文学とは面白さを狙うものではない
4月29日、感想欄から指摘を受け「ショーペンハウアー」から
「ショウペンハウエル」に訂正。
もう何度も繰り返し言ってきたことを
今一度言おう。
理解できない者には
理解できるまで言って聞かせる、
そうやって読む者と気長に付き合うのが
本というもの、文章というものの美徳である。
文学の目的とは何か。
それは疑似体験でもなければ
現実逃避でもない。
文学とは
自分という一個の現実、
一個の運命を暴きたてて
向き合うよう強いるものだ。
今まで自分がその卑屈な処世術で
大事そうに抱えていた
くだらない人付き合い、
くだらない道具の一切、
くだらない目標や要求、計画、
くだらん理論、理論武装、
くだらん人生観、
その憂さ晴らし、
考えてみれば全くどうでもいいもの全部、
失ったって虚栄心しか
傷つかないようなものの全部を、一笑に付すものだ。
どうでもいいもののためにあくせくしている
あらゆる人種を
明るさと力強さと健康さをもって
切って捨てるものだ。
そういう読書こそ真に人間に必要なものだ。
そういう読書をさせる作家だけが
存在意義を持つのだ。
100年1000年存在することを許されるのだ。
それに対して
「おもしろーい」とか
「かんどーしまぁす」とか
「オチがすごーい」とか
「推理がすごーい」とかいうような、
毒にも薬にもならぬ
エンターテイメント性だけが売りの大衆小説、
なんとか賞、なにがし大賞受賞作、ベストセラー、
そして九割九分九厘以上のなろう作品。
そんなものを読んでいるからいじめられるのだ!
そんなものを読んでいるから
社会からいいようにこき使われ誤魔化されるのだ。
そんなものを読まされていること自体が
いじめであり
誤魔化しであり
侮蔑であるということに
何故気づかないのか?
「これで満足できるんだろ?
これでガス抜きできるよな?」
とバカにされているのが何故分からないのだ?
(もちろん、なろうの利用者の中にも
自らの鬱屈を解析し
世のおかしさの構造を漠然とながらも理解している
人間はいるだろう。
でも分かっているけど黙っている、黙らされている、
そうやって肝心なところで何も言えないまま
『自分も小説家になろう』などと
意気込んだりする。
言葉を伝える人間なのに黙っている、
書く人間なのに書かない、
書けないのである。)
こうした欺瞞は
単なる被害者加害者の関係からなるのではない。
当事者は互いに共犯関係であり結託しているのである。
結託して小説を舐めているのだ。
小説家を舐めているのだ。
読書を舐めているのだ。
読者を舐めており
人間を舐めており
現実を舐めているのだ。
いくら現実を甘く見積もろうと
人間は人間の質を見るのだ。
書くものにも人間の質は表れる。
何が成功しようと
何が繁栄しようと
人間としての質が問われる時は必ず来る。
だから、作家志望者のみならず全ての人間は
自らが呼吸し吸収している文化について
とことん省みて、自覚的になるべきである。
消費にも生産と同じくらいの責任が伴うのである。
「良書を読むための条件は、
悪書を読まぬことである。」
「人生は短く、
時間と力には限りがあるからである。」
(ショウペンハウエル『読書について』)
現実逃避が受けが
いいからといって
現実逃避に加担してもいいという
ことにはならない。
そんなことも分からずに
文章を書いている人間は
読者から時間と力を奪う
害毒に過ぎないので
ただちに筆を折るべきである。