
ハグの回数も増えた。
ただそれも症状を治す能力をひらめこうとしているようで、今は抵抗しないことにした。
でも負のオーラを漂わせながら渋面でひとを抱きしめるのは正直やめてほしい。
「ひゃから、ねんどやにゃいて。のびゃしてもひょうじょうつくれにゃいからー」
隙あらば頬をつまんでびろびろ伸ばしてくる手に、さすがに怒って抗議する。
だけど自分の声は気持ちとは裏腹に、やけに平坦に聞こえた。
「前はもっと活きのいい喚き方だった……発声の速度、鋭さ共に鈍っている……」
頬から手を離し、今度は片手で私のあごを掴むと、怖いくらい真剣な表情で覗き込んできた。
やめて。真顔でつっこみの劣化を分析しないで。
「病み上がりだから力を温存してるの。つっこみは意外と体力消耗するんで」
「わかった。食事に行くぞ」
「えっ? まだそんな時間じゃ……」
私を膝から降ろすと一人でさっさと部屋の扉へ向かう。
魔本を鞄にしまいながら顔を上げ、言いかけた言葉を飲み込んだ。
窓の外はすっかり暗くなっている。
魔術の明かりがあったせいか、まだ昼下がりくらいと思っていた。
体調は回復したのに食欲がわかないだなんて……。これも異世界ウイルスの後遺症なのか。
入口の前で待つアメジストが険しい表情でこちらを見ている。
視線が刺さって痛い。いっそこれが怒りやただの不機嫌なら、こんな居たたまれない気分にもならなかったのに。
淡々ボイスでもなるべく楽しげに聞こえるよう、声に出して立て看板のメニューを読んでみたり、食べながらいつもの倍くらい感想を言ってみるも、隣の顔から眉間のしわが消えることはなかった。
◆◆◆
地下に降り、禁忌を垣間見せる部屋で本を手に取る。
開くたびに現れる高等魔術を流し読んだ後、苛立ちを抑えて隙間だらけの棚へ戻した。
どれもこれも使えない……。
地上階では見られなかった奇抜な構成の数々は、確かに新鮮だ。だが今はそれらを読み解き面白がる余裕がない。
「……あれは一体、どういう状態だ」
応えはないと知りながら、俺は何度目になるかわからない問いを繰り返した。
「コハルに何が起きた? どうすれば元に戻る? ……魂とは何だ。その消滅は死を意味するのか?」
自分の声だけが部屋に空しく響く。それでも吐き出さずにはいられなかった。
「いつもの思わせぶりな断片で構わない。情報をよこせ!」
机に両手をつく。台座から小さな像が転がり落ちた。
軽い体調不良から回復し、今は本人の申告通り肉体的な不調は見られない。
だがその一方で、コハルの魂は日に日に薄れていくように感じる。
うるさいほど豊かだった表情が消え、声に起伏がなくなり、食欲すら減退しているようだ。
こんなわけのわからない症状と治療法の書かれた文献などない。
特に知りたいのは魂の状態を回復させる方法だ。
俺のように魂を感知できる人間はどうやらいないらしい。叡知の書庫といえど、ほとんど望みはないということだ。
この書庫に宿っていると思われる、監視者と呼ぶべきもの。
もし精霊に近い存在だとすれば。少なくとも人間の書物よりは魂に精通しているのではないか。
そう期待して訪れるたびに呼びかけるも、声はおろか、本を介した反応すら返らない。
「何でもいい。啓示をくれ……」
もうあの気が抜ける笑顔を見ることはできないのか。
死にさえしなければそれでいいと思っていた。だが魂が希薄になるに従い、生気を失っていくかのような姿を見るたび、言いようのない焦りに支配される。
せめて命までは失わずに済むという保証が欲しい。
それが叶わないのなら……、
「俺を、精霊に――」
本体の傍で小さな悲鳴が上がった。コハルがわずかに目を見開き手元を眺めている。
すぐに戻ると表情のない顔で見上げてきた。
「あーびっくりした。今、魔本がこれをペッてしてきてさ」
手に持った物を俺の顔の前にかかげた。
これといって特徴のない、ただの古びた鍵だ。
それを受け取り眺めていると、手を叩いて言う。
「なんか見覚えあると思ったら。変態貴族の屋敷でポロッと落ちてきたやつだ」
ポロットで監禁された時に拾ったものを、書庫の鍵が吐き出したという。
どうして今更そんなものを。拾って鞄に入れたと言うが、合流してから確認した時にこんなものを見た覚えはない。もう“食べた”後だったのか。
瘴気吸収の複写をした際、吸収先を書庫の鍵にした。
しかし書庫の中に吸収した瘴気が溜まることはなかった。
行き先を辿ることもできなかった。だが可能性が高いのは、以前倒れたコハルの意識を取り戻した場所だろう。
……まさかこの鍵が、監視者の啓示なのか?
そして今のコハルの状態は、瘴気吸収の弊害だと言いたいのだろうか。
あの奇妙な空間に瘴気を送り込んだことで、コハルの魂に悪影響を及ぼしたのだと……。
「部屋にこもってばかりで運動不足だしね。この鍵で開けられる場所を探しに行けってことじゃない?」
考えていても答えは出ない。その言葉に頷き、一度コハル抱き上げ、降ろそうとしたところで慌てて引き寄せる。
突如、強い魔力が膨れ上がった。
発生源がコハルの手に戻した鍵だと気付いた時には、俺達を転移の力が呑み込んでいた。
降り立ったのは見知らぬ部屋だった。
地下なのだろう。窓はない。唯一の明かりは、中央付近に置かれた機械から漏れる淡い光だけだ。
魔動のように見える。だがどんな用途のものかは分からない。
そして室内の半分近くを占める、鉄格子で囲われた広い檻の中には、様々な生き物が閉じ込められていた。
慎重にコハルを降ろし、傍から離れないように告げる。
頷いた直後、駆け出した。
「おい、だから離れるなと……!」
「ノーチェっ」
……もう気付いたか。
思わず舌打ちし、コハルを追って檻の前まで移動する。
鉄格子に縋りつこうとするのだけは阻止すると、それまで檻の隅で座り込んでいた黒い姿が気付いて立ち上がった。
『コハル、アメジスト……!』
同じようにうずくまる生物達を掻き分け、檻越しに見上げてくる。
『ここはどこだ。何故こんなことになっている』
『……ごめんなさい、わからない』
シャリラの収穫をしていたはずが、目覚めたらここにいたという。
何の説明にもならない話に片手で頭を抱えた。
この状況で面倒を増やしやがって……。
「何これ? ってかどこ? なんでノーチェが捕まってるの?」
頭痛を感じながら口を開きかけ、コハルを抱えて檻から離れた。
それまで俺達のいた場所に忽然と気配が生まれる。
「客人とは。何百年ぶりであろうな」
天井近くからこちらを見下ろし、目が合うと青みがかった銀の瞳を細める。
巨大な狼の姿をした精霊が、獣の顔に不似合いな笑みを浮かべていた。