9-1
滑らかに、鏡のように。
夕陽色の光を眩く煌めかせる水面に触れ、静かに機械仕掛けの手を沈めていく。指先から関節、指間腔、掌、手首と少しずつ、少しずつ。僅かな抵抗もなく、私の腕は透明な世界を侵していく。私の腕が、透明な世界に侵されていく。
私の世界と透明な世界の境では、絶えず穏やかに波紋が生まれ続けていて。それは確かに、ゆっくりと幾重にも広がり消えていくのだ。
水面に視線を落としていると、横から私とは異なる波紋が広がるのが見える。私の腕を包み込み、境を揺らし、通り過ぎて先へと広がっていく。
波と波とがぶつかり、打消し、揺り動かす。その度に私の腕は小さな振動を感じ、水音は夕陽に染まる部屋に響いていく。
──こういう空気を、心地よいと言うのだろうか。
目の前には回収品が浸された洗浄槽。隣には、濡れたように艶やかな黒髪を揺らしながら作業に勤しむ少女、レイシアの姿があった。遠くから微かに届く街の賑わいは、手を動かす度に響く清潔な水音に紛れ沈んでいく。
自分の感じたものをそう表現することが正しいのかは、いまいち分からない。けれど、差し込む斜陽で懐かしい色に染まる工房の中、こうして二人で作業をするのに奇妙な収まりの良さを感じているのは確かだったのだ。
「さぁて…こっちはこんなもんかの」
何でもないふとした彼女の呟きに、茫洋と広がろうとしていた意識が空気から戻される。
早々に受け持つ作業が完了したのだろう。レイシアの小さい手が透明な世界から引き上げられると、水滴を纏った金属のアクセサリが優しくタオルの上に置かれる。それは宝石が欠けてしまい台座が覗く、使い古された指輪であった。
「そっちは大丈夫かの?まだ他には?」
「ありがとうございます、レイシア。こちらも今手元にある分で終わりですので、お任せください」
惚けて手が止まっていたのだ、私の受け持つ分を彼女に任せる訳にはいかない。
気を取り直し手元に視線を戻すと、洗浄槽の中に沈む不格好な金属片を優しく摘まむ。元の機能も、姿形すらも分からないソレに施された細かな意匠の間に静かに指を這わせた。
──迷宮への侵入規制が解除されて三週間ほど経っただろうか。
今回は過去に類を見ない奇種の魔物の出現があった為、当初は規制の解除にも幾分慎重な声が多かった。哨戒依頼の後も皆が注意深く様子を伺ってはいたものの、結局"いつも通り"何事も無かったかのようにその姿は消えてしまっていた。
継続して引き続き警戒を促すアナウンスが出てはいるものの、実質的に今では全てが元通りになったと言っても間違いないだろう。
そして、不幸中の幸いと言うべきか。
猟場にしばらく人の手が入らない事で、植物や鉱石、魔物の器官など一部の収集品は多くマナを取り込み平常時より大きく上質に成長する。
一ヶ月の封鎖で供給が抑えられたことも手伝い、迷宮に関わる活動はより活発になっていた。今私たちが行っている回収品の洗浄作業も、その一つだろう。
「…しかしまぁ、随分張り切っとるみたいじゃのう。しゃーないが、今回はいつもに増してゴミが多かったわ」
濡れた手を拭きつつ、私の手に握られている金属片を目にしたレイシアが苦笑する。
「さっきの指輪も、お前のソレも。分かりにくいが比較的入手しやすい使い切りの魔具の類だろうね。おおかた使用限界で破棄したんだろうよ」
「…そうだとしても、私たちでは判別出来ないものが殆どですから。回収品として提出された以上、丁寧に扱う他ありません」
まぁそうなんだがな、と彼女はわざとらしく肩を竦めた。
結論から言ってしまえば、迷宮の中も人間が活動する以上例外なくゴミが発生してしまう。一目でそうだと判断出来る糧食の包みや消耗品の類であれば特に問題はないのだが、武具や装飾品は機能を失った為に"破棄した"のか、何らかの理由で"遺失してしまった"のか判断するのは難しい。
今は尚更冒険者たちが集中して足を運ぶ為に、このような"回収品かどうか判断しにくいもの"が店に多量に持ち込まれ、結果私たちがそれらを抱える事となるのだ。
「趣味嗜好やらもあるし、何に価値を見出すかはそれぞれとは言え…ホントにお前さんも、回収品の取り扱いなんぞ稼ぎにならんことをよく続けるもんだ」
彼女の言葉は身に染みてよく分かる。
掴むことは疎か、曲げる事すら出来ないこの右腕が。何に使うかも分からない右腕が、今では私にとって価値あるものになってしまっているのだから。
「…何故か、惹かれるものがあって。依頼を受けた訳でもないのに、持ち帰ってしまったんです」
「潜る度に持ち帰ってくるんだもんな。お前が取り扱いの許可を取るまで、毎度毎度ギルドに申請するの大変だったんだからな?…ふふ、全く懐かしい」
今まさに洗浄槽の中で指を這わせているこの金属片は、どちらなのだろう。彼女の言う通りただのゴミかもしれないし、誰かにとっての大事な何かかもしれない。けれどそれはきっと、私にもレイシアにも分かりはしないのだ。
「…レイシア?一つ、よろしいでしょうか」
「んぉ?どうした?」
ただ、自身と回収品というものについて。
慰霊祭の夜に自身の過去を聞いた時から、根拠も無いが考えていたことがあった。
「どうか、笑わないで聞いて欲しいのです。…私が回収品を持ち帰るようになったことについて、なのですが」
彼女は洗浄槽の縁に手をついたまま、何も言わず愛らしい大きな瞳でこちらをただただ見つめ返す。
「私の行為は、失った記憶に繋がる何かを見付けたいが為に、無自覚に行っていたのかもしれないと。そういった可能性もあるのかもしれない、と。…近頃、そう思うのです」
「ふむ…?その根拠は?」
眼前の少女は、真剣な面持ちで慎重に私の言葉の続き待っているように見えた。
「少々話題は逸れますが…臓器移植に纏わる話で、記憶転移と称される事象があることはご存知ですか?」
レイシアは眉間に皺を寄せると視線を彷徨わせる。否定をしないところを見るに、私の言わんとすることについて思考を巡らせているのだろう。
「医療魔術が発達しているこの街ではあまり耳馴染みは無かったのですが…記憶に関する機能を持ちえない臓器の移植にも関わらず、提供者の持つ記憶が受容者へ転移することがある、というものです」
アイザックが用意してくれた書籍の一部にあった記事だったか、それとも何かの機会に手慰みに買った雑誌で目にしたものか、それは定かではない。ただ私自身も半信半疑に目を通していたその内容が、記憶の端に残っていたのだ。
「受容者に見られる変化も実に様々で、食べ物や音楽の好み、芸術的嗜好であったり性的嗜好や趣味、果ては提供者の死の間際の記憶を持ちえる場合もあるそうです」
「…セルメモリーってやつだったか。確か」
彼女が口元に指を当て視線を伏せたまま呟いたその言葉が、正に私が考えていた言葉だった。
「はい。そのような報告から、記憶は細胞にも宿るのではないかという研究も進められているようです」
「…あぁ…成程。機械人形にも、いくつかの生体部品が用いられているんだっけな。…だから、その話しか」
頸椎、並びに胸椎の一部分。それが私に用いられている生体部品。
そして私にも生体部品が組み込まれているのであれば。記憶装置が破損していたとしても、それらの細胞が断片的に記憶を保持している可能性も否定は出来ないのでは、と。そう考えたのだ。
「どう…なんだろうな」
言わんとすることを理解したレイシアは穏やかな表情でしばらく思考を巡らせると、注意深く口を開く。
「確かにそういった症例はいくつか確認されておる故、一概に否定は出来ん。出来んのだが…率直な意見として、だ。…少々、願望的思考が過ぎるようにも感じる」
──願望的思考。
視線を上げた彼女の真剣な表情が、その大きな瞳が。飾り気のない言葉と共に真っ直ぐに私に向けられる。
「記憶転移の症例は、確か心臓だとかごく一部の臓器で見られたものの筈だ。何でも良いと言う訳でもあるまい。そも記憶転移という症例自体、手放しに信用出来るかと言われれば難しくもあるだろう」
彼女がそう感じるのも何もおかしくない。
少なくともこの八年間、私は過去の記憶らしいものを取り戻したことは殆どない。自身に何が起こったのかも、ナインの口にしていた"目的"すらも。
だのに無意識でというのは、確かに都合が良すぎるのかもしれない。
「お前たち機械人形のことも全て把握出来てはおらんから、そういう機能があるという可能性も捨てきれない。ただ、自身の説明出来ない行動に尤もらしい理由をつけて理解したつもりになりたいだけ、なのかもしれない」
「……そうかも、しれませんね。変なことを言いました。申し訳ありません、レイシア」
他でもない身近な人間が。客観的に、私の話を聞いてそう感じるのであるならば──
自身のことほど見誤るとはよく言うものだが、私の感じたものは間違いだったのだろうか。
「…まぁしかし、だ。ここまで散々と言いはしたが、ワシは否定も肯定もしないというだけだぞ?願望的な思考は決して悪ではないんだよ、マギア。現実的な思考が全てに勝る訳でも無ければ、願望から生まれるものも多分にあるのが事実さね」
ふっと少女は唐突に表情を緩め、花のような柔らかい微笑みを作って見せる。
「ふふ、何も謝ることなんて無いんだ。幼子の様に突飛で無秩序でも良いのさ。えぐみや苦味ばかりでは飽きてしまうでな、たまには甘い菓子か果実の様な柔らかな夢に思考を泳がせるのも良かろうて」
そう告げる彼女は実に楽しそうで、嬉しそうで。目に見えて分かるほど、それを隠そうともしないのが少し不思議なくらいだった。
「自由に思考しろ、マギア。考えることに間違いなんて無いんだ。考えて考えて、様々な可能性を想像しろ。自らに枷を嵌めるな。…それに、ワシ個人としてはだが。お前が夢を語ってくれるのは、そうでありたいと願いを抱くのは。決して悪い気分はしないんだ」
夕陽色の空気を揺らして、白い歯を覗かせあどけない微笑みを向ける少女の起こす波が、私の境を静かに動かす。
うん。きっとこの感覚を、この波を心地よいと表現するのだろう。うまく言葉には出来ないが、そんな風に感じるのだ。
──ちりん、と。
唐突に、耳馴染みのある小さな音が私とレイシアの間に異なる波を立てる。同時に、二人のはっとした視線が絡んだ。
「…ごめんください!すみません、どなたか、いらっしゃいませんか…?」
「申し訳ありません、少々お待ちください。ただ今参ります」
鈴の音からそう間を置かずして届いた若い女性の声に、私の口は反射的に言い慣れた定型句を返していた。
作業を一旦中止すると、レイシアの手を借りて水滴を拭い取り捲り上げた袖を整えて貰う。
"行っておいで"
そう言わんばかりに無言でにっと笑みを浮かべるレイシアと視線を交わすと、間仕切りの布をくぐり工房を後にする。
ふわりと舞う薄布が視界から流れていくと、雑多な商品が並ぶ店内のに赤毛の少女が一人ぽつんと佇む姿が見えた。胸に手を当て不安げに周囲に視線を彷徨わせていた少女が早速こちらに気付くと、その表情を僅かに安堵に緩める。
「あぁ、良かった……お久し振りです、マギアさん」
「…ニキア様?お一人で、どうされたのですか?」
鮮やかな赤毛を揺らす、仲の良い姉弟の冒険者を見間違える筈などないのだが──店内を軽く見渡しても、いつも隣に見かけていた弟のロルフの姿はどこにも見当たらない。
眼前のヴィルジニアもどこか様子がおかしく、数歩歩み寄ったかと思うとすぐにその脚を止め足元に視線を落としていた。
「ぁ、えぇと…あの……お忙しい時に突然お伺いしてすみません。あの、あたし、マギアさんに相談したいことがあるんですけど…今、お時間大丈夫ですか…?」
「はい、何も問題ありませんよ。どのようなご用件でしょう?」
記憶にある溌剌とした姿とは打って変わって、逡巡しながら慎重に言葉を選ぶヴィルジニアにはやはり違和感を覚える。
出来る限り穏やかに言葉を促すものの、彼女の瞳は明らかに戸惑い揺れていた。
「…ごめんなさい。どう、言えばいいのか…うまく整理が出来てなくて…」
ずっと立ったままなのもどうかと思いはしたが、今は波を立てて彼女の境を揺らさないよう、私はただ静かにヴィルジニアの言葉を待った。
水に沈んだ欠片を掬い上げ、その形をハッキリとさせてからでもきっと遅くはない筈だと。
──呻くようなか細い声を何度零しただろうか。
小さなため息を一つ吐くと、彼女はおずおずと口を開いた。
「…迷宮が封鎖される頃…いや、きっとそれよりも前くらいから。ずっと、ロルフの様子がおかしいんです」
少女は視線を落としたまま、きゅっと不安げに体の前で手を組む。口の端を歪め、ほんの僅かに声を震わせて。
「怖いんです。ロルフの考えていることが、分からなくって。あの子が、怖いんです。……どうすれば、元に戻れるのかな」
切り揃えられた鮮やかな赤色の髪が、音も立てずはらりと流れ夕陽を揺らした。また一つ、どこからともなく訪れた波が私を包み込み、揺り動かそうとしていた。




