-幕間-3-2
この場所が好きかと問われたら、なんと答えるべきか。何となしに考えたことはあるが、なかなかすっぱりと答えが出てこなかったことが意外に感じたことは覚えている。
決して好きにはなれないし、しかし特別嫌いな訳でもない。ただまぁ、良い環境だとは絶対に言えないことだけは確かだった。
───
──
"街"の近く、活火山の裾野に広がる山林の傍ら。
一体いつの頃からそれがあったのかは定かでは無いが、社会から脱落した者や流れ着いた幼子たちが築き上げた色褪せたスラムがあった。
見渡す限り無秩序に統一性の無いあばら家ばかりが建ち並び、蜘蛛の巣のような狭路が張り巡らされたその場所には、常に雑然とした空気が漂っていた。
そんな場所の、とある朝。乾いた赤土の小道をティルがとぼとぼと歩いていた。喉の奥まで見えるような大きな欠伸をすると、起き抜けの身体の底から生緩い空気が抜けていく。
朝から随分と元気なものだ。前方からやってきた薄汚れた格好の子供達が、満面の笑みを浮かべ歓声を上げながら走り去っていく。
そこかしこの軒先や道端に見える大人たちは、恐らく労働の合間に一息ついているのだろう。ここで暮らす者の殆どには貧困が付き纏う為、その殆どが日が昇る頃には労働に勤しんでいる。僅かな憩いの時間、飲み物を片手に談笑や賭博に興じる姿も珍しくは無い。
──とうの昔に見慣れた光景だ。ここを取り巻く環境は決して良くは無い。ただどんな場所にも必死に前を向く人達の営みが存在する。それはここも例外ではなかった。
「よぉティル。眠そうだな。また街かよ?」
──不意に。背後から男の声が名前を呼ぶ。
気付かれない様に心中で小さく溜息をつく。朝っぱらから面倒なのに絡まれるのはゴメンだ。歩調を緩め、それでも決して足は止めずに顔だけ向けると変わらぬ調子で相槌を打った。
「そうだよ。変わらず貧乏暇無しさ。面倒だけど、適当に飯代くらい稼がないと干上がっちまうだろ?」
「ふぅん…にしては随分真面目に通ってるよなぁお前。なぁ?何か良い話、隠してる訳じゃないだろうな」
どこかで見た覚えがあるような、無いような。骨ばった身体をした男が一人、妙に馴れ馴れしい態度で話しかけてくる。口元に薄ら笑いを浮かべてはいるが、瞳の奥は決して笑ってはいないことは容易に分かった。
猟犬の様に抜け目無く周囲を見渡し、獲物にありつく機会を探す男の腰には短刀の柄がちらと覗いて見える。
「んなもんにありつけてたら、わざわざここに戻ってこないよ。毎回毎回街に通うのだって面倒なんだ…僕だってそんな仕事あれば教えて欲しいくらいさ」
「…ふん。まぁ、そうか。なぁ?今度稼いで来たら教えろよ。良いモノがあるんだ。特別に安く譲ってやるよ」
誰に対しても言っているだろう定型句に曖昧に返事をしてやり過ごすと、男の視界から消えるだろうまでは気だるそうに猫背で脚を運ぶ。
"誰かを傷付けたり、恨みを買うようなことをしちゃ駄目だよ?あとは真面目になんてやらなくても良いから、上手いことやりなさい?"
本当に。心からヘデラには感謝している。
頭を撫でられ何度も繰り返し聞かされたソレが、とても大事なことだと実感出来る。この場所での生き方を教えてくれたのも、僕に名前をくれたのも。全て彼女のお陰だった。
──薄い布きれに包まれ山林に捨てられていた僕は、偶々五体満足の内にスラムに流れ着いた。
別れの品も何も無く早々に天涯孤独だったのだが、そんな赤子を引き取って育ててくれた女性がいた。それが彼女──ヘデラだった。
親と呼ぶには幾分若い彼女は、身体を売って暮らしを立てていた。それを聞いた時に、何も答えずに少し翳りのある笑顔を浮かべていたのを今でも覚えている。本当に、優しい人だった。
楽でもない生活なのに何故僕を引き取ってくれたのか、と。それはついぞ聞くことは無かった。子持ちということを上手いこと利用していたのかもしれないし、彼女なりに何かしらの理由はあったのだろう。ただそれが何であったとしても野垂れ死にせずに済んだだけで感謝するべきであり、僕にはそれで十分だった。
少し前、ヘデラが病気で亡くなる前に渡された物があった。記憶にある最期の彼女は、確か今の僕よりいくらか上の年齢だったか。唯一手元に残っているのは、宝石も彫刻も無い安っぽい指輪だけ。こんな物だけが彼女の生きた証だ。
"ティルがどんなに正しかったとしても、危ない目に遭いそうならさっさと逃げちゃいなさい。無駄に意地を張ったり、格好付けようとしなくて良いからね"
いつだったか。そう教えてくれたのもヘデラだった。
このスラムは、犯罪で街を追われた冒険者崩れや魔術を扱える輩がトップに座っているのだ。
誰が何をするのも勝手だが、そいつら連中に目を付けられれば命の危険が付き纏う。儲け話になりそうなものには目敏く食らいつくし、反目するようなら文字通り潰される。
事実、そんな輩を相手に一人で立ち向かうのは無謀極まりない。戦闘経験の無い一般人やただの子供なら尚更だ。暗い袋路のゴミ山の下から、人間だった何かや身体の一部が出てくるなんてこともザラだ。
"良い?貴方のその才能は、誰にも知られちゃ駄目だよ?親切にされる事を期待したらいけないんだから"
どんなに事を成そうが、死んでしまえばそれまでだ。
好評も、悪評も。ここで名が知れ渡るということは等しくリスクでしかない。いかに優れた何かがあったとしても、それは隠すべきものでしかないのだ。
──スラムを後にしても尚、ゆっくりとした足取りのままとぼとぼと"街"を目指して歩く。山林を迂回した先、街道の人通りに紛れ込めばあとは安全に着けるだろう。
到着したら、いつも通りゴミを集めるか荷運びか。何でも良い。最低限の装備一式を買い揃え、街に拠点を移したら二度とスラムに戻らずに済む程度には纏まった金が要る。
街道にはちらほらと旅行者や冒険者らしき一行、はたまた行商人たちの姿が増え周囲が次第に賑やかに変化する。あちらこちらから楽しげな談笑が聞こえるが、僕はその度に奥歯を噛み締める。
コイツらが本当に嫌いだ。お前らみたいなのが集まるから、僕みたいなのが生まれるんだ。この街が嫌いだ。綺麗なモノで上辺だけ塗り固めたようなこの空気には嫌悪感を抱かずにはいられない。
──それでも。
"ティルは、こんなところで終わっちゃ駄目だよ?ちゃんと幸せになってね"
自らを棄てた、誰とも知れぬ親から引き継いだ冒険者の才能を磨いて。
その力を活かし、迷宮に潜ることで割の良い稼ぎを得ていく。
無戸籍者で、誰とも伝を持たないスラムの人間が怯えずに生きていくにはそれしかなかった。
そんな自分が、何よりも一番嫌いだった。




