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3メートルくらいの大きさに成長したぬいぐるみは、その凶悪そうな顔つきで辺りを見渡し、手当たり次第にその爪を振るう。
爪に刈られた植え込みや踏み潰された花々が散り、庭園を無残な状態に変えていた。
なぎ倒された木々や叩き落された煉瓦の陰に燕とリルは臨時避難していた。
「1回だけだからな、後は自分で何とかしろよ」
子猫をけしかけた謎のオカマの姿は何時の間にか消えており、残された子猫のみがギョロギョロと辺りを見渡している。
友人と未だ残っていたのか、校舎の人ごみの中に更紗の姿を見つけてしまっては、黙ってはいられなかった。
ぎゅっと金時計を握り締め、其れを胸元に当て、最早ぬいぐるみとは呼べなくなった子猫を睨みつける。
肩に乗っていたリルがひょこりと降りてきて、金時計に手を重ねる。
ふわりと布特有の柔らかい感触が手の甲に触れ、其処から暖かいものが燕の身体に流れてゆく。
金時計に刻まれた文字を、脳内が理解していくことを、身体で感じた。
金時計裏に刻まれた文字は自分を変える楽園の文字。
『ーーーMaid in heaven!!!』
高らかに響く少年の声。その瞬間学生服が光に包まれ、眩しさに目を瞑る燕を囲むように粒子に分散した。
グルグルと金時計の二針が周り始める。
それは形を作り上げながら頭、手足に纏わり着く。
白く華奢な肌を廻るように粒子が走り、ふんわりとした布を身体に巻きつけてゆく。
薔薇の刻印が額に浮かんだ瞬間金時計の針はぴたりと止まり、『三時』の時間を差した。
眩しさが収まり、薄く目を開ける燕の額には薔薇の刻印は無くなっており、代わりに頭に着けたフリル付きのカチューシャに小さく刻まれている。
真っ白なエプロンと手袋、リボンの付いたニーソックスと真っ赤な胸元のリボン。
ダークグリーンのワンピース型のメイド服を着た燕は、驚いたように金時計に映る自分の姿を凝視していた。
「よっしゃ!!成功や!!」
声高らかにガッツポーズする羊のぬいぐるみを掴み、そのままオーバースローの綺麗なフォルムで目の前の壁に思い切り投げつけた。
「な、何するねん!!」
「五月蠅い、何だよコレ!!出るに出て行けないじゃねぇか!!」
思春期の少年にとって女装は恥ずかしく感じ、短いスカートを押さえる。
お約束と言えばお約束だが、崩壊した壁の影に隠れ、真っ赤になりながら叫ぶ姿は可愛らしいものがあった。
似合う似合うと笑う空気の読めない羊を、煉瓦の切れ端で撲殺してやろうかと考えた時、背後に聳えていた壁の残骸が大きな破壊音と共に崩れ落ちる。
悲鳴を上げて頭をガードする燕。
ばらばらと煉瓦が落ち、其処には何時の間にかキジトラのぬいぐるみが、爪をぺろりと舐めながらこちらを見下ろしていた。
「み、見つかるのが早すぎるだろぉぉ!!」
そのまま上から振り下ろされた爪を避け、瓦礫に埋もれたリルを引っ張り抜き、すかさず繰り出してきた第二撃を後ろに飛びずさる。
先程まで自分がいた場所が鋭く抉り取られているのを目の当たりにして顔面を蒼白させた。
「逃げ回ってるだけじゃサクラノを止められへんで!早く懐中時計を閉じるんや!」
リルを摘まむ手とは逆の、窓が開いた金時計に気付く。
依然三時を差したまま止まっている其れを云われるがままに閉じれば、燕の手を離れ、一本のオーソドックスな木の箒へと変わる。
箒が燕の手に戻るのと、ぬいぐるみの鋭利な爪が薙いだのは同時。
思わず箒で爪を受け止め、無我夢中で弾き返した。
重い一撃によろけながら箒を片手で構えながら、攻撃の隙を伺う子猫に、隙を見せないように睨み付ける。
「うおりゃああぁ!!」
そして塞がっていた片手で掴んでいたリルを思い切り猫の額めがけてブン投げた。
不意打ちで飛ばされた悲鳴と、腕で薙ぎ払われた断末魔が短く聞こえる。
飛んできた妙にふわふわとした生き物を容易く弾き飛ばしたぬいぐるみに、燕の行動は見えていなかったらしい。
目の前から不意に消えた燕を探すように首を左右に動かした瞬間、顎に渾身の突きを喰らい、地面に倒れこんだ。
後ろを向いた燕が振り返り、箒を構えれば校舎から歓声が上がる。
何事かとビクつき振り返れば教室の窓から見学としゃれ込んでる学生の姿に気付く。
「わひゃっ…いだだだ!!」
途端に羞恥心を感じ、箒を抱え込み頬を赤らめる燕のお尻に、猫の一撃で吹き飛ばされた、血塗れの羊が噛み付いた。
「何するんじゃワレええええぇぇ!!」
「だって仕方ないだろぉ!!」
スッポンのようにかぶりつく、頭から流血しているリルを引き剥がす。
流れる血が血の涙のようにも見え、半分嗚咽混じりに訴える羊に叫ぶように言い返せばぐらりと地面が揺れた。
振り返ろうとするより先に、起き上がって顎の痛みのお返しとばかりに薙いだぬいぐるみの爪が、燕の背中を捉えた。
咄嗟に振り返り、飛びずさるが、加減無しに振り下ろされた爪は肩口から胸元にかけてを無残に引き裂く。
燕の若い身体を守るように破れた衣装の間から血が僅かに滲む。
傷付いた胸元を押さえながら目の前に聳え立つぬいぐるみをにらみつけ、箒を握り締める。
「お前、これどう見てもこっちの不利じゃねぇか!」
「じゃかしい!つべこべ言わんと動け!!」
ぬいぐるみとは云えガタイの良い相手に対して燕はちっぽけな男子中学生。
体力や力の差は歴然としている。
胸元を押さえたまま次の手を考えていた燕は、ふと己の身体を見渡し、引き攣ったように表情を歪ませる。
ノシノシと巨大なぬいぐるみがゆっくりとこちらに向かっているのも構わず、振り返り、リルを見やり、叫んだ。
「なあリル…服が解けてるように思うんだが!?!?」
両腕でダブルに繰り出された一撃を避けた瞬間、ボロリとワンピースの裾がほどけ、消えていった。
地面に着地しただけでダークグリーンの生地はボロボロと、ほどけるように離れていき、下に履いている真っ白なカボチャパンツがちらりと見え隠れする。
「あ、やば…言うの忘れてたわ。兄ちゃん、変身は5分しかもたんからな」
「それを早く言えや!!」
叫んだ瞬間にしゅるりと腰で結わえていた蝶結びがほどけ、エプロンが地面に落ちる。
日焼けしにくいのであろう、色白の細い背中を日光の下に惜しみなく晒しながら箒の柄を握り、燕は低く唸った。
憩いの場であった庭園は崩壊し、花壇は無残に足跡と爪で抉られ散ってしまっている。
更紗といつか此処で一緒に昼食をとるという夢が更に遠のくのを感じる。
このままでは庭園が閉鎖するだけでは収まらず校舎の方にまで被害がいくかもしれない。
窓から不安そうにこちらを見ている更紗をちらりと見上げ握った拳、その柔らかな掌に爪を食い込ませる。
「…頑張って!!」
ボロボロと変身が解けていくようにワンピースが溶解していくのとぬいぐるみを見比べていた燕の耳に入ったのは、聞き覚えのある少女の声であった。
更紗の声に連なるようにパラパラと声援やヤジが飛んでくる。主に女子の声が多いのは気のせいだろうか。
驚いたように顔を校舎に向けた瞬間、燕の廻りに、涼しげな風が吹き抜けた。
清らかな風が燕を包むように吹き上がり、散った花びらをふわりと舞わせる。
肩の傷の痛みも無くなって行くような柔らかな風を受けながら、燕は構えていた腕を下ろし、目を閉じる。
目の前には迫り来る子猫、さきほどまで地響きがするほどに響いていた鈍い足音も気にはならず、ただ脳内に浮かぶ言葉だけを理解していく。
ダークグリーンの布切れを纏わせながら、目を開いた燕は、再び振り下ろされたキジトラの手を、箒で塞いだ。
吹き上げる清涼的な風、栗色の髪を揺らせ、箒をバットのようにスイングさせ、ぬいぐるみの脇腹を抉るように殴打し、突き上げる。
『風迎の序曲!!』
その瞬間ゴゥと強い風が吹き上げた。
ぶわりと風はキジトラの身体を持ち上げ、空高く吹き飛ばす。
垂直に吹き飛ばされた其れから薄い桃色の、ぬるりとした光沢を放つ液体が飛び出し、霧散していく。
風が収まった後、ガタガタになった中庭にはキジトラの、少し汚れたぬいぐるみが乾いた音を立てて転がり、静寂に包まれる。
燕はガクリと片膝をつき、荒く息をしながら箒から手を離したのであった。
数十分後、中庭に遣って来て原因を調べているのは職員や警備員。
規制を受けながらも荒れた中庭を見に校舎から出てきた生徒達。
普段よりも賑わう中庭を、校舎から黒髪の、端整な顔立ちの少年が窓越しに見下ろすように眺めている。
「会長、手配は済みました」
「……判った。貴様も早く持ち場に戻るが良い」
背後に立ち、一礼する巨漢の少年を一瞥した後冷ややかに言い放てば、興味を失ったかのように再び視線を窓の向こうへと向ける。
「また面倒なことをしおって…」
低く、呟くように唇を動かした後、少年は、ざわめく庭園内で唯一茂みの奥へと逃げるように走っていく栗色頭を目ざとく見つけていた…。
中庭の裏手、高等部校舎と中等部校舎に板ばさみにされ、日陰になっている場所に、もう一つ、寂れた庭が存在している。
以前はビニールハウスやベンチなどが設置され、季節の花々などが育てられていたらしいが、現在は申し訳程度に整備された、不良のたまり場となっていた。
幸い人の姿どころか猫の姿一匹もおらず、春先とは思えないジメジメした寒さがある。
その寂れた倉庫の裏、一目のつかない場所に燕は体育館座りで蹲っている。
今まで着ていたメイド服でも、制服でもなく、一糸纏っておらず、ガタガタと膝を擦り合わせる。
「んー、兄ちゃん持ってきたでー…」
その背後から黒い袋を咥え、地面に引きずらせながら此処まで運んできたリルは、ぽいと燕の足元に其れを投げ捨て、疲労した顎をカチカチと鳴らす。
誰もいない教室に掛かっていた黒い袋の中身は、燕が部活時に着るジャージの上下とスパイクで。
無言のまま、ズボンを引き上げ、Tシャツを頭から被る。
「向こうは今大騒ぎやで、いきなり現れた半裸の変態を探すのにみんな夢中で」
「ふーん」
「兄ちゃんも、もうちょっとこう考えて戦わないとあかんで〜自然をもっと守るとかさ」
「誰の所為だと思ってんだテメェ!!」
自分の行動を棚に上げてペラペラとマイペースに言い放つリルに、ようやくドスの入った突っ込みをすれば盛大な溜息と共にうなだれた。
「二度としねぇからな」
「其れはどうやろうなぁ…」
ゲシゲシと羊の柔らかな黒い毛皮を踏みつける燕の背中を、あの時と同じ涼しげな風が吹きぬく。
軽くつま先で伸びたリルを蹴飛ばし、これから続く非日常の日々を感じ取ったように背筋をふるわせたのであった。
トゥービーコンティニュー☆