9-ep
「はひぃ…疲れた疲れた」
工房に備え付けられた採光窓の下。最近買ったらしい丸い線が印象的なラウンジチェアに全身を預けながら、レイシアが深い溜息をこぼす。彼女の胸辺りまであろうという大きさのそれは、小柄な少女が座るには少し大き過ぎるようにも見えた。後ろから見れば頭のてっぺんすら見えない程だろう。
「お疲れ様です。少々お待ちください、今お茶を淹れますので」
「おぅ、ありがとなぁ」
少女はぐたりとした格好のまま、こちらに向け力なく手を振って見せる。
疲れ果てるのも仕方ない。私とレイシアの二人だけで接客作業と並行し、持ち込まれた回収品や遺物、収集品の洗浄作業とざっくりとした分別をこなすのは中々大変な作業量だ。
迷宮が封鎖解除となって以来、休む暇もなく連日それの繰り返し。その日のタスクを終える頃には、空は暗く月もとっくに真上を過ぎているのがザラだった。
湯を沸かしつつ、小さな机の上にポットやカップ、小ぶりなクッキーを乗せた皿を並べていく。私が食べ物を口にすることはない為、そのどれもが彼女の好みのものばかりだ。レイシアはだらしない格好のままクッキーに手を伸ばすと、一つを口にひょいと放り込む。もくもくと咀嚼すると、ふっとその表情が和らいだ。
「うむ…やはりオーソドックスにプレーンが一番しっくりくるな」
「そういうものですか?」
「おうともさ。変化球も良いが、基本には基本の良いところがあるもんさ」
「私に味は分かりませんが…お口に合うのであれば良かったです」
何でもない会話を口にしながら茶葉を入れたポットにくつくつと沸いたお湯を注いで数分。ポットの中をくるりとスプーンで一混ぜすると、レイシアの前に予め置いておいたカップに撥ねないよう注ぎ入れた。
ゆるりとした動作で彼女も椅子に座り直すと、注がれたばかりのカップを手に取り琥珀色を顔に近づける。甘やかな香りを楽しむと、小さく口をつけ"ふぅ"と一息をついていた。
「…レイシア。お疲れのところすみません、一つ伺っても良いですか?」
「んぅ?構わんよ。どうした、そんなに改まって?」
正直に言えば、これを問うて良いのかとても迷った。下手に蒸し返さない方が良いのかとも思えたが、今回の話で余計にその姿がくっきりと浮かび上がってしまった。そうである以上、それから目を逸らすことはもう出来ない。
紅茶とクッキーを交互に口にしつつこちらに視線を送るレイシアに向き直ると、意を決して口を開く。
「何故、元に戻ろうとするのですか?」
「おん…?どういうことだ?」
眉間に皺を寄せ、頭を傾げるレイシアに言葉を続ける。
「人間は、失ってしまえばそれまでです。脚も、命も。決して替えはありません。不可抗力ではあったかもしれませんが、その魔術があるからこそ貴方は今も五体満足で生きています。そうでなくとも、魔術師の中には不老や不死を求める方もいらっしゃる筈です。…それを手放すのは、怖くないのですか?」
「……あぁ、昼に姉弟の話をしたからか」
──分かりきっていたことだろうに。
連日の作業疲れを紅茶とクッキーで労り、その日の終わりという充足感に身を浸す。そんな最中に彼女が秘し隠していた部分に敢えて触れようというのだから、当然そうなることは想像がついていたが。
柔らかく力が抜けていた表情が、徐々に真面目な色を帯びていく様を目の当たりにするのはそれだけで緊張するようだった。
私の問いを聞いたレイシアはぽそりと呟くと、そのまま静かに二口三口、紅茶に口を運んだ。
「…確かにな。自己保存の魔術の効果があったからこそ、乗り切れた機会もあったことは認めるよ。お前の言う通り、他より永い時を生きることを目指す魔術師も少なくはない。それも否定せん」
カップの中に残った紅茶を一息にあおると、レイシアはラウンジチェアに勢いよく全身を預ける。すっぽりと覆う程に大きさのあるその椅子は、軋む音すら立てず少女の薄い身体を受け止めた。
「ただな、この力は自分では制御出来ん。知らぬ間に身体に刻まれて以来、ワシの意思とは関係なくただこの身体を生かし続けとる。…良いか?自分の手に余る力なんぞ、何があるか分かったもんじゃない。"よく分からんが便利だから使う"というのは、望まぬ形で痛い目を見ることになるもんさ」
確かに大抵の魔術がそうであるように、何かを成すには相応の対価が必要となるのが常だ。それが触媒なのか、はたまたマナの質や量なのかは千差万別だろうが、彼女の自己保存の魔術も同様だとしてもおかしくはない。正しく把握は出来ていないだけで、何かしらを消費しているという恐れは十分にある。
それを放置し利用する。自棄になっていた時もあったのだろうが、確かに命綱とするにはあまりにも不用心で危険に感じられた。
「これはあくまでもワシの考えだがね。魔術に限らず、スイッチのオンとオフくらいは自らの意志で切り替えが出来るようになるべきだ。だからワシはこの魔術の解除方法…言ってしまえば魔術式の解明を目指した訳だ。式さえ分かれば、術の行使も解除も可能だからな」
"まぁ、出来とらん訳だが"
自嘲気味な笑みを浮かべながら、少女はそう小さく言葉を続けた。何度も何度も、彼女の細く白い指が確かめるように空のティーカップの縁をなぞる。
「それにまぁ」
沈んだ眼を伏せ、少女が僅かに言い淀む。数度、薄い唇が小さく開かれては閉じられたかと思うと、消え入りそうな声で"弱音を吐く権利も無いのだろうがな"と言葉を零す。
「ずっとずっと置いて行かれるのは、やっぱり、疲れる。…それに、寂しいもんだ」
何か遠いほうのものでも見つめているような惘々とした瞳には光がない。ただでさえ小さなその身体が、触れれば折れてしまいそうな程か弱いものに見えた。
「この街では苦楽も別れも生き死にも、人の一生が濃密に凝縮されとるでな。何もかも誰にも頼らず生きてはいけない以上、結局それらから目を逸らすことも出来ん」
吐き出すように言うと、暖かさを失ったカップを持つ小さな手に力が込められる。
「環の中に戻ることも出来ず、しかしそれから離れることも出来ず。なんともまぁ、中途半端な生き方しか出来んのだ。どこまでも続くそれは、荒涼として、擦り切れていくようで。…酷く、終わりが欲しくなる時がある」
慰霊祭の夜、製薬を続けることをレイシアは"罪滅ぼし"でもあると言ったことを思い出す。
自身の作った薬が誰かの傷を癒し、命を助けることになるのであれば。独りよがりだとしても、それを果たすべきだと思っている、と。
自らの魔術も、自らの為に他者を利用したことも、アイザックという身近な人間の命と時間を奪ったことも。他の誰でもない自分自身が、未だに諦めることも逃げ出すことも良しとしないのだ。
──まただ。前回レイシアの身に起きた話を聞いた時も、似たような感覚になったのを覚えている。どこかもどかしく、じれったい。でもどうすれば良いのか分からない。胸部か腹部か、よく分からないが身体の芯がぐらつき揺れて、いてもたってもいられない。表情を変えるという機能が備わっていない私ですら、顔を歪めたりそういうことが出来るんじゃないかと錯覚するくらいに。
私の何かが揺れて、仕方なかった。
「…私が」
「ぁん?」
堰を切り、溢れ出すように。
何か考えがあった訳ではない。それでも口を開かずにはいられなかった。彼女に伝えなければならないと、そう思ってしまった。
「…この身体が動く限りは、私がレイシアの隣にいます。適宜部品を新しくすることで、一般的な人間より長く動くことは可能ですから」
冷静ではないし、これは私の自己満足に違いない。けれど。
左手を胸に当て、ブラウスを精一杯握りながら言葉を吐き出す。気の利いた言葉じゃないかもしれない。それで彼女の何かが解決する訳でもない。けれど、それでも──。
「自己保存の魔術の解析が叶うか、私には分かりません。レイシアが何か他の目標を得るにしても、どれだけ時間がかかるかも分かりません。…それでも、どうなったとしても。私はずっと貴女の傍におります。それが民生用の機械人形ですから」
思いの丈を口にした私を、レイシアは瞳を丸くしてただただ見つめている。
怒るでもなく、笑うでもなく。呆然とした表情の彼女の目がゆっくりと手元に落ちていき、静かに瞳が閉じられた。
──たった数歩。けれども静かな、それでいて踏み入ることも憚られる空白を前に、私はただただ彼女に視線を向けることしか出来ない。
「…まったく、お前というやつは…」
一寸の間を置いて小さく息を吐いたかと思うと、少女は微笑みを口元に浮かべながらそう呟く。
脆く繊細な表情に変わりはないけれど、何かを懐かしむように薄く開かれた瞳には淡い光が見えた気がした。
「マギア、もう一杯注いでくれんか」
「…はい。かしこまりました」
一歩を踏み出し、レイシアとの距離を詰める。踵が石床に触れると、耳慣れた硬い音が小さく響いた。
ポットを手に伸ばし、慎重に傾ける。真白い彼女のカップを、琥珀色の紅茶が暖かな香りと共に満たしていく。
「…ありがとな」
小さく、そう一言口にして。
視線をカップに落とし大事そうに両の手で持つレイシアは、少女のように儚げで。幼子をなだめるようなふわりとした笑顔を浮かべていた。