僕と、白峰先輩と、クリスマスと。
──僕は黒地火維人。どこにでもいる高校二年生だ。
第一印象で熱血漢っぽそうだと100%思われてしまう下の名前とは裏腹に顔も雰囲気も地味め、これと言った特徴がないのが特徴という悲しい男。
そんな僕は今……黙々と本棚を拭いていた。
「はっくしょん!!」
「漫画かよ」と、ツッコミが飛んできそうな声が響き渡る。僕のくしゃみだった。
誰かがそうツッコミを入れてくれればまだ笑い話になってマシだった。しかしくしゃみは虚空に広がっていって、誰からのツッコミも受けることなく消えて行った。
それもそのはず、今ここに……学校の図書室にいるのは僕だけだったんだから。
「……凄いホコリだよな全く」
独り言ちながら、僕は己の責務を全うする。
くしゃみが出たのは寒いからではない。他の学校と比べても軽く5倍はあるんじゃないかというこの広い図書室全体にも暖房はしっかりと行き届いているし。
まぁその分、掃除が行き渡っていないのも自明の理。図書委員も頑張ってはくれていると思うけれども、こうして彼らの尻拭いを僕ら生徒会役員はしなければならなかった。
「いつ終わるんだろうなこれ」
改めて図書室の広さにため息を吐きつつ、僕は雑巾を握る手をせっせと動かした。
くしゃみをさせた忌まわしい本棚の埃を駆逐しつつ、ふと外を眺めた。少しどんよりとした鈍色の空がこちらを見下ろしていて、普段ならばそれに対して何も思うことはなかった。
それでも、今日ばかりは。思うところがあった。
「なんで……クリスマスにわざわざ図書室の掃除なんかしなきゃならないんだよ……」
その嘆きは先の愚痴よりも切実を込めて僕の口から放たれていた。
そう、今日は紛れもない12月25日。クリスマス。
イエス・キリストの誕生日、なんて意味合いでこの日を騒ぐ日本人はさほど多くないだろう。聖歌隊の人達もいるから断言は出来ないけれども、それよりもやはりこの日は……いや言いたくない。
答えは分かってるんだけれども、いざそれを表現するとなると、自分の惨めさが浮き彫りになると言うか──
「黒地君?」
「ほげぇあっ!?」
葛藤していた所、背後からの突然の声に僕は驚きの声を出してしまう。ついでにビクッとした勢いで頭を本棚に思いっきりぶつけた。
まだ拭いておらず整理していない上の段からは本が雨のように降り注ぐ。しかもさらに悪いことに、その本は分厚く重かった。"泣きっ面に蜂"ならぬ"泣きっ面に辞書"……凄く痛かった。
「いててて……」とありのままの感想を口にしながら声のした方に涙混じりの目を向ける。すると……。
「……」
永久凍土が如く冷めた銀の目と、僕の目が合った。
朝日に輝く氷のように美しく澄んだ瞳に、僕の目や意識は瞬く間に吸い込まれる。頭の鈍痛など、その面妖な魅力を持つ魔性の瞳の前では無意味だった。
そして、美しいのは瞳だけじゃなかった。その顔立ちも、腰まで届く一面真っ白な髪の毛も、彼女の存在の全てが僕の心を静かに凍り付かせ、魅了する。
しかしながら、こちらを見つめるこの女性こそクリスマスにわざわざ僕に図書室の掃除をさせるという命令を出した張本人──生徒会長の白峰雪緒先輩だった。
「何してるの黒地君」
「いえ、これはその……」
「ボサッとしてないで、早く立って仕事の続きをしなさい」
「はい……」
それだけ言うと、雪のように真っ白な髪を揺らして白峰先輩は淀みない足取りで別の本棚へと向かって行った。頭をぶつけてしまって心配してくれるかと思いきや、相変わらずの冷たい性格はまさしく我らが"氷の女帝"と呼ぶに相応しかった。
それでも、やはり少しは心配してくれないとこちらも不満だ。というかそもそも、クリスマスという年に一度の特別な日の予定を"生徒会役員だから"という理由だけで踏みにじられたんだ。まぁ"予定"自体はなかったんだけど……ぐすん。
ともかく、如何に生徒会長と言えどもこれは横暴が過ぎる。と、僕は心の中で義憤を燃やし、クリスマスの自由を奪った原因の背中を睨みつける。
しかしながらいつも通りの線が整いすぎている完璧なスタイルの良さに、吹雪に晒された焚火が如く僕の怒りは消えて行った。神に愛されたという他にない彼女の容姿には、その時の感情など否応なしに目が奪われてしまう。
「私はもう生徒会室の清掃は終えて来たわ。なのに黒地君はこの体たらく。この調子だと夕方までかかるわ。ボーっとしてないで手を動かしたら?」
と、視線を浴びていた背中がさらにチクっと氷柱を僕に突き刺す。
何故こちらが仕事を再開していないのに気がついたのだろうか? というより、生徒会室の清掃をもう終えて来たんだ……。普段から整頓してあったとは言え、図書室同様に他の学校と比べても大きな生徒会室なのに。
相変わらず白峰先輩の仕事ぶりは凄まじい。普段一緒に仕事をしている身としてそれは十分に知っていたはずだったけれど、改めて思い知らされる。器用とか容量が良いとかそういうレベルじゃなく、なんというか人としてのスペックそのものが僕なんかとはまるで違う。
いや、僕だけじゃない。他のどの生徒にとっても、彼女とは比べようもない。生徒会長──"白峰雪緒"という存在は、この学校においては誰もが認める文武両道且つ眉目秀麗の才女だ。さらに言えば、その出自自体も大企業の社長令嬢という誰もが羨む生まれでもあった。
「住んでいる世界が違うっていうのは、まさにこのことだなぁ……」
「何か言った?」
「いっ、いえ! 何でもないです! ただの独り言です!」
「そう。じゃあ何度も言わせないで。口を動かすよりも手を動かしなさい」
「はい……」
今度はより念押しをするつもりだったのか言葉に加えて視線で僕を刺す白峰先輩。背筋が凍るとはまさにこのことで、普段もだけれども今日は格別に怖い。
抗う術などあるはずもなく、正直に従ってそれから僕はせっせと仕事をこなしていった。本棚を千切っては投げ千切っては投げ……じゃなくて。拭いては本を整理して拭いては本を整理して……ひたすらそれに集中した。
図書室は静寂に包まれてこその空間。けれど、今日のそれは酷く緊張感に溢れていた。それは間違いなく、いつもよりも何故か機嫌を損ねている白峰先輩が原因だった。いや、元はと言えば原因の原因は僕の仕事が遅いからなんだけれども。
とにもかくにも、なるはやで終わらせなければ。もう今日がクリスマスだとかどうでも良い。今この場から離れて自宅のオフトゥンに飛び込んで心に安らぎを得たい。早く仕事を完了させないと──
「そう言えば、今日はクリスマスね」
「……へっ?」
図書館の静寂に、突如放たれた鈴の鳴るような声。
聞き間違いかと思った。けれども、今この場には僕と彼女しかいない。だから……今聞こえた声は、決して気のせいなんかじゃない。
仕事中はそれに関わる必要事項や指示の言葉以外、飛び出したことのなかった"私語"。それを、白峰先輩は口にしていた。
「えっ、あっ……そ、そうですね」
「12月25日、キリスト教の教祖であるイエス・キリストの誕生を祝う日。ただ、あくまでもキリストの誕生を祝う日なのであって、キリスト本人の誕生日ではないわ」
「えぇっ、そうだったんですか?」
「そうよ。というかそんなことも知らないの黒地君は。一般常識よ、恥を知りなさい」
「うぐぅ……」
本当に珍しく私語を発したかと思えば、結局凍てついた視線と言葉を刺してきた。
反応して損したなぁ……と思いつつ、これ以上機嫌を損ねないように止めていた手を動かそうとした。
「ただ、この国では……日本では単に大騒ぎするだけのイベントになっているわね」
白峰先輩の"私語"は終わっていなかった。
まさか続きがあるなんて思ってもなくて、僕は一瞬返答に窮した。下手なことを言えば凍り付かされるし、かと言って無反応は失礼極まりない。
結局僕に残されたのは彼女の決して変わることのない凍てつく表情と顔色を伺いながら無難な答えを返すことだけだった。
「仕方ないですよ。日本じゃキリスト教徒の人なんてそんなにいないでしょうし。まぁ、僕は詳しい数は分からないですけど、これまで生きてきてキリスト様万歳って感じでクリスマス過ごしてる知り合いはいなかったですし……」
「文化庁の発表した『宗教年鑑』によると、2018年まででキリスト教系に分類される宗教団体の総信者数は192万1834人に上り、これは日本の全人口から計算すると1%ほどの割合になるわ」
「へぇ~。1%となると単純計算でも100人に1人……結構多いですね」
「実際クリスマスの日に外に出かけると聖歌隊の歌が聞こえたり、教会に行けば礼拝をやっていたりもするから、あながちその感覚は間違いじゃないわ」
「そうなんですね。でも……」
ここまで機嫌を損ねることなく順調に会話を進めている。
少しでも言葉選びを誤れば、白峰先輩は機嫌を損ねてしまい空気がますます悪くなってしまうだろう。だから、このまま聞かなくても良いんじゃないかって考えが頭を過る。
「どうして、クリスマスの話を急にし始めたんですか?」
それでも、止まりかけた言葉は予想外に僕の口からするすると出て行った。そしてそれが耳に届いたであろう瞬間に、これまで背中を向けていた白峰先輩もゆっくりとこちらに顔を見せた。
無表情。先輩は何も言わないままいつもの凍り付いた表情で僕をただただ見つめている。いや、睥睨していると言う方が近かった。
身体が熱い。暖房が利きすぎているんじゃないかと思ったけれども、誰も弄っていないのに温度が上がるはずもなく。僕の体温を上げているのは、"やらかしたか"という焦燥感だった。
「……」
「……」
沈黙が重くのしかかってくる。
先程は仕事に集中するという建前があったけれど、今は"白峰先輩との会話"の真っ最中。この重苦しい静寂から意識を背けることは出来ない。
時間にして数秒。息が詰まりそうなほどの雰囲気に、思わず僕が生唾を飲み込もうとした時だった。
「私、世間一般で言う……この日本という国における"普通のクリスマス"を知らないの」
「へっ?」
固く閉ざされていた口が開かれた。
それも僕の質問に機嫌を損ねるでもなく、寧ろその表情は白峰先輩がこれまでに見せたことのないもので染まっていて。
僕の目が正しければ、何だか寂しそうに見えた。
「"普通のクリスマス"っていうのは……?」
「私は"普通のクリスマス"を"家族あるいは友人達や恋人と過ごす有意義な時間"と定義しているわ」
「あ、あぁ。そうなんですね」
「テレビのCM、道行く人、ありとあらゆる対象を観測した結果、私が導き出した定義なのだけれど、黒地君の定義もそう?」
「へっ? まぁ、そうですね。というか、大概の人の定義はそうだと思いますよ。とは言え、一部の人達にとってはそれが耐え難い嫉妬心に駆られたりすることも……」
「えっ? ちょっと後の方が声が小さくてよく聞こえなかったのだけれど」
「あっ、いや何でもないです。気にしないでください」
「? 分かったわ」
後半の部分を聞かれたら僕もその人種だと聡い白峰先輩は理解していたに違いない。
危なかった……。冴えない上にさらにクリぼっちだと知れば、先輩はますます僕を蔑みの目で見ることだろう。挙句の果てには「だったら今日生徒会の仕事を入れても何も問題なかったわね」と妙に納得してしまうことだろう。先日返事を渋ったのが余計に滑稽に見えて、泣きたくなる所だった……。
しかし、と僕は安堵すると同時にまた疑問に思った。
"普通のクリスマス"を、白峰先輩は知らない。
一体どういう意味なんだろう。あ、さてはアレか。ブルジョワ特有のド派手なクリスマスを過ごしている……とかなのかな。きっとそうだろう。家族と過ごすどころじゃなくて、盛大なパーティーを開いて舞踏会で社交ダンスを踊ったりシャンパンタワーしたりとか、きっとそういうことだ。
流石は令嬢、庶民との感覚が違いすぎる。そして、ますます自分が惨めに思えてきた。来年こそは絶対に彼女を作って"普通のクリスマス"を送ろう……。これまでに彼女なんて出来たことないけれど、今はもう高校二年生……。来年がラストチャンスだ、絶対にやらなければ……!
「──黒地君」
「へっ……わわっ!?」
決意を固めていると、いつの間にか目の前に白峰先輩の顔が急接近していた。
白くきめ細やかな肌、透き通った銀の瞳。やはり彼女の顔は神秘的で、蠱惑的で。自然と体温と鼓動が高まってしまう。
「酷く決意溢れる表情を見せていたけれど、何を考えていたの?」
「あっ、いえっ、そんなっ、つまらないことですのでっ! お気になさらず!」
「つまらないかどうかは私が決めるわ。言いなさい。生徒会長命令よ」
「っ……!」
こんなしょうもないことに生徒会長権限を使わないで欲しいな……。
そう思っても、こちらを見つめる瞳の魔力に僕は抗えず。正直に、ありのままに白峰先輩に先ほど心に決めた想いを告げた。
「ら、来年こそは彼女を絶対に作って、"普通のクリスマス"を送ろうって決めてたんです……」
「……は?」
「僕、これまで彼女が出来たことなくて……先輩が仰ってた"普通のクリスマス"も家族と過ごしたことがあるくらいで……その……」
どんどんと尻すぼみになっていく言葉、気恥ずかしさで吊り上がっていく口角。上がりに上がった体温に冷や汗も溢れてくる。
もういっそ殺して欲しかった。今頃、先輩の頭の中では僕がどれだけ哀れで滑稽な生き物として定義されていってるのだろうか。地味で冴えなくて"普通のクリスマス"すらも知らない非リア充、自分でも笑えるほど惨めだった。
「そう、あなたは家族とクリスマスを過ごしたことがあるのね」
だけど──白峰先輩はまたも僕の予想を裏切った。
かけてくれた言葉は、その方向性も温度もまるで違っていて。僕を嘲笑うものでもなければ、絶対零度が如く冷たさも宿していなくて。
顔を上げて、先輩の顔を見た。彼女は……笑みを浮かべていた。寒い冬の日に手を温めてくれるような小さくて優しいロウソクの火のように、温かい微笑みだった。
「家族と一緒にクリスマスを過ごせる、とても素敵なことだと思うわ」
「白峰先輩……?」
「だって、私はこれまで一度もなかったんだもの。家族と一緒に過ごせた、"普通のクリスマス"なんて」
温かな微笑みには見惚れたまま。しかし先輩の口から出たその言葉に、僕の背筋は静かに凍り付いた。
「一度も……なかったんですか?」
「えぇ。私が、物心ついた時からずっと。今に至るまで一度も、なかったわ。サンタさんから、靴下に入ったプレゼントを貰ったことも。クリスマスケーキに、立てられたロウソクの火を消したことも。"普通のクリスマス"だと思えるようなことは、ただの一度も、なかったわ」
まるで強調するかのように区切られた言葉の端々に、白峰先輩の抱える寂しさが溢れてくるようだった。
同時に、諦めがついたような声色であるような気もして。どうやら、先輩の中ではそれはもう"どうしようもないこと"なのだと、変え難い運命なのだと、納得しているのだろうか。
「ごめんなさいね、黒地君」
「……え?」
「さっきね、私あなたに嫉妬しちゃったの。家族と一緒に過ごせる、"普通のクリスマス"を経験出来たんだなぁって。自分で言うのもなんだけど、生まれ、容姿、能力、人望、ありとあらゆる要素で恵まれている私が、あなたを羨んじゃったなんて……欲張りだよね」
衝撃に次ぐ衝撃に、二の句が継げなかった。白峰先輩が誰かに謝るなんて、ましてや僕に謝るなんて想像だに出来なかったことだから。
確かに、白峰先輩は自分でも言ってた通り人が羨む全てを持っている。それに見合う立ち居振る舞いや言動も心掛けている。だからこそ彼女は"氷の女帝"と呼ばれるほどに自他共に厳しく律している、それこそ常に凍てつく程の威圧感を放つ無表情を作ることで。
けれど……僕は大きな間違いを犯していた。浮世離れしている白峰先輩だって、僕達と同世代の一人の少女だ。家族と一緒に過ごせる"普通のクリスマス"を望む、一人の少女なんだ。
……僕は馬鹿だ。
白峰先輩の表面だけを見て、彼女のことを勝手に知ったつもりでいた。
彼女のことを勝手に遠ざけていた。
彼女のことを勝手に決めつけていた。
白峰先輩は、決して"氷の女帝"なんかじゃない。
普通に寂しがったり、家族を恋しがったりする一人の──"普通の少女"だ。
「白峰先輩っ!」
「きゃっ!?」
「ぼ、ぼぼぼ僕とっ! この後っ、クリスマスデッ……デートしませんか!?」
気がつけば、その言葉も行動も勝手に身体を突き動かしていた。
彼女が驚くほど近い距離に大きな声。しかしそれ以上に衝撃的だったのはその言葉の内容だろう。僕も白峰先輩も、その後に何も言えなかった。
何を言ってるんだ、と羞恥心と疑問符が心の奥底からこみ上げてくる。興奮の余りに心臓の音が騒々しくてそれ以外には何も聞こえなかった。
何を思えば、あんな言葉が飛び出すのだろう。こともあろうにあの白峰先輩をデートに、しかもクリスマスデートという特別なものに誘ってしまったのだろうか。
白峰先輩は怖かった。僕が入学したばかりの頃、既に高校二年生にして生徒会長を務めていた先輩を見た時からその思いは変わっていない。
生徒会役員は生徒会長の指名によって選出される、という一風変わった仕組みのせいでただ一人指名された日には、僕は恐怖のあまり言葉を失った。
あの怖い白峰先輩と二人きりで生徒会の激務をこなさなければならない。心身ともに追い詰められるのは確実だったけど、生徒会役員を続ければ学費が免除されるという報酬もあったことから僕は続ける他になかった。
想像以上に、白峰先輩は"氷の女帝"だった。常に凍り付いた無表情であることもそうだったけど、そんな先輩とも最初は距離を縮めようと僕は様々な切り口のトークを試みた。
しかし圧倒的な知識力を持つ彼女は理知的に合理的に僕の話の穴をつき、そして「黒地君、勉強不足過ぎよ。学生として情けないわね」等こちらの心を抉る氷柱のような攻(口)撃の数々。幾度心が折れかけたことか。
それでも僕は生徒会を、白峰先輩の下僕を辞めなかった。何故か? それはもちろん学費の為だ。学費が免除されるという話を聞いて両親は泣いて喜んでくれたし、僕なりに恩返しが出来る唯一の手段だったし。だから、白峰先輩がどれだけ怖くても、僕は生徒会を根気強く続けて来たんだ。
……だけど、本当にそれだけか?
「く……黒地君。あなた、自分が何て言ったのか分かってるの……?」
「……はい」
「……そう。あなた、さっきは今まで彼女が出来たことないって言ってたわね。"普通のクリスマス"を過ごしたい余り相手を選ばずに軽々しくそうして誘えるなんて……幻滅したわ」
先輩からの軽蔑の眼差しと言葉が僕に放たれる。
それは、本来なら胸に深々と突き刺さる鋭い氷柱と化した。現に抉られたような痛みが胸に襲い掛かり、思わず手で押さえそうになった。
だけど……その氷柱は次の瞬間には消えていた。いや、溶けていた。
項垂れていた僕は顔を上げて、彼女の瞳と真っ向から向き合う。先程心の中で誓ったものよりも、揺るぎない決意と熱を胸に。
「相手を選ばず、じゃありません」
「何ですって?」
「僕は……白峰先輩だから言ったんです」
「あら、そう。どうして? 私の何が好きなのかしら? 容姿? 令嬢という立場?」
一瞬驚いたような表情をするも、先輩の顔はいつもの無表情に戻り僕に問いを投げかける。
再び、諦めの色が見えた。それはきっと先輩自身が述べた"好きな所"にあるのだろう。先輩はこれまで告白された中でも、きっとそういう表面の部分しか見られて来なかったんだ。
白峰先輩の何が好きか、それを理論的に説明するのはまだ難しい。だから──
「僕は先輩の……"普通のクリスマス"を過ごしてみたいって思う所が好きです」
だから、ありのままの言葉をぶつける。飾らず、僕の心が導く言葉を。
「先輩は思わず目が奪われるほどの美少女で、文武両道で何でも出来て、誰もが知る大企業白峰グループの御令嬢で。そんな先輩を僕らは''氷の女帝''と呼ばせて頂いています。けれど、今日僕は知ったんです。本当のあなたを」
「……」
「あなたはどこにでもいる''普通の女の子''だった。クリスマスっていう特別な日を家族や大切な人達と過ごしたい、って誰もが思うようなことをねがってる''普通の女の子''でした。皆が''氷の女帝''と呼んで尊敬の眼差しや賛辞の言葉を向けるあなたではなく……僕が好きになったのは、氷の奥にいる本当のあなただったんです」
不思議な気持ちだった。
言葉が詰まることなく、スラスラと自分の口から紡がれていく。
そして同時にハッキリと分かった。僕が生徒会役員を続けていた理由も。
最初は学費免除の為に、だけどいつしか僕は白峰先輩のことを好きになっていたんだ。普段の活動中も氷の無表情には時折憂いを帯びる時もあって、それを見る度に何か声を掛けようかなと思ったこともあった。
その時の僕はまだ持っていなかったんだ。先輩を包む氷を砕いて、その中へと踏み込んでいく勇気が。けれど今は……違う。
僕は白峰先輩が好きだ。あなたを──決して一人になんかさせない。寂しい想いなんて、絶対にさせない!
「黒地……君」
「はい?」
「あなた……そんな大胆な言葉……言うのね」
「えっ? 今僕何か言ってましたか?」
「『僕は白峰先輩が好きだ。あなたを──決して一人になんかさせない。寂しい想いなんて、絶対にさせない!』……って」
「えっ……ええっ!?」
な、なんてことだ。
心の中に留めておいたはずだと思っていたのに、まさか口から漏れていたなんて……! 心のままに言葉を紡ぐもんじゃない。ってか大胆というかクサ過ぎる!!
勇気を恥ずかしさが上回り、僕は思わず悶絶しそうになった……けれど。
「……ぷっ、あはははははははっ!!」
僕の意識を奪ったのは、またしても白峰先輩だった。
しかし、その時の先輩は、まるで先輩じゃなかった。凍りついた無表情なんてどこに行ったのか、と思えるほど大きな声で笑っていたのだから。
「せ、先輩っ……?」
「あはははははっ……あぁ、ごめんなさいね。よくよく考えると、今のあなたの言葉ってとっても恥ずかしいものだったから」
「うぐっ!」
「あんな言葉を真正面から言えるなんて、まさに若気の至りと言うべきかしら。いや、あなたの感覚に近い言葉で置き換えるなら黒歴史かしら?」
「ぐはぁ!!」
笑顔は徐々に嗜虐的なそれへと変わり、楽しんでいるかのように白峰先輩は氷柱の数々を僕の胸に突き刺していく。もうやめてください既に死んでいます。
膝から崩れ落ちそうになり、視界も歪み始めるほど精神的なダメージを負った僕。あの笑顔から次に飛び出る言葉が怖過ぎる……。と、全身をカタカタと小刻みに震わせていたのだけれど。
「あり、がとね。黒地君」
同じように身体を小刻みに震わせながら、白峰先輩がそう言った。
笑顔の種類はまた変化し、穏やかで満足気なそれになっている。それは僕の瞳を独り占めするのに十分だったけれど、それ以上にあるものが意識を占有してくる。
太陽光を浴びて輝く氷の粒のように、先輩の瞳から溢れて止まらないもの……涙だった。
「私、本当はずっとずっと寂しかった。家族と過ごせないだけじゃなくてて、学校の皆にも''本当の私''を見て貰えなくて……寂しかったんだよ……」
話し方も、最早僕らの知る''白峰雪緒''ではなかった。
こちらを凍りつかせる威厳や迫力などなく、どこにでもいるような''普通の女の子''の話し方のまま、白峰先輩は続けた。
「今まで数え切れない数の人から告白を受けてきたけど、あんなことを言ってくれたのは黒地君だけだよ……。本当に……ありがとうね……」
白峰先輩の涙は止まらず。けれども、彼女の身体は動いていた。
ふわっ……と、彼女の香りが鼻腔を満たして。それと同時に僕の身体は温かさに包み込まれていた。
白峰先輩が、僕を抱き締めていた。
''氷の女帝''だなんてとんでもない。彼女はとても温かった。密着している胸部からも、トクントクンと彼女の鼓動も伝わって来る。
本当に、温かった。気がつけば僕もまた彼女の背中に手を回して抱きしめ合い、図書室の静寂の中でずっと──
「って冷静に何してんだ僕はーーーっ!!」
……なんてことはなく。静寂とムードを同時にぶち壊す叫びを僕は放った。
いや、だってそうじゃないか。よくよく考えれば白峰先輩と抱きしめ合うなんて平静でいられるはずがない。
飛び退いた勢いのあまり僕は再び背後の本棚に頭をぶつけてしまう。本の雨に見舞われ、僕はその中に沈んだ。しかしもう痛みすら感じることはなかった。身体に残った自分以外の温もり、それにしか今は意識が向かなかったから。
「……ふふっ。黒地君は面白いわね。また笑顔にさせて貰ったわ」
涙を拭いそう言った白峰先輩はすっかりいつもの彼女に戻っていた。顔つきや話し方からそれは明らかだったけど、表情にはまだ仄かに微笑みを宿していた。
「それで、さっきの答えだけれど……構わないわよ」
「へっ?」
「何呆けた顔をしているの。この後、クリスマスデートをしても良いってことよ」
「え……えぇえええええっ⁉ 本当ですか⁉」
本の山から飛び出して、僕は再び盛大に叫んだ。
だってあんな……突拍子もなければ大して衝撃的でもない普通の言葉であの白峰先輩とデート出来るなんて⁉
「そんなに不思議かしら?」
「っ……!」
「あなたの言葉は、間違いなく私の氷を溶かしてくれたのよ。自信を持ちなさい……私の彼氏になるんだから」
「かっかかかかかれぴっ……⁉」
白峰先輩は優雅な微笑みを浮かべたまま僕の顎を指で持ち上げる、所謂顎クイを決めながらさらに衝撃的な一言を放つ。
僕のことを……彼氏と呼んだ。未だに耳を疑うも、目の前の微笑みは疑念を全て吹き飛ばしてしまうほどの威力があった。
「どうしたの? 私にあんな熱い告白までしておいて、まさか彼氏になる覚悟がないだなんて今更言うつもりじゃないでしょうね? そんなフニャチン野郎なら、やっぱりクリスマスデートなんて無しよ」
「あっ、いやそれはっ! い、いや行きますっ! クリスマスデートしましょう! 絶対にっ‼」
「ふふっ、楽しみにしているわ。じゃあ、まずは仕事をさっさと終わらせてね」
「はいっ‼」
僕は黒地火維人。どこにでもいる高校二年生だ。
第一印象で熱血漢っぽそうだと100%思われてしまう下の名前とは裏腹に顔も雰囲気も地味め、これと言った特徴がないのが特徴という悲しい男。
そんな僕は……今黙々と本棚を拭いていた。
だけど、僕一人じゃなくて。
隣には──僕の彼女になった大好きな人、白峰雪緒先輩が微笑みを浮かべていたのだった。