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気が付いたら闇の中だった。
前後左右どこを向いても、真っ暗。何も見えないし、そもそも何もなさそう。
ちょっと歩いたけど物にぶつかるでもないし、いきなり真夜中の散歩中に目が覚めたというわけではないらしい。
いやそんな夢遊病とかじゃなかったはずだけど。
「えーと。誰かいませんか? ここってどこですかー?」
試しに軽く叫んでみた。しばらく待ってみたけど返事はなし。人の気配もなし。
こういう時って、一体どうするのが正解なんだろう?
気が付いたらここにいました、って状況だけどこれも一種の迷子なのかな。
それとも寝てる間に誘拐とか拉致とかされた? でも拘束もされずに一人で放置されるっておかしくない?
うちはごくごく平凡な一般家庭だし、私に誘拐する価値があるんだろうか……。
あー、本当になんなんだ。怖がるにしてもどこから手をつけたらいいのかわからない。
あーーー、………………あれ?
足元に何か落ちてる。しゃがんで恐る恐る拾ってみると、一冊の本だった。
図書館に置いてありそうな、百科事典とかの厚みを少し減らしたくらいのサイズ。
表紙は革だろうか? 暗くてよく見えないけど、触るとどことなくしっとりとした感触がある。
この闇の中じゃ読めないとわかっているけど、ぱらぱらとめくってみた。
「え……読める」
どういう仕組みかわからないけど、本を開いたらポワーっと、見開きの中央部分が懐中電灯で照らしたくらいに光り出した。
「なにこれ自動で光る本? すごい! いやでもやっぱ読めない。なにこの文字」
そこに書かれている文字は、日本語ではなく英語でもない。多分他の外国語でもないはず。少なくとも、私が見たことのないものだった。
しばらく本をめくってみたけど、無駄だった。なにこれ全然読めない。一旦閉じる。
本の仄かな明かりが失われ、辺りが一気に暗闇に戻った。
…………。
これ本としてではなく、光源として活躍してもらえばいいのでは?
もし遠くに人がいたら、この本を開いて振ればSOSに気付いてもらえるかもしれない。
「これってどこかに電池が入ってたりするのかな。残量どれくらいなんだろ……あんまり開くと勿体ないかな…………ん?」
一人だと独り言多くなるよね。
電池諸々の確認のためにもう一度本を開いてみる。再び目の前がほんわりと明るくなった。と、違和感に気付く。
さっきは見開きいっぱいにびっしり詰まっていた文字が、明らかに大きくなっていた。行間にもやけに余裕があり、空白部分が目立つ。
さらに文章の横。そこにはシンプルな線と色の、簡素なイラストが描かれていた。
「…………りんご?」
『アケの実。あまずっぱくて、おいしい。生のままでもいいけど、ジャムにしたり、お菓子にしてもおいしいです』
そうなんですか。それ、ほぼりんごですね。
「って、読めた!? あれ、私この変な文字読める!? 英語もままならないのに知らない文字が読めるって何!?」
もしかしたら日本語もままならないかもしれないけどそれは置いといて。
隣のページにも目を走らせる。同じように、文字列の横にはイラスト。それを見てから、文章を見る。
『カテリア。スロシュ名物のお菓子。ふわふわで甘く、卵たっぷり。こどもたちに大人気』
頭の中に直接副音声が流れてくるような、不思議な感覚だった。
なにこれ、自動翻訳機能……!?
え、どういうこと? この本有能すぎじゃない?
テンションが上がった私は、どんどん本を読み進めた。
だいたい一、二行の易しい文章の隣にそれを表すイラスト、というまとまりが一つのページにいくつか載っている。
それは少なくとも日本ではない場所の、様々な物事を子供向けに紹介するような内容だった。
思わず読みふけってしまいながら、ふと思い出す。
この本、前に古本屋で買ったやつだ。
私が中学生くらいの頃。当時、近所に今にも潰れそうな小さな古本屋があった。
店のおじいちゃんはいつも寝ていた。たしか今はもう閉店していたと思う。
そこで私はお店の人が爆睡してるのをいいことによく本を立ち読みしていた。ごめんなさい。
その日もちょっと覗くくらいのつもりが思ったよりも長居してしまい、たまには何か買おうと店内を見回した。
そうしたら全品300円と書かれているワゴンが目に入った。本の山の上に無造作に置かれていた一冊を手に取る。
タイトルも何も無い、不思議な黒っぽい革表紙。アンティーク品のようで何かかっこいい気がしたんだと思う。私は中身もろくに見ず購入した。
家に帰って開いてみたらこの謎文字だったから、ちょっとパラ見して本棚に突っ込んだまま忘れていた。
でもその時には、この光るやつも翻訳機能もなかったはずだけどなー。
ぱらぱら、ぱらぱらぱら。
後で思い返してみると、なんで私は闇の中という異常な状況でこの本を読み耽っていたのだろうか。
現実逃避かな。テスト前ほど関係ない本とか読んでしまうアレ?
ページをめくっては、読む。めくっては、読む。
なんとなく似たり寄ったりで飽きてきたなぁと思った時には、次のページからは内容が少し変わったりもした。
文章も子供向けから少しずつ年齢が上がっていっている気がする。同時にイラストの分量も減っていき、そのうちなくなった。
そして気付いたら小学校高学年~中学生向けくらいの文章の、恋愛小説みたいなものが始まっていた。
おお。ついに小説が来た。今までは全部雑学本みたいな内容だった、それはそれで面白かったけど。
お姫様だの竜だのが出てくる異世界ファンタジーで、竜と書いてあるけどどうやら見た目はイケメンの騎士と姫の恋物語のようだ。
そうなってくると今度はイラストが消えてしまったのが悔やまれる。竜のイケメンってどんなだ。頭に角とかが生えてるのかな?
――――だがその時、私の謎本読書タイムは唐突に終わりを告げた。
本当に一瞬の出来事だった。両手で持っていた本がぐにゃりと揺れたと思った次の瞬間、私は本に吞み込まれた。
いや比喩とかじゃなくて、物理的に。
ほんのり光っていた本の中央部分に黒い穴のようなものが一瞬見えたと思ったら、そこに私の全身はうどんをすするみたいに、ちゅるんっと吸い込まれてしまった……。
◇◇◇
身体が自分のものじゃないみたいに、ふわふわ、遠い感覚。
風邪を引いた時みたい。うっすら耳鳴りまでしてきた。
『――――所有権を確認しています』
不思議な声が聴こえる。機械音のような、温度のない平坦な声。
でもどこか聞き覚えがあるような。……あ、さっきのアレだ。翻訳機能。
『――――……しばらくお待ち下さい……』
え、はい。
何の確認? これ何の時間?
『――――所有権を確認しました』
『――――所有者の認定が完了しました』
『――――続いて構築条件を照合します。……しばらくお待ち下さい……』
いつまでこの変な状態で待たされればいいんでしょうか。
なんだか眠くなってきた。寝ててもいいかな?
『――――構築条件に一致しました:1件』
『――――所有者の登録及び書庫の構築を開始します』
……ズゴゴゴゴゴ……
すぐ近くで唸り声みたいな地響きが聴こえる。
これ、絶対やばいやつ。寝てる場合じゃない、逃げなきゃ。
起きろー! 頑張れ自分! 好きな漫画の発売日とかなら目覚ましかけなくても起きられるじゃないか! 今こそその能力を発揮する時!
グオオン……グオオン……ガゴッ! …………ヴィーーーーーーン
ひいいいいやばいやばい、なんか音増えてる!
本当に起きなきゃ! 起きてください私!
いやここまでしぶとい眠気ある!? 命の危機なのにこの睡魔強すぎでしょ!?
起きろーーーーーーーっっっ
◆◆◆
ばさっ
「……?」
突然、目の前に落ちてきた物を拾い上げる。
それは一冊の本だった。
中をめくると綴じられているのは白紙だけで、内容といえるものは一切無い。
何か情報が書かれていれば、もっとよかったんだが。
そう思いながら目の高さに持ち上げたそれを眺める。
全て白紙だが、これは自分にとって重要なものだ。何故かそんな確信があった。
――――どさっ
――――グルルルル……
背後で物音がした。振り向くと、唸りながら茂みからこちらを窺う獣と目が合う。
飛び出して来た獣が、本を持っていない方の腕に噛みつき牙を立てた。
腕に食らいついたままの獣の頭に本を振り下ろす。獣が一旦跳び退って距離を取ったが、再び向かってきた。
消えろ。
そう思いながら腕を前に差し出すと、掌から細く黒い光線のようなものが出た。
それが獣の胴体を突き抜け、背後の木の幹に突き刺さって、消える。
獣はぐしゃりとその場に倒れ込み、やがて動かなくなった。
今度は出すのではなく引き込むような感覚で、もう一度獣に掌を向けた。
獣の身体から少しずつ黒い靄のようなものが立ち昇り、それが掌へと収束していく。
全身に力が満ちていくのがわかる。差し出した腕から流れていた血が止まり、獣の歯形が跡形もなく消えた。
黒い靄を吸い尽くした頃には、獣の死骸はわずかな量の灰のようになっていた。風が吹いた後は、飛び散ってほとんど何もなくなる。
腕を動かしてみたが、痛みもなく、それどころか獣が現れる前より軽い気がした。
便利な力だな。
何故こんなことができるのかは、わからない。
そもそもわからないことだらけだ。ここはどこなのか、何故こんな場所にいるのか。考えたところでわからないものはわからない。まずはどこかへ移動するか。
そこでふと思い出し、もう一つの物音がした方に視線を向けると、人が一人倒れていた。近付いて、うつ伏せになっているそいつを靴の先でつついてみる。反応はない。
……死んでいるのか?
足で転がして仰向けにしてみるが、目覚める様子はない。だが死んでいるわけでもなさそうだ。呼吸がある。
幼げな顔立ちに、肩より短い黒い髪。小柄で細身の子供。
そういえば、何かが地面に落ちたような音がしていたが、こいつだろうか。木から落ちでもしたのか?
しかし目覚めないなら情報を聞き出すこともできない。起きるまで待つのも面倒だ。子供をそのままにして踵を返そうとした瞬間、本がかすかに光った。
「…………ぅ……」
子供が小さく呻いた。本が次第に淡い光を明滅させていく。
この子供に反応している……?
もしこいつとこの本に関係があるのなら、とりあえず拾っておくか。
本を持っていない方の腕に意識を集中させる。それから子供の腰のあたりを抱えると、本よりも軽く感じた。
そのまま持てばかかるであろう負荷を軽減させられないかと試したが、これにも成功した。
この力はどうやら色々な使い道があるようだ。これからも思いついたことがあれば試してみることにしよう。
片手に本、もう片方に眠ったままの子供を抱えて歩きながら、俺はさっきのような獣がまた現れるのを期待した。