10-3
「…本当に、私も一緒で良いのでしょうか」
「何度も言わせないで。ほら、早くいきましょ」
脱衣所であれよあれよと服を剥かれたまま、私は少しばかり心許ない気持ちで佇んでいた。
機械人形が風呂に入ろうとしているだけでなく、ソレには目に見えてアンバランスな右腕が装着されているとなれば人目を惹くには十分だった。更に言えば、物珍し気に見つめる好奇の視線が私だけでなくレイシアに対しても向けられているともなれば、気にならない訳がない。
──私たちは、人の形を模した機械である。
私たちがそれぞれ個体毎に異なる自我のようなものを持つと認識されてしばらく。私たちが唯一確認されている"迷宮"という場所を抱える街では様々な取り決めが運用され、今尚試行錯誤が繰り返されている。
切り離すことが出来ない程に距離が近いからこそ、私たちという存在について思考してくれる。最適な距離を取り、譲歩し、寛容であってくれる。だからこそ、機械人形は人間の傍で生きていけるのだ。
ただそれらは、あくまでも"クリム・フィロア"という限られた範囲の中の話だ。
動力源となるマナ濃度の薄い場所では稼働出来ない故に、私たちは街から遠く離れることは出来ない。街の外では機械人形は未だに日常の外にある存在なのだ。先ほどの受付の女性や、脱衣所ですれ違う人たちの態度がそれを物語っているだろう。
口数少なく視線を落とす私の様子を察したのか、瑞々しい桃色の肌を晒したレイシアが髪を結い上げ終えると、私の手を引きさも当然と言わんばかりにぐいぐいと入浴客を掻き分け歩を進めていく。
「あたしからそんなに離れなければ何も問題ないんだし、周囲の目は気にすることなんて無いの。マギアはあたしの大事な家族なんだから」
「家族…ですか」
「そ。家族とお風呂に入るのは何もおかしくないでしょ?」
些か強引な理屈には違いないのだが、彼女はハッキリと言い切った。
相も変わらず猫かぶりな芝居がかった口調で言うそれが、どこまで本心なのかは分からないけれど。その言葉はどこかこそばゆく、不安げに揺れていた気持ちは不思議と落ち着いた。
───
──
空には、少し欠けた月が浮かんでいる。
茜色の残照は世界の端に追いやられ、深い青墨色が広がる空には、銀砂のような瞬く星々と散り散りに漂う雲の影が浮かんでいる。
眼下には遮る物の存在しない大地の影が、どこまでも遠く伸びていた。私の見たことのない、見るのことの叶わないであろう世界は広く、ただただ突き抜けるような解放感に満たされた光景に圧巻されるばかりだった。
ふと。後ろからぺたりぺたりと、濡れた足音がこちらに近付いてくる。入浴客たちを避けるよう、浴場の端で湯舟に腰かけている機械人形にわざわざ近付いてくる人間は一人しかいない。
「どうだ、楽しんどるか?」
「どう…なのでしょう。どういう状態を以て温泉を楽しめていると言えるかは不明ですが…不快ではないです」
「ほうか、それなら結構」
どこか満足そうな顔をしたレイシアはそろりと踏み出し、湯に足を浸す。緩慢な動作で身体を湯に沈めていくと、心地良さそうな溜息を一つ。空を仰ぎながら長く吐き出した。
「…こういう状態は、久し振りでした」
「おん?」
「街の外に出ることはそうありませんから。奇異なものを遠くから眺めるというのは、このような感覚だったと。思い出していたのです」
「あぁ…外に出ると、どうしてもな。…大丈夫か?」
見上げるレイシアに私は無言で小さく頷き返す。
いつもと違う環境であるが故に多少惑いはしているが、私に対して向けられる好奇の視線であれば耐えることは出来たのだ。そこに偽りはなく、そうした興味に晒されること自体を嫌だと感じたことはなかった。
「私たちは作られた存在です。頭の天辺から足の先まで、すべて目的があって作られたものです。個別の意志と認識されているものも製作者により設定されたもので…自らの意志と呼べるものは存在しないのかもしれないと、そう考えたこともあります」
「…そうだな」
「姿形は似ているのに、何を目的としているかも分からず、その在り方は決定的に違います。故に怖がる方もいるのだと。距離を置く方もいるのだと。それ自体は仕方ないことだと感じているのです」
「まぁ、なぁ…人間というのは面倒くさいが、感情的で理屈じゃない部分もある。そういったものを向けられる側からすれば理不尽に思うだろうが、"好き嫌い"というどうしようもないものもあるからな。…その関係を無理に変える必要もないだろうさ」
適切な距離を一方が壊そうとすれば、向けられるそれは嫌悪に変わることもある。彼女の言葉は確かにその通りで、私自身もそれを変えたいとは思わない。
「はい、勿論です。…それに恥ずかしい話ですが、自身にも理解出来ていない範疇が多分にあることは把握しています。そんな存在でも受け入れて欲しいと要求することは少々難しいです。……でも、だからこそ、レイシアが私を家族と言ってくれたこと。手を引いてくれたことが、とても好ましく感じたのです」
湯の揺れる音に掻き消される程の声で小さく相槌を打つと、彼女は湯舟の縁に頭を乗せるように空を仰ぎ見る。ほんの少し。顔をこちらから逸らすようにしている為か、レイシアの表情を伺うことはできなかった。
「お前の何もかもが作られたものであったのだとしても。今この時、こうして見聞きして感じたものは、お前だけのものだ。他でもない、お前にしか得られなかったものだよ。色も、香りも、感覚も。何一つ同じものものはこの世界には存在しない。はっきりと胸を張っていいんだよ」
「…はい。ありがとう、ございます」
感謝の言葉を返すのが正しかったのかは分からないけれど、いつになく真剣な声色で言葉を紡ぐレイシアに、私の口からは自然とその言葉が漏れ出ていた。
一瞬の、沈黙。
互いに言葉を交わすこともなく夜空を見上げていると、それを破るためか彼女は大げさに息を吐いた。
「ここのところな。足繁く迷宮に潜ったり、過去の記録を探ったり…互いに忙しくしとったからの。こうした気分転換も必要かと思ってね。たまには何も考えず外に出るのもよかろう」
「…レイシアには店だけでなく、調査にも相当協力していただいてます。あまり負担になるようでしたら、仰ってくださいね?」
「お前に言われたからじゃなく、ワシがやりたくてやっとるんだから気にするな。…まぁ気にするなと言われても気にしちまうもんだろうがな」
軽く手を振りながら小さく笑って見せた彼女の顔は、僅かに紅潮して見えた。
「しかし…折角なら月を見ながら酒でも飲めたら良かったんだがなぁ。この見た目だと、流石に人目があるところじゃぁ難しいな」
「そうでなくとも身体に負担がかかって危険です。それに濡れた床は滑りやすいですから…」
「分かっとる、ちぃっとじゃ、ちぃっと。風情を楽しむもんじゃよぉ。…それにまぁ、負担はかかっても死にゃせん体じゃし」
「…貴女という人は…」
「ほほ、人生楽しんだもの勝ちさね」
なんとも返答に困る冗談を言うと、彼女は悪戯っぽく笑いながら小さな舌を出して見せる。ふと、彼女の言葉に何の気なしに疑問が浮かぶ。
「…レイシアは、貴女の生を楽しめていますか?」
「んー、まぁ充実はしとるよ。楽しいことも嫌なことも、やりたいこともそうでないことも山ほどあるからな」
「嫌なこともあるのに、充実しているのですか?」
「そりゃあ、生きてれば良いことも悪いこともあるのが普通さね」
それが普通だとレイシアは臆せず言い切ると、額の汗を手で拭いながらこちらに視線を向ける。彼女の顔に浮かぶ表情は穏やかで、言い聞かせるように優しい言葉で続ける。
「人間と同じさね。好事も悪事も、丸っとひっくるめての人生さ。善性も悪性も、色んな面が混ざり合って人間は出来とるじゃろ。一つの角度、一つの出来事だけで判断できるほど単純じゃあないよ。お前だってそうだろう?」
今まで重ねた経験に思いを巡らせれば、様々な出来事が頭を過る。
私の中には蓄積されているそれらをまとめて一言で総評することが出来るかと言われれば、それは確かにとても困難なものだった。
「ふふ、ワシの隣で生きるつもりなら、お前もまだまだこれから沢山のことを経験する時間があるだろうからな。色んなものを積み上げると良い。そうやってお前だけのものを積み上げて、お前が出来ていくんだからな」
こちらに向き合い膝立ちになりながらそう言うと、彼女は私の頬に手を伸ばす。触れるか触れないか、優しく撫ぜながら瞳の奥を覗き見るような微笑みを浮かべていた。
人間であるレイシアにそのような能力が備わってはいないだろうし、彼女が何を見ているのかついぞ分からなかったけれど。ナインの時と異なり軋むような不快感も嫌悪感も無く、私はただただその瞳から視線が外せなかった。
唐突に、幕を下ろすように。彼女はふっと瞼を閉じ指を離す。
「…ふぅ、さてさて。涼むのも兼ねてちょっとばかり身体を洗ってくるよ。もう少しばかり待っといてくれ」
再度汗を拭い火照った体を夜風に晒すと、レイシアはそう言い残し洗い場に一人ぺたぺたと向かっていった。
一人残された私は、もう一度空に視線を向ける。
一面に広がる青墨色は、稜線と空の継ぎ目に僅かな色の違いを残してどこまでも世界に広がっている。その中で、研ぎ出したような月がポツンと浮かんでいた。
ゆったりと、ゆったりと。流れる雲は月明りに照らし出され、色濃い影を抱え漂っている。
静かで、穏やかで。姿を変えず、それは私たちの上で輝いている。
今こうして眺めている風景も、レイシアに覚えた感覚も。そのすべてが積み上げられていくのだとしたら、これらはどのような私を作り出すのだろう。彼女に問うたとしても、それこそ"先のことなど分かったものじゃない"と笑われるのだろうか。
だとしても、この一瞬が私だけの形で、私の中に刻まれたのだとしたら。それは、この上なく好ましいと思えることに違いなかった。