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前を歩く背中で長い髪が揺れる。
横顔を向けると柔らかく口元をほころばせた。
「身体に異常はなさそうだな」
まだ見慣れない優しげな表情と口調に、若干ひるみながらも頷いた。
「うん、私はね。……魔本は悶絶してるけど」
私の言葉に一度視線を下げ、それから何事もなかったように顔を前に戻す。
「異世界から平然と戻ってくるような本だ。この程度で壊れはしないだろ」
なんか最近、魔王の魔本への愛情がいまいち感じられないんだよな。
歩きながら視線を手元に落とした。両手で抑えきれなかった数枚の白紙がバサバサと音を立てる。
本の中央部分にいつもの光は灯らず、代わりに周囲の黒いもやを吸い込み続けていた。
でも時々「ごふっ」って瘴気を吹き上げて、一瞬動きが止まったりする。吸い込みながらビクンビクンのたうつような動きしたり。
これやばくない? 間違った使用方法のせいで本当に壊れるのでは……?
内心ハラハラしつつ、とはいえこれを止めれば自分が倒れるだけなので。
私はなるべく手元を見ないよう顔を正面に固定し、薄暗い空間を転ばないように歩くことだけに集中した。
隠しダンジョン攻略のためにアメジストが考案した方法とは、この魔本による瘴気一気飲み作戦だった。
実際に能力をコピーされたのは私なんだけど、応用をきかせて吸収先を変更したらしい。
これまでちょいちょい雑食疑惑のある魔本。だからって私の代わりに無理矢理瘴気を飲ませてしまうとは。魔王の発想、やはり恐ろしい……。
待ち構える魔物や罠を秒で蹴散らし、よどみなく進んでいた背中が止まった。
最深部だ。どこか見覚えのある台座に、ほどほどの大きさの置物が載っている。女神像って感じ。
今回もそれには手を出さず、アメジストが何か魔術的なことをする。と、床を揺らして台座が移動した。
そこに忽然とお墓のような物が出現し、さらに地下へと続く穴が現れた。
また隠し部屋だ。なんか台座で封印されし空間を解放しました感があるけど。
遺跡を管理してる人とかに怒られたりしないかな?
そんな心配はすぐに吹き飛んだ。開封された地下から濃厚な瘴気が立ち昇る。
思わず両手をまっすぐ伸ばし、魔本を生贄に差し出した。悶絶しつつもパワフルな吸引力。
魔本の活躍を満足げに眺め、「すぐに戻る」と言ってアメジストが隠し部屋へとびこんだ。
宣言通りほんの数分で戻ると入口を台座で塞ぐ。残った瘴気を自分で吸収した後、私を抱えるとアメポートで一気に地上へ戻った。
「魔のお宝を盗ってきちゃったの? 怒られない?」
「いただいたのは力だけだ。千年も前の遺物を誰が使おうと構わないだろう」
魔本が浮き上がり、ひとりでに鞄に戻った。持て余した力を浪費して、薄笑いを浮かべる。
「たとえ本人が転生していても、悪の魔術士に渡すより有意義だ」
悪の魔術士Aの棚上げ発言を軽くスルーして、私は日が暮れる前に町まで戻ることを提案した。
◇◇◇
アメジストが隠しダンジョンで念願の盗掘(2回目)を成功させ、私も無事リチアへ手紙を送り(大きな町や主要な場所に荷物を配達する馬車があったので、大聖堂行きの便にお願いした)、なんとなくひと仕事終えたムードが漂った頃。
この世界に来て初めて、私は風邪を引いてしまった。
といっても数日寝込むような話では全然なく。ちょっとダルくて熱が少し出た程度だ。
私よりもアメジストの方がうろたえて、逆にこっちが心配になる様子のおかしさだった。
不気味なほど優しいお兄ちゃんが再び降臨し、いつもよりちょっといい宿での手厚い看病が始まった。
手作り病人食の上げ膳据え膳、氷のう(手)、こまめな体調チェックと多種多様な回復術。
お蔭で熱は一日で下がった。風邪の初期症状もほとんど一緒に収束している。
なのにアメジストの眉間のしわは深く刻まれたままだった。
体調が回復する一方、なぜか表情は険しさを増していく。
知らない相手が見たら、怒りの表情プラス不機嫌オーラで即逃げたくなるはず。だけどこれは一応、アメジスト的心配の表現だ。
「この程度の風邪で死んだりしないよ」
「甘く見るな」
「でもこの看護体制、ウイルスの負け確定すぎ……」
「その油断が命取りになる」
取りつく島もない。闇の看護士の目は本気だ……。
あと無駄に顔が近い……。
もう熱はないはずだけど。氷のう(手)をどかすのは諦め、次起きる時までに完治させといてねと己の免疫力にお願いして、私はひたすら眠ることにした。
夢を見た。
やわらかな陽光が降り注ぐ花畑に一人、ぼんやりと立ち尽くす。
なんかここ、前にも来た気がする。
花畑のそばを瑠璃色の蝶が飛びまわり、それを追いかけるように胴が長めの動物が駆けていく。
仲良く寄り添う二匹が去った方へなんとなく歩いてみることにした。
いつの間にか私のあとを大きめサイズの鳥のヒナが三匹ついてきていた。
どこからか鳥の鳴き声がすると、ヒナたちが立ち止まり、声のした方へよちよち歩いていく。声の主たちが親なのだろう。
空を見上げると、翼の生えた白い子猫たちが楽しそうに飛んでいる。
紫の瞳の子と目が合った。可愛らしく鳴いて片方の前足を差し出す。
その子が示す方へ向かって歩いていくと、やがて鮮やかな花壇に辿り着いた。
むせ返るほどの花の香りに一瞬めまいがしそうになる。
よく見ればそこは花壇ではなく、大きな長方形の箱を取り囲むように色とりどりの花が咲き乱れていた。
箱はガラスに似た素材のようでも、中は見えない。
気付くと隣に耳の長いクマの子がいて、一緒に箱を見下ろしていた。さらにきゅーきゅー鳴く大根たちが周りに集まってくる。
この中には何があるんだろう?
箱の蓋を開けようとすると、クマの子が私の手をそっと掴んで止めた。
「戻らないとあの人が心配してるよ」
あの人? って誰?
それにどこへ戻ればいいんだろう。
「ここはもうすぐ失われてしまうけど。心は消えたりしないから。心を信じ合えるなら、何が起きてもきっと大丈夫」
心を信じ合う…………誰と?
いつの間にか日差しがかげって空は厚い雲に覆われていた。
真っ黒な、闇よりも深い――あれは雲じゃない。
何かすごく怖いものだと、本能的に思った。
空がそれで埋め尽くされると花壇も花畑も消え、あたりは闇に包まれた。
どこへ逃げても黒。他には何もない。
おかしいな。真っ黒だとか闇だとか、最近は特に、全然怖いと思わなかったのに……。
闇に全身を覆い隠されて、もう自分の指先すら見えない。
やばい。そろそろ助けを呼ばなくちゃ。
名前を呼べばいつものように一瞬で来てくれるはずだ。
えぇと、名前……、
私が付けた、名前は……――――。
「――コハル!」
誰かの名前を呼ぼうとした時、逆に呼ばれて重い目蓋をこじ開けた。
不思議な悪夢を見たような。体調が悪い時のあるあるだよね。
「アメジスト」
覗き込んでくる顔は不機嫌を超え、痛みを堪えているかのようになっている。
名前を呼ぶと少しだけ、険しい表情を緩めて息を吐いた。
私はけっこう長い時間うなされていたらしく、眠りを覚ます術を使っても起きなかったという。
そこまで頑固な睡眠だったとは。ひと眠りで一気に治そうと欲張ったせいか。
「驚かすなよ。このまま二度と目覚めないのかと……」
ちょっと寝起きが悪かったくらいで大げさな。健康な17歳は軽い風邪程度でそんな儚い永眠の仕方せんわ。
上体を起こすと急にお腹が空いてきた。
体調チェックを受けなくても、もうすっかり元の健康体になっているのが分かる。魔術をはね返すほど頑固な睡眠のお蔭かな。
調子に乗って外食したいと言ってみたけど、心配顔からの許可はおりなかった。
「完治するまで我慢しろ」
「もう治ったよ」
「まだ駄目だ」
今度は氷のうではない普通の手の平を、私の頬に添えるとゆるゆると撫でる。
魔王の眼力なら本当にウイルスとか見えたりしそうで怖いな。
大人しく命じられた通りベッドに逆戻りして、私は引き続き過剰な看護を受けることとなった。
――だけどまさか、本当に死ぬとは思わなかったよね。
表情筋が。