夏巡り
彼は、どんなに暑い夏の日でも長袖の服を着ていた。
そのことに対して僕が尋ねると、彼は決まって
「何が正しいかは自分で決めればいいんだよ」
と言い、悪戯っぽく笑った。
彼のその言葉と表情に僕は少しバツが悪くなり、いつも明後日の方向を向いてしまった。
学生生活最後の夏休みがやって来た。
計画的になるのは最初の数日間だけで、あとは正反対の自堕落な生活を送ってしまう僕は彼に叱られる。
「そんな風に過ごしていたら、この夏だってあっという間に終わってしまうよ」
彼はそう言い、いつも早くにやらなければいけないことを済ませていた。
彼と友人になり、4回目の夏だった。
昨日の夜に口を開けた大容量のペットボトルの麦茶が無くなりそうだったので僕は今年の夏が始まって初めて外に出ることを自分から提案した。
夏の間中点けっぱなしになっているエアコンの風を浴び、名残惜しい涼しさに別れを告げて外に出た。
家の外は、見事なまでに夏だった。
僕が暑さにうなだれていると、彼は僕が想定していたコンビニの方向とは真逆に歩き出した。
「夏巡りだよ」
彼はそう言い、そのままグイグイ進んでいってしまった。
この暑さの中長袖で出歩いていてもモノともしない彼はきっと宇宙人か何かなのだろう。僕はそう解釈し、足早に歩いていく彼の一歩後ろをついていった。
始まったばかりの〝夏巡り〟に僕は根をあげそうになったが、彼のどこか使命感を持った後ろ姿に説得され一緒にそれを楽しむことにした。
都会から遠く離れたこの土地で、夏を感じることはとても容易だった。
僕の首が汗で光り出した頃、潮の匂いがする通りに出た。
「海を見なければ、夏は始まらないよ」
彼は海岸の方向へ進んでいった。
彼が僕を海に誘ったのは、この四年で初めてのことだった。
観光客のいない、ビーチパラソルも海の家もないその寂れた小さな海岸にそっと腰を下ろした。
「静かだね。気持ちがいいね」
確かに、そうだった。
海岸を漂う風はそっと僕らの髪を揺らし、僕の首に光った汗も乾かしてくれた。波の音に掻き消されてしまいそうなほどに小さい彼の声に僕は注意深く耳を傾けながら、夏を感じていた。
「僕は、初めて友達と海に来たよ」
彼はそういって、恥ずかしがるような寂しいような表情で足元の砂に指を入れた。そのまま何かを描くように指を沿わせながら、話し出した。
「僕は東京に馴染めなかったんだ。小学校も、中学校も、高校も。いつも、どこにいたって僕は踏みたくなる影のような存在だった」
僕は彼の話に真剣に耳を傾けた。彼の昔の話を聞くのは、これが初めてだった。
「僕はみんなからしたら雑草でしかないのに、踏まれたって強くはならなかった。ただ心も、身体もヘタれてしわくちゃになるだけだった。毎日逃げ出したいと思った。でも逃げ出す勇気もなかったから、いつもそこでじっと耐えていたんだ」
彼は悲しそうで、でもそこか安堵しているとも取れる表情で話を続けた。
「夏は嫌いだった。半袖を着なければいけないから」
そう言い、彼は服の袖をグッとめくった。そこには、無数の古傷の跡があり、過ぎた時間と忘れられない時間を思わせた。
「君となら、夏を好きになれる気がしたんだ」
その言葉に僕は頷き、彼と同じように砂に指を沿わせた。
ふわりと、涼しい風が耳の横を通り過ぎた。
「夏巡り、しようか」
僕がそう言うと、彼は砂のついた手を払って立ち上がった。
そして、僕らはまた歩いて来た方向とは真逆に歩き出した。
夏を見つけるには、まだ十分な時間があった。