9-7
夕陽の名残はとうに消え、空が青墨色に染まる頃。
足音が、二つ。床板の軋む音と共に慌ただしく階段を駆け上がり一室の前でぴたりと止まると、それは扉を叩く音に変わった。
「ロルフ、いる?入るよ?」
逸る気持ちを抑えヴィルジニアが扉越しに呼びかけると、一度だけ。中からがたんと物音が鳴ったものの、しばらく待てども何も返事は無かった。すぐ後ろに立つ私に不安げな視線を向けると、小さく頭を傾げる。
不自然に続く無言の間に焦燥感を覚えた彼女がドアハンドルに手を伸ばそうとした、その時。
「…姉さん?どうしたの?」
蝶番の軋む高い音と共にゆるゆると扉が開き、疲れた雰囲気を纏ったロルフが姿を現した。想定外だったのか、見慣れた姉の後ろに立つ私の姿を目にした途端、気怠そうな表情があっという間に引き締まる。
ヴィルジニアは有無を言わさずロルフの肩に手を当て部屋に押し入る。二人の後に続き私も部屋に入ると、手早く後ろ手に扉を閉めた。
「ち、ちょっと…え、姉さんだけじゃないの?こんな時間にマギアさんも連れて来て、どうしたのさ姉さん?」
「ねぇロルフ、貴方マンドレイクの"声"、聴いてないよね?!」
──単刀直入。
顔を合わせるなり掴みかかるようにして問いかける姉に対し、ロルフは僅かに目を見開いたかと思うとふっとその表情を緩めた。
「なんでアレを聞かなきゃいけないのさ。…というか、ちょっと落ち着いてよ。唐突過ぎて頭が追い付かないんだ。何があったの?」
「あたし、たまたまだけどマンドレイクの"噂"を聞いちゃったの。…ねぇ。ちょっと前にお父さんとお母さんの話したの、覚えてる?」
父母。その単語が告げられた途端、目に見えてロルフの表情が硬くなった。
───
──
「マンドレイクの獲物の狩り方ですけど…喉部にある魔術回路に似た刻印の影響で、誘因魔術に近い効果が声に乗せられてるっていうのはご存じですよね?」
暖かな灯りに満ちる店内の一角。私の横に立つレイシアが細く白い人差し指をピンと伸ばすと、指先を自らの喉に当てながらヴィルジニアに問う。
「えぇと…うん、だからマンドレイクの声を聞いてはいけないっていう話だったよね…?」
「はい、その通りです。実はアレって魂というか記憶というか…所謂、深層心理にまで干渉する繊細なモノを飛ばしてるみたいでして。具体的には、被術者の精神と深く結びついている記憶を読解して、それと相違無い情報を想起させることで効果を高めてるんですね」
レティシアと名乗った少女が口にした言葉に、ヴィルジニアが大きく目を見開く。
「ざっくり言えば、聴いた人間が大事に想う人と"全く同じ声"を聞かせることで、狩りを効率的にしてるみたいなんです」
「…それは、あの…もしも本人にその記憶が無い場合は、どうなるの…?」
「あぁ、被術者が覚えているか気付いているかとか、そういう事は関係ありません」
無慈悲な返答に、ヴィルジニアが小さく呻くように声を漏らす。
「記憶の奥底に眠る情報を基に、強制的に想起させるんです。ですから本人にとってもその感覚は疑いようのない本物です。最初は聴覚だけですが、次第に視覚、触覚や嗅覚も塗り替えられていくと言われています。そうなってしまえば、逃れることも殺すことも難しい。…だから聞いてはいけないんです」
思い当たる節があるのか、淡々と語られるその話を耳にするヴィルジニアの顔色は真っ青になっていた。
「…で、でもでも、それってマンドレイクの声を聴いてる前提の話だよね…?」
「んー…恐らくだ、ですけど、十中八九聞いてると思います。先程マギア、さんが言った通り、そも声を聞いてなければ異変は起きない筈ですから。実際、他のメンバーに変化は見られなかったんですよね?」
言葉を返すことも出来ず、ヴィルジニアは俯いたまま指が白くなるほど握り込んでいた。
確信めいた悪い予感に頭を巡らせることに必死なのか、"レティシア"の演技を必死に意識しながら喋る少女の違和感に気付くことは無い様子だった。
「今よりも対処が徹底してなかった頃、声を聞いて精神的に不安定になる方がもの凄く沢山いたんです。…それこそ、弟様のように激昂する人もいましたから」
ヴィルジニアの様子に気付いたレイシアが、どこか曖昧な表情を浮かべつつ口を噤む。そのまましばらく様子を伺うと、今度は諭すような口調で語り掛けた。
「…ご本人様がここにいらっしゃらない以上、ここで話を進めるのは得策ではありません。憶測でもの語るのも、そう建設的ではありませんし。…袖にされるかもしれませんが、やはりもう一度弟様と直接お話してみることをお勧めしますよ」
顔を上げぬまま力なく頷くと、ヴィルジニアは無言で立ち上がった。
───
──
「あたしと違って、俺は母さんの顔も匂いすらも覚えてない。あんなに一緒だったはずの父さんの声も年々薄くなってくんだなって。もの凄く寂しそうに言ってたじゃない」
「……だから俺が、記憶の底に沈んだその声を聞く為に遮音装置を外したんじゃないかって、そう言いたいの?」
しばらくの間、ロルフは姉に少し疲れたような視線を向けたまま立ち尽くしたかと思うと、ふっと目を細め薄い笑みを浮かべて見せた。
「そんなの聞かなかったよ。母さんの声も、父さんの声も聞いてない。姉さんは心配し過ぎなんだよ。…ここ最近はさ、俺たちがした約束の為にちょっと頑張り過ぎてただけさ」
──約束の為。
その一言を耳にした途端、ヴィルジニアの詰め寄るような勢いが僅かに緩む。彼女が諦め、しかしながら弟は未だに目指すモノ。それは一体何なのだろう。
「マギアさんも、わざわざ来ていただいてすみません。ご迷惑おかけしました」
「…いえ、大事に至らないようでしたら良いのです」
動かぬ右腕に手を添えたまま、扉の前に佇み静かに思案を巡らせていたこちらに話が振られる。ぼうっとしている訳にはいかない。今は確かめるべきことがある筈だ。
「ロルフ様。少々失礼いたします」
そう先に断ると、一息に距離を詰めロルフの手を取る。小さく驚いた声を漏らし困惑する彼を他所に、爪や指先、その関節をしげしげと眺めると、そのまま疲労の色の濃い顔に視線を向けていく。
「えぇと…マギアさんも、何かあるんですか?」
「…いえ。つかぬことをお伺いしますが、どこかお身体に違和感や不調をきたしてはいらっしゃいませんか?」
「体調、ですか?特段何も無いですよ。…何なら、表でも走って見せましょうか?」
ロルフはぐるぐると腕を回し、好調さをアピールしながらそう口にする。細かい傷や疲労の色は見て取れるものの、確かに一見して特別おかしな点は見られない。
「そう、ですか。いえ、そうなのでしたら問題はございません。しかしながら、ニキア様も大変心配されていました。あまり無理をなさらないよう、ご自身の健康状況にはご留意くださいませ」
「…えぇ、勿論です。お気遣いいただいてありがとうございます」
それから一つ二つ。適当に言葉を交わすと、私は赤い髪の姉弟に見送られながら宿を後にする。行き交う人々、賑やかな喧噪と出店の灯りで彩られた大通りを一人歩きながら、ふと思い出す。
「念の為にあの嬢ちゃんに着いて行って、弟とやらの観察をしてくるといい」
ヴィルジニアが店を出ようと準備をしている最中。
無言のままレイシアが"くいくい"と袖を引く。そのまま裏に付いて行くと、彼女は先程とは異なる低い声で耳元で呟いてきた。
「聞いた感じ、そこまで時間は経ってないだろうから問題ないだろうが…念の為じゃ。影響が深部にまで及んでおる場合、少なからずどこか身体に異変が出とる筈だ。指先や耳、鼻だとか眼球だとか。そういった部位が琥珀色のガラス細工の様に変化しとるかもしれん」
「…人体がガラス細工の様に、ですか?」
レイシアの言う事を理解しようとするも、その光景はなかなか想像することが出来ず像を結ばない。
「あぁ、そうじゃ。まぁそこまで目に見えて"蜜餌化"しとる様であれば打つ手は殆ど無いが…肌が変色しとる程度なら迷宮に入らんようにして声から遠ざければどうにかなる」
心配事を無くすまではのんびりも出来んからな。しっかり見てこい。
その一言に背を押されヴィルジニアの後を追った訳だが、私は二人に対し少しでも力になることが出来たのだろうか。言葉にしづらい感覚を覚えながらも、私は帰路を急いだ。
──それから数時間後。夜も明ける前に。
ロルフがいなくなっていると、ヴィルジニアが店に駆け込んでくるまではそう時間はかからなかった。




