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私はあれからも、度々噂の潰えた件のベースに足を踏み入れていた。
競売にはかけられてはいるが、買い手のつく見込みの薄いボロの建物。そんな場所に足繁く訪れている。理由は簡単で、そこで見つけた奇妙な日記が気がかりになっていた。もっと詳しく言えば、あの日記の続きとその筆者が気になっていたのだ。
だけど、見付からない。レイシアに同行して貰ったこともあったが、どうしても見付けることは叶わなかった。
「あそこに何かあるのか?」
当然ながら彼女にそう聞かれたことがあった。購入意思が無いにも関わらず度々足を運んでいれば、その目的を聞かれるのはおかしくない。
「…うまく言語化できないのですが、何か気になってしまって」
この時初めて、私は彼女に嘘をついた。
その予感は推測でしかないから今はまだ伏せておくべきだと、人口毛髪を発見して以降の進展も無かったのだからと自分に言い訳をして、そんな風に曖昧な返事をした。
あの日記が私の膝の上から姿を消す、その直前。ページに記された弱光を放つ魔術式から頭の中に流れた、記憶の光景。
光が落ちた狭い部屋。ベッドに腰かけ、視線は何もない部屋の隅に定められている。膝を抱えて座っているのか、すらりとした前腕と形のいいしなやかな膝が視界の端にちらりと見える。傷一つない肌は所々僅かに浮き上がり、不自然に滑らかな影を作っていた。そして浮き上がった皮膚の下には、曇りなく磨かれたような鈍色の素肌がちらりと覗いている。
ゆっくりとした動作で視線が横にスライドする。扉の閉まったクロゼット、几帳面に整理された机、一冊も本が並んでいない本棚、備え付けの鏡──それらを横切ると、開け放たれた窓の向こうに街の夜景が映し出される。そのまましばらくどこか見覚えのある光景が続いた後に、映像はふつりと消えた。
ほんの一瞬。流れるように横切った鏡に、この記録の主の姿が映っていた。その人物が、栗色の頭髪に見えたのだ。
不機嫌そうな表情を隠すこともなく、案内員の男は慣れた手つきで錠を解くと、建て付けの悪くなった窓を開け部屋に籠った空気を入れ替えていく。
いつからかここの物件に案内員が常駐することは無くなり、内見には事前申請が必要となった。そしてこの太い腹をした中年の男が担当者なのか、私と顔を合わせるだけで"どこを見たいのか"口にせずとも分かる程には顔見知りとなってしまっていた。
「どうせ今回も買いもしないだろうに」
口にはしないだけでそう思っているだろうことは明らかだったが、これは私に非があった。
この男も当初は人のいい笑顔を浮かべ、あれこれと丁寧にアピールポイントを説明してくれていたのだ。ただ私の目的は物件の購入ではなく、件の冊子を探すことであった。内見を申請し、部屋を歩き回り隅々まで見渡すと帰っていく。そしてまた前回と同じ物件の内見を申請し、見渡すと帰っていく…その繰り返し。
そんなことをしていれば"購入はしないにも関わらず、特定の物件の内見だけを繰り返し希望するよく分からない傍迷惑な客"となっているだろうことは想像に難くない。
「それで、気になってる何かは見つかった?」
「…いえ、見つかりません」
この日はレイシアと二人で件のベースを訪れていた。一人で探しても見つからない以上、違うアプローチをする必要があった。
開け放たれた扉や窓から秋らしいひやりとした透き通った空気が入り込み、殺風景な室内が余計に寒々しく感じられる。そして予想していた通りではあるが、あの時に見た冊子はどこにも見当たらない。
「お前さんの言う"気になる何か"がはっきりと分からん限り、こちらも力になれんからのう…」
広くもない室内を見渡しつつ細い指を顎に当てながら軽く唸ると、レイシアは何を思ったか入口に向かって声を投げかけた。
「あのー、すみません」
「…えっ?あ、あぁ、すまないね。何だいお嬢ちゃん?」
今更になって改めて話しかけられると思っていなかったのか、案内員の男は小さく驚きつつ返事をする。
「内見の後って、都度掃除されてるんですか?」
「掃除?そりゃあやってるよ。まぁ特別目立つような汚れが無ければ、換気と簡単に床を掃く程度だけど…それがどうかしたかい?」
「いえ、その時に何か変わった物とか見かけませんでした?物じゃなくても、おかしな出来事とかでもいいんですけど」
「変わった物?んー…?いや、何も無いと思うけどねぇ。何か探しものかい?」
この受け答えに、案内員が嘘をついている様子は無いように見えた。
「いえいえ、ここって前は色々噂があったじゃないですか。だからそういうのが気になっちゃって」
「あぁ…成程。そういう心配はもうしなくて良いんだよ。ギルドの方々も散々確認済みだし、変なことはもう起こらないって約束できるね」
レイシアとやり取りをした後、しばらく案内員はこちらの様子を伺っていたが"やはり期待するだけ無駄か"とばかりに溜息をこぼしていた。再び入口脇の定位置に戻ると、腕組みをしてこちらを眺めている。
「ギルド職員が数人がかりで立ち合って異変の有無を確認し、異常は特にないことを確認済み。しかも中に変わった物や出来事がないか都度確認もしとる。…んぅー…」
レイシアは眉を顰め考え込んでしまうが、彼女が続けて言わんとすることは何となく想像できた。
「これ以上ここに来る意味はあるのか?」
ここを訪れている目的/理由すら誰にも告げていない上、目に見える進展が何も無いのだ。そんな感想を抱いたとしても仕方ない。それに来客の少ないタイミングを見繕っているとはいえ、度々店を空けるのは決して褒められたことではない。これ以上"不毛な行為に見える何か"を続けたいのであれば、決定的な手掛かり、もしくは進展が見込める何かを得る必要があるだろう。
私もレイシアと同じ様に顎に指を当て考えていたが、思い切って一つ行動を起こすことにした。
「あの、すみません」
「…はいはい?今度は何か?」
先ほどよりかは間を置かず、しかしながらどこかうんざりした様子で男が返答する。
「しばらくで良いのですが、入り口の扉と窓をすべて閉めさせてはいただけないでしょうか?」
「んん?…あー…いや、申し訳ないけれど、換気だけじゃなくて防犯も兼ねてるんだよ」
男は白髪交じりの太い眉をぴくりと動かすと、やんわりと提案を断った。
この建物の入り口は一つだけである。窓だけでなく扉を閉めてしまえば完全な密室となる訳で、中で何が行われているのか確認することが出来なくなる。男の対応は当然だろう。
「10分、いえ5分で構わないのです。どうかお願いできないでしょうか」
それでもどうしても試してみたいことがあった。
まず書かれていた内容から、執筆者は日記そのものが衆目に晒されることが無いようかなり気を遣っていた。それならば周囲の視線を遮断することに何よりも注力した筈だ。
そして前回あの日記が現れた時。たまたま扉が閉まり密室の状態となった後に、その姿を確認することが出来た。そこから、あの日記を認識するには扉や全ての窓を閉め「外から中が認識できない状態」を作る必要があるのではないかと考えたのだ。
聊か困惑した表情で私を眺めているレイシアを横に、どうしてもと何度も食い下がる。しかしながら案内員の態度は次第に硬くなっていった。
「だから、何度も言うけど駄目なんだって!何を企んでるのか知らないけど、防犯上ここの扉は開けたままで内見はお願いします!」
「…どうしても、駄目ですか?」
「しつこいなぁ、決まりだから駄目なの!…こんな厄介事になるんだったらもっと早くに追い払っておけば良かった」
気に障ったのか、いよいよ男は不満な態度を隠すことなく言葉を零す。
「本当に申し訳ないんだけどね、購入する気が無いならもう帰って貰うし、今後も内見の申請は断らせて貰うよ。良いね?」
それは、困る。ここに立ち入ることが出来なくなれば、日記の続きも、それを綴った機械人形本人のことも分からなくなってしまう。それだけはどうしても避けなければならなかった。
「でしたら。こちらの物件を購入させていただきます」
ほんの数秒ではあったが、二人は目を丸くしたまま無言で私を見ていた。
「…購入の意思を表しました」
「は?」
「購入の意思を表しましたので、引き続きこちらの内見を続けても問題ございませんね?」
「……あぁ、もう何なんだ!知ったことか、好きにすれば良い!」
自分が言った手前断ることが出来ないが、どうにも腹立たしいのだろう。勝手にしろと吐き捨てると、顔を真っ赤にした男は出て行ってしまった。客を置いてそのままどこかに行ってしまう事はなかろうが、手を貸してくれることも無いだろう。
「おいおい!マギア、お前正気か?!」
二人になったかと思えば、今度はレイシアが食って掛かる。声を抑えてはいるが、困惑の表情を色濃く浮かべていた。
「急にどうした?今までそんなことしたいなんて一言も話してなかったじゃないか?」
理由も目的も明かされぬまま連れ回された挙句、相談もなく物件を一つ買うと宣言されたのだ。彼女にとって青天の霹靂だろう。それでも、ここを探索する機会を逃す訳にはいかなかった。
「言わんでも分かっとると思うが、店だけじゃなくお前さんが迷宮へ潜る諸々の出費もあるんだぞ?そこまで金銭的な余裕はありゃせんぞ?」
レイシアの言う通りで、私が迷宮へ潜る際にもギルドに依頼という形を執る必要がある。そうである以上は依頼料や雑費、消耗品代など店の運転資金以外にもそれなりに大きな出費が定期的にかかっている。元の主人を探すことも、素材を得る為の侵入にも影響が出ることは明確だ。
「……本当にすみません、レイシア。お願いします。力を、貸してください」
そんな彼女に対して、私はただただ頭を下げ懇願するしかできなかった。
あの本の執筆者はおそらく機械人形であり、そして私の知らない何かがあの日記には綴られている。書かれている内容をレイシアと共有してしまえば、私の一連の行動の説明も容易ではあるだろう。
しかしながら、執筆者は自身の秘していることが暴露されてしまうことに対し心を砕いていた。「失望されてしまうかもしれない」という言葉を用いるほどに、何よりも。それを知ったからこそ、その内容を他者である私が軽々しく吹聴することには少なからず抵抗があった。
私の見つけることが出来た"栗色の人口毛髪"というだけの共通点についても、それを根拠とするにはあまりにも弱い。
どこまで話していいのか、どう説明すればいいか。私の中でも答えが固まってはいなかった。
「んぅぅ…あぁ、もう!後で説明はしてもらうからな!とにかくやりたいことがあるなら急げ!」
そんな私を見兼ねたか、レイシアは思考することを一時取り止め、狭い室内をパタパタと駆ける。少ない窓を閉め唯一の扉を閉めると、空気がしんと静まり返った。
「さぁどうだ?目当ての物は見つかったか?」
「……いえ、みつかりません」
あの時にいた小部屋の中央で膝立ちになり、ベッドの下まで覗き込む。しかしながらあのブルーブラックの冊子は見当たらない。私の見当違いだったのか?
目を皿にして探していると、扉が開く音と共に案内員の妙に通る声が背中越しに響く。
「ほら、そっちの条件は飲んだんだから、もうそろそろいいでしょう?いい加減そろそろ表に来てください!このまま店に来てもらいますよ!」
先ほどより多少落ち着いた様子ではあるが、依然語気は強いままであることからこれ以上彼を待たせ続けるのも限界のようだった。タイムリミットを告げた案内員は、こちらを急かすように音を立てて扉を閉めた。
私の見立ては誤っていたのだろうか?あれはただの錯覚?このまま本当に何の手がかりも得られないのか?
焦りつつも再度、床を這うようにしながら隅々まで目を配る。
「くっそ…よく分からんが、もうギリギリまでお前が探せ!ちょっとは時間を稼いでやる…!」
床を這う私と入口の扉を往復するように見ていたレイシアがそう言い残し、一人出ていく。
「いやぁ、お待たせしてすみません。──」
機嫌を取るような猫を被った声が遠くなる。今度こそ、ここに私一人になる。そして今更ながらに思い出した。ここの主がどんな人物だったかを。
筆者は誰の目にもつかぬよう、日記を隠匿することに執心していた。そうである以上、外から認識されない密閉された空間でないとそれを認識できなくしていた。恐らくこの推測は正しかった。
レイシアの声が徐々に小さくなり、扉の向こうにその姿と声が消える。パタン、という軽い音と共に扉が閉まる。
──大事なことを忘れていた。筆者は人間だったか?否だ。
跪いた私の目の前。ベッドの足元、床の上に探し求めた冊子が無造作に落ちていた。屋内に機械人形だけが存在する状態であること。きっと、それがもう一つの条件だったのだ。