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「クロア様、ご確認頂けましたか?」
目の前の薄闇に顔を向けたまま、彼女が尋ねてくる。
「えっと…あのスライム、体の中に何か取り込んでます?短剣、ですか…?」
「はい、その通りです」
揺らぐ灯りに照らされる魔物の姿。鈍く動く水溜りの中には、間違いなく短剣が存在していた。やはり見間違いではない様だ。
「目の前の光景とあの魔物を討伐するということで既にお分かりかもしれませんが、念の為に。私の行っております"回収"とは、迷宮内で発生した冒険者様の失せ物や、遺品等の探索並びに確保を行い、地表へ持ち帰る事を言います」
──遺品。今彼女は間違いなくそう言った。
それでは。あの短剣の持ち主は、どうなったのだろうか。嫌な想像が駆け巡って止まらない。
「クロア様、行動を起こす前にお伺いしたいのですが。スライムとの戦闘経験はございますか?」
彼女の投げかけに答える為に頭を無理矢理切り替える。今は余分な事は考えている暇は無い筈だ。
「…スライムとは、過去一度だけ戦ったことはあります。…けど正直、得意じゃないです」
──スライム。
大陸全土に広く生息する、粘液状の体を持つ魔物。勿論、迷宮の中もその例外ではない。食物連鎖の分解者兼消費者である。
動きは鈍重、しかしその体内を自由に動き回る"核"に損傷を与えない限り死なない特性がある。
過去に村近くの坑道に湧いて出た事があったが、とてもではないが"切り殺せる"相手には思えなかった。
まるで水飴に剣を通している様な感覚、刃が通ったかと思えば既に切り口は塞がっているし、相手はおかまいなしに取り込もうと近付いて来てくる。本命の核も、緩やかではあるが常にこちらから逃げる様に動き回るのだ。
…確か当時は男手総出で、松明やら農具やら廃材やらをとにかく投げつけ不恰好にもなんとか倒した覚えがある。
自ら進んで戦いたいとは思わない相手ではある、がそうも言ってられない。出来る限り頑張ってみるしかなさそうだ。
「なるほど、左様でございますか…かしこまりました。それではクロア様、私も協力致します。お力添えをお願い致します」
「え、でもマギアさんは戦えないんじゃ…?」
協力と言うが、どうするつもりなのか。彼女には何か手があるのだろうか。
頭の先から足先まで眺めるが、やはり武器の類は持っていない。間違いなく丸腰に見える。
「私のすぐ後ろ、私と全く同じ歩調で…そうですね、前方に7歩ほど出て欲しいのです。よろしいでしょうか?」
「同じ歩調…?はい、頑張ってみますけど…」
「ありがとうございます。…申し訳ないのですが、出来る限り合わせて頂けると助かります。あまりにずれてしまうと意味がありませんので。ゆっくりと歩きますので、よろしくお願い致します」
彼女が何を考えているのか分からない。分からないが、バックパックを静かに地面に降ろし黙々と準備を進めている。
──遮る物が無くなったからか。腰部に装着した無骨な白銀色のマナの吸引供給機が辺りの壁面に眩しく反照させている。
上背があるが女性特有の柔らかさを感じさせる後姿と、無骨でアンバランスな右腕が薄闇をバックにくっきりと照らし出されているその光景はどこか異様で。眼が離せなかった。
ピンと背を伸ばすと、隠れていた岩壁から身を晒す。彼女はカンテラを頭上に掲げ、一つ息を吐いた。
「よろしいですか?…それでは、参ります。…1」
──ゆっくりと、数字を口にしながら彼女は前に踏み出していく。とにかく彼女の足元を注視しながら、同じタイミングで一歩を踏み出し、すぐ後ろに続く。
こちらが踏み出したすぐその後、スライムがこちらに揺れたのが見えた。
2……3……4……
じわりじわり。
距離が詰まっていく。彼女は踵から着地して、一歩一歩を踏み締める様に進んでいく。やたらと彼女の足音が大きく聞こえる気がした。
──7歩目。ぴたりと立ち止まる。恐らくほとんど歩調のズレはなく歩けた筈、だと思うが。
「クロア様、そこから一歩も動かないで下さい。よろしいですね?」
スライムはもう目前にまで迫っている。
ここからどうするつもりなのか。緊張で柄を握る手に力が入る。
「それでは…少々お待ち下さい」
一瞬、確認する様にちらりと瞳を向けたかと思うと。彼女が左側に、大きく一歩を踏み出した。
「え!?」
こちらが困惑している間にも、彼女はスライムの周りを円を描く様に進んでいく。
先程と異なり大きく跳ねる様な不自然な歩き方をしているせいか、若干ふらついてその歩みは遅かった。なぜ急にそんなことをし始めているのだろう。とにかく見ていて危なっかしい。
──どうやら目の前のスライムは彼女を補足してしまった。警戒しているのだろうか、彼女に向け波を立てる様に小刻みに体を動かしている。
彼女は一体何をしているのだろう。
しかし、とにかく。好機かもしれない。目前でスライムは止まっているのだ。…今、核は身体の中央辺りだろうか。
粘液上の身体を切り裂き核を捉えられるかは、僕の力量次第だろうか。腕に力を込め引き抜くと、柄を両手で握り、構える。勢い良く振り下ろそうとした、その時──
「まだです!」
「…?!」
ふらつきながらも彼女は僕を制止する。
この好機でなぜ待たなければならないのか。目の前の魔物は彼女を補足している。捕まってしまえば、逃げ出す事はとてもではないが困難であろう。
──スライムの体は、まるで液状の筋肉の様である。
粘度を高め硬度を生み出すと、生き物に巻き付き絞め殺すのだ。体内に取り込めばそのまま圧死させることも可能だろう。顔の様な穴のある部位に付着すれば、体内に侵入し窒息させる場合もある。
どうすれば、生き物を損傷させることが出来るのか。殺すことが出来るのか。それを理解する程度に知能はあるのだ。
それなのに。
何を待たなければならないのか。
焦れている間にも、目の前のスライムは触手の様に体の一部を細くすると、彼女に向け伸ばし始めている。
──ふと、眼前の脅威の体内。伸ばす触手とは反対側に、核がゆるゆると動いていくのが目に映った。
「…え…何で…?」
スライムを挟んで、丁度彼女が僕の真正面に到達した時。粘液の塊の限りなく表面に近い部位。僕の目の前に核が見えた。ぴたりと定まり、動こうとしない。
まるで"殺してくれ"と言わんばかりの魔物の挙動に、理解が追いつかない。
触手はあと数秒もすれば彼女の足を捕らえる所まで届いていた。
「クロアさん、切って!」
──疑問を解消できないまま、声に背中を押されて振り下ろす。
剣先が核を捉えるとカキン、と石が割れるような音がした。