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──これを目にするのも何度目になるだろうか。
「この先注意」と擦り切れた文字で書かれている、くたびれた立て札を横目に通り過ぎる。
お世辞にもしっかりしているとは言えない古ぼけた木製の柵が並ぶ一本道を、支援物資を背負った冒険者達一向が列を作り進行していた。
三階層を進んで半日程、四階層への階層経路もあと僅かという所だろうか。
元よりこの階層は油断こそ出来ないが叫声する樹児への対応装備を施し、立て札の先に広がる群生地帯を避ければ比較的安全である場所に違いなかった。
聴覚を遮る必要がある為、人間の冒険者は発話でのコミュニケーションが取れなくなるのは厄介ではあるのだろうが、他の階層よりかはいくらか危険度は低い。
──遠く、道の続く先。一際強い灯りと、その下に集う集団の影が小さく姿を表す。
それは四階層へ下降する為の穿孔がある場所であり、今まさに準備を整え突入せんとする先行部隊の姿であった。
「いよいよ、か」
目指す先から目線を逸らさず、歩調も変えず。ぽそりと零す。
各自が耳をすっぽりと覆う遮音装置を装着している為、ティルの自らを奮い立たせるような小さな呟きは誰にも聞こえてはいなかっただろう。少なくとも機械人形であるが故に装備が不要な私とナイン以外には届くことは無く、足音と共に人知れず消えていくに違いない。
ちらっ(何かの方言でしたらすいません)、と。視線だけで隣を歩くウィルマを伺う。
彼女も思うところがあるのだろう。三階層に入った時から表情が硬く、包帯で巻かれた長さの歪な指を時折胸の前で握り込んでいた。
──終わってしまった事への清算を。私達の我侭を果たさなければならない。
屋根を叩く雨音の様な足音だけがしばらく鳴り続いて、私達一党も広間に辿り着く。
緊張と緊張の僅かな隙間。ほんの一寸緩み生まれた安堵の空気は、賑やかとまでは言わないが和やかな空間を形作っていた。
遮音装置を外した冒険者達が必要事項の共有や補給物資の分配、装備の付け替え等に勤しんでいる様子を少し離れた場所から眺めていた最中。
「マギアさん、少々お時間よろしいでしょうか」
──皆に背を向ける様にして。
浮遊するナインが変わらぬ様子で正面に近寄ると、聞き覚えのある硬い声で小さく私の名を呼んだ。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、少々お願いが。お手数をおかけしますが、私の瞳を注視して頂いてよろしいでしょうか」
「…貴女の瞳を、ですか?」
彼女の本意が理解出来ず、鸚鵡返しに疑問が口を衝いて出る。
僅かに見上げる様にしながらナインを見詰めていると、彼女の目尻に連なる内の一つの瞼が静かに開く。固く閉ざされていた瞼の奥には、白目の無い緑色の大きな瞳がこちらを覗いている。
途端。意識が吸い込まれた様に、取り巻く空気が固まった様に。身体の制御の一切が制限され、私は彼女の瞳から視線を逸らすことが出来ずにいた。
何かの干渉を受けていることは確実で。しかしながら視界には何のエラーすら表示されない。抗う事の決して出来ない強い力で捻じ伏せられる感覚だけがあった。
「…何、を、され、て、いるのですか」
──混乱する頭を抑え付け、精一杯のか細い抵抗を喉から搾り出す。
硝子の様な清澄さを湛える瞳の中に、幾重にも刻まれた魔術式めいた機構がキチキチと音を立てつつ緩やかに脈打っている光景だけが目に焼き付いて──
強引に開頭され螺子を無理矢理に締められる様な、身体の中の何かが崩れていく様な。形容し難い嫌悪感が体中に満ちていく。
「…すみません。ありがとうございました」
どれだけの時間が経ったのかは分からないが。
ナインの瞳が閉じられると同時に、拘束が解かれ身体に自由が戻る。末端までの動作にほんの少し遅延がある様な、虚脱感とも形容出来る不思議な感覚が残っていた。
「貴女は本当に、失ってしまっているのですね」
「ナイン様は、何を、仰っているのですか…?」
今にも崩れ落ちそうになる身体を、鉄塊を支えに必死に体勢を整える。無骨になった右腕がこんなにも頼もしいと感じた事はそう無いだろう。
「各個体に搭載されているべき記録に関わる事柄を確認させていただいただけです」
「…先程からナイン様が何を仰っているのか、私には分かりかねます」
「貴女が失ってしまったのであれば、私から仔細を申し伝えることは出来ません」
興味を失ったと言わんばかりに、取り付く島も無く冷たい声でそう告げると、身体を斜めに構える。
「……」
「しかしながら、比較的満たされている傾向にありますね。好ましいが故に、残念です」
最後にそうとだけ残すと、彼女はいよいよ背を向け皆の下へ向かっていった。
一人残された私は、その場にすとんと座り込む。
今一度自身の調子を確認する。何もおかしい部分は無い、筈である。先程まで感じられた各部位の遅延も今では見られない。
私は何をされたのか。彼女は何を知っているのか。何故、伝えることが出来ないのか。思う事は多々あるのだが。
何よりも。彼女の覗き込む緑色の瞳の光景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。




