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「最初はそんな事、知らなかったんです。何事も経験だと、本当にそう思って申し込んだんですから」
──穏やかな表情を浮かべたロルフが、窓の外に視線を向けながら呟いた。
彼の足元で眠るヴィルジニアを起こすべきか少しばかり迷ったが、思い詰めていた彼女の様子を思い出すとそれは憚られた。
今でこそこうして落ち着いているが、倒れている彼を目にしてからのヴィルジニアも酷く心が不安定な状態が続いていた。髪に隠れて分かりにくいが、頭の下で組まれた手指の至る所に細かな傷が見て取れたのを覚えている。ずっと、ずっと。彼女も無理をしていたのだ。
だから、今はまだ彼女は起こさぬままに。いつもよりいくらか小さい声で、彼は告白を始めた。
「初めてマンドレイクと対峙した、その日の事でした。…キャンプに着いた頃には、俺も姉さんも想像していた以上に疲弊してしまって。姉さんの方は早々に仮眠をとっていました」
「初めて三階層での狩りに従事された方は、大抵そう仰います。無理もありません」
「俺は、同行メンバーの一人…白髪の目立つ痩身の男性で、エールソンという方とつい話し込んでしまって。そのまま見張り番も兼ねてしばらく起きていたんです。…気晴らしをしたかった、というところが大きかったですけどね」
正常な判断を下す為、後に引き摺らない為にも自分の精神状態を一定に保つのはとても重要だ。非日常的な刺激で擦り減ったものが、他者と言葉を交わすという何でもない日常的な行為で補填されるということは十分ありえるだろう。
「俺の初めての狩りの時はどうだったとか、あの装備は役に立つぞとか、贔屓にしてる店で飼ってる犬が可愛いんだ、とか。行先も決めずに、とりとめもなく話をしてました。…そんな中、何かの拍子でエールソンさんが迷宮に纏わる噂話を語り始めたんです」
「噂話、ですか…」
無意識に、鸚鵡返しに言葉が漏れる。
それ自体は特別珍しくもないし、私が過敏に反応し過ぎているという可能性も捨てきれない。ただ、三階層を訪れた者に対し他でもないその話題を選択したということに、何かしらの意図を疑ってしまうのだ。
幾分歯切れの悪い反応に感じるものがあるのか、ロルフは小さく頷くと話を続ける。
「これにも意図があったのかもしれませんが…彼が単にそういう話が好きだった、ということもあるんでしょうね。だいぶ語り慣れてる様子でしたし、何だかんだで俺もそれなりに楽しめてましたから」
その時の話を思い出しているのか、遠い目をして語る彼の口元に一瞬だけ薄い笑みが浮かんだように見えた。
「それで、いくつかの噂話を終えた時でした。エールソンさんは変わらない口調で、突然俺に訪ねてきたんです。"君の方は何か噂は知らない?三階層に関する話とかさ"って」
「…場所を限定する辺り、そのエールソンという方はやはりマンドレイクの噂をご存じではないのですか?」
「そうだったんですが、でもその時は本当に何も知りませんでしたし、俺も特段気にも留めずに受け答えました。エールソンさんはそれに軽く頷いて返すと……"それじゃあ、故郷はどの地方なんだい?ご両親はご健在で?"と、続けたんです」
彼は僅かに眉間に皺を寄せ、表情の読めない顔のまま目を伏せる。
様々な地方から訪れる者が集まる場所故、互いの故郷の話などお決まりの話題の一つだろう。決して悪気も無かった筈だ。ただそれが、万人が快適に感じられるかどうかは別なのだろうが。
「俺はそれに"えぇ、元気にしてますよ"と答えました」
「…何故、そのような嘘の返答をされたのですか?」
「……今までずっと、俺たちは二人きりで生活してきましたけどね。面倒に思うことが多々ありました。相手のそれが善意だろうが関係ありません。口にしないだけで"可哀そうに"と言いたげな目をしながら、今までしなかった気遣いをする人たちって、どこにでもいるんですよ」
だから知られたくないんですと、忌々しそうに彼は吐き捨てた。一度深く息を吸って気を落ち着けると、ロルフは視線を上げいたって平静な口調で語りだす。
「エールソンさんはそれを聞くと、表情を変えないまま"そうか、なら良かった"とだけ返して他の話を続け始めたんです。…俺は何故か、それが妙に引っかかってしまって。今の質問は何だったのか、何故俺に話を振る必要があったのかと疑問に感じたんです」
「…確かに"迷宮の噂話"と"故郷のご家族の話"には、一見しただけでは繋がりがありませんからね」
三階層に纏わる噂話を知っていれば二つの要素の繋がりを察することは出来たかもしれないが、それを知らなければただただ話が散らかっただけに感じられるだろう。
──しかし話を聞く限り、そのエールソンという人物の思惑がいまいち理解出来ない。ロルフがマンドレイクの噂を把握しているのか探ろうとしている様子ではあるのだが、その手段は婉曲的だ。一体どんな意図があっての事なのだろうか。
「そうこうしてる内に、姉や他のメンバーを起こし見張りを交代する時間が迫ってきていました。…今を逃すといつ聞けるか分からないですからね。そうなる前にさっきのは何だったのかと彼に尋ねてみたんです」
「そうしたら、何と…?」
「答えてくれませんでした。ただただ"何でもないよ"と、穏やかな口調で返すだけなんです。疑問に感じたことも続けて伝えたんですけど、何を聞いても反応は全く同じで。…それに好奇心を擽られた俺は、ちょっと食い下がってみたんです」
「成程。…しかし、小さな疑問に随分執心されたのですね。少々意外でした」
口から洩れた率直な感想に、ロルフは小さく苦笑した。
「…きっと、あまり知られたくないプライベートな部分に関する質問をされたから、だと思います。自分が納得出来る答えを得られないままで終わりにしたくなかったんです、きっと」
ここまでの話を聞いて感じたが、ロルフは"家族"という点において殊更敏感なのかもしれない。
彼は"可哀そうな目で見られたり、特別な対応をされること"を不快だと言っていたが、それに関して問いかけられただけでも警戒心を抱いてしまうというのは少々神経質な程だ。幼少の頃から抱く、彼に深く刻まれた重要な意味を持つ要素なのかもしれない。
「エールソンさんも困った顔をしていましたが、俺も途中から少し躍起になってしまって…最終的には向こうが折れてくれました。……そこで初めて、この階に纏わる"噂"を聞いたんです」
「…しかしその方も進んで話したかった様子ではないのに、どうしてわざわざロルフ様に話を振ったのでしょう?」
最初にロルフ自身が言っていたが、この時まで本当に噂については何も知らなった。他でもないエールソンが話を振らなければ、望まぬ形でそれを教えることにはならなかったのかもしれないのだ。
「…何かしらの依頼という形を通せば、馬鹿正直に申告せずとも迷宮に足を踏み入れる事は出来るじゃないですか?ですから、一体どこで聞いたのかは定かではないけれど、想いを引き摺る人たちがマンドレイクの声を目当てに三階層を訪れる事も稀にあるらしいんです」
「つまり…ロルフ様の目的やそういった要素があるのか、調べようとしたということですか?」
「えぇ。特別な理由もなくマンドレイク狩りに自ら進んで申し込むような者は稀有だから、気になっていたのだと言っていました。万一にも一瞬聞いた程度ならすぐに離れれば体調に問題は出ないだろうけれど、動揺されても困るからその場合は遠ざけたかった、と…」
つまりはエールソンなりの親切心と、ロルフの嘘から発生してしまった問題だったのだ。本当に文字通り、望まぬ結末になってしまった。
「それからは…大体予想された通りです。同行していた射手の方が獲物を仕留めようと引き金を絞ろうとしたその直前。その一度だけ、ほんの一瞬でしたけれど。…遮音装置を少しだけ浮かせて、アイツの声を聴いてしまったんです」
──誰の声に聞こえたと、思います?
彼は形容できない表情で顔を歪ませながら、続けて私に問いかけた。
「…聞こえるとしたら、父さんの声なのかなと思ってました。…確かに俺は母さんを覚えていないし、それで寂しい思いをした事もあります。一目でも会うことは出来ないか、生まれ故郷だとか思い出の品を色々探った事もありました」
ロルフはうつむき、手で顔を覆うとくぐもった声で吐露を続ける。真白いシーツの微かな衣擦れする音が、やけに大きく聞こえた気がした。
「でも、物心ついた時から俺と姉さんのずっと傍にいてくれたのは、父さんだった。俺たちに手を尽くす為に自分の時間を犠牲にして、それでも嫌な顔一つしないで、いつも笑顔で。…でも人間の記憶なんて、本当に適当なんです。どんなに大切に想う存在でも、時間が経てば薄らいでいくんです」
感情が揺れ動き、昂っているのかもしれない。話し方は徐々に早口になり、声の響きも先程より明瞭になっていく。
「大事に想う気持ちは変わらない筈なのに、細部はどんどん曖昧になっていくんです。昔の日記を読み返すと、都合よく事実を改変して覚えていたり、それを読むまで忘失していた事があったりなんてザラです。匂いも、感触も。…抽象的になって、欠けていくんです」
絞り出した声は小さく震えていた。
全てをそのまま記憶して、留めて置ける人間なぞ存在しない。きっと皆がそうなのだ。だとしても、気付かぬ内に無数の洞が出来て、変容した姿の"心の支え"を正面から受け止めるようとするには間違いなく恐怖が付き纏うだろう。
そして、そんな時に洞の一つでも埋めることが出来るかもしれないものがあると知ったのなら。
「自分の奥底に沈む記憶をそのまま読み取るのであれば、それは"俺が聞いた声"に違いはありません。それがもう一度だけ聞けるなら…父さんでも母さんでも、どちらでも良かったんです」
──緩やかな動作で、ロルフが視線を上げる。
先程と同様にその顔にはどう形容すべきか分からない表情を浮かんでいたが。気のせいか、指の間から覗く口元だけが歪に笑っているようにも見えた。
「その時、聞こえたのは──姉さんの声でした」




