Act1!
お楽しみいただけたら幸いです…
これは夢なんだ、夢でなくてはいけないんだ!
踏み倒された庭園と巨大な足跡、そして地面が割れる音と共に校舎へと進む巨大な猫のぬいぐるみ。
燕は目の前の光景に後ずさりし、己の頬を思い切り抓る。
頬に食い込む小さく固い爪の感触が痛覚となり自身を襲い、それを現実だと伝えた。
「ほら、早くせぇへんと…あの眼鏡の子も危ないんちゃうんか?」
己の肩に乗る羊のぬいぐるみが短い手を空に差した。
妙に悪どい顔が緊迫した彼の神経を逆撫でする。
羊が手差す先の校舎には幾人の生徒達が物珍しそうに窓から悠長にこちらを見ていて、その中に彼女も驚いたような顔で巨大化したぬいぐるみを見ていた。
更紗ちゃんを危険な目に遭わせる訳にはいかない。
幾ばくかの羞恥と憤怒と、強い決意を込め、少年は金時計を握り締めた。
M☆M☆N!!!
Act1!
その日の朝は、4月にも入ったのにまだ少し仄寒く、空は真っ青に晴れていた。
何時も通り己の力で起床し、クリーニングに出され、ぴしりと糊付けされた学生服に袖を通した少年は、大きな白いスポーツバッグを持ち小気味よい音を立てながら階段を降りてゆく。
踊り場に据えられた鏡に映るのは柔らかそうな栗毛を持つ、少女のように可愛らしい顔を持ったあどけない少年。
僅かに跳ねた毛先を指で直し、ほんの少し微笑んでみる。
「燕、早くなさい」
穏やかで柔らかい母の声に返事を返し、残りの階段を降りていった。
リビングに隣接している広いキッチンにはすでに自分以外の家族が揃い、用意された朝食を思い思いに採っていた。
冷蔵庫から牛乳の大きなパックをまるごと持ってきて五脚置かれた椅子のうちの自分専用の椅子に腰掛ける。
自分の前に置かれた皿に、少量の油が浮いているのに気付き、隣でコーヒーを飲んでいるセーラー服の少女を睨みつける。
「あ、おはよ燕。今日のベーコンエッグは半熟で美味しかったわよ」
睨まれた少女、真ん中の姉のすずめは物ともせずに爽やかな笑顔を浮かべ、コーヒーのカップをテーブルに置く。
「うむ、今日のウィンナーも蛸の形で、大変カリカリとしていて美味だった」
すずめの言葉を継ぐようにつばめの目の前の席に座る一番上の姉のひばりが湯呑みに入った緑茶を啜り、静かに言い繋げる。
最後を引き継ぐようにその隣に座っていたロングヘアの少女、下の姉であるひなが二つ目のヨーグルトの入った硝子の器を空にしてテーブルに静かに置いた。
「林檎の摩り下ろしヨーグルトも美味しかったわ、さすが御父さんね。安心して燕、品質が落ちる前に私が食べておいたから」
ご丁寧に用意していたナプキンで唇を拭う下の姉に眉根寄せつつ低い声で燕は呟く。
「そうか美味かったか…じゃあ残していてくれてもいいじゃねぇか」
恨みの篭った弟の抗議もものともせず非情な姉三人はバラバラと手を合わせて席を立つ。
颯爽とキッチンを出て行く姉達の背中をジト目で見やる燕の目の前に程よく狐色に焼かれた食パンが置かれる。
「あー悪いな燕、姉ちゃん達食い盛りだから…ほらお詫びに父さんの食べかけでよかったらやるよ」
「俺だって食べ盛りだよ…其処まで食い意地はってないから自分で喰え」
燕が好んで塗る蜂蜜マーガリンを置き、自分の皿に入った食べかけのベーコンエッグを差し出すのは紅の髪が目を引く多少不良っぽい美男子。
御年40歳には見えない父親の申し出を冷たく断りマーガリンをたっぷりと付けたパンにかじりつく。
息子に冷たくされた彼、乃南鷹也は端整に整った顔を伏せ悲しげに眉間に少し皺を寄せた。
「つれないな燕、お父さんの愛が受け取れないっていうのか?」
「いらねぇよ朝っぱらから鬱陶しい」
微妙な面をした牛が描かれた大きな牛乳パックの封を開け、パンを飲み込み牛乳を飲みながら嫌そうな顔で燕は父親をあしらっている。
小学生の頃からの習慣で朝夕欠かさず多目に摂取している大きめの徳用パックの牛乳。
小魚も適量に取りつつ身長を伸ばすために採ってきたそれらのカルシウムはすべて、ストレスから来る苛立ちと胃痛を抑制する機能として奪われているようだ。
父子の漫才のような会話に既に朝食を終えたらしい、これまたそろそろ40歳を迎える妙齢の女性とは思えない母親、かごめがくすくすと可笑しそうに微笑んでいた。
苛々とした顔で牛乳を飲み干した燕は、姉達が残していった使用済みの皿も一緒に食器を流しへと運んでゆく。
しっかりと下っ端気質は現れているらしい。
家族兼用のピンクのフリルをたくさんあしらったエプロンを外して己の席にかけ、一人少し遅めの朝食を摂る父親を横目で見つつ自分の椅子の後ろにぶつけておいた鞄を拾い、玄関へと向かってゆく。
「あ、待て燕」
長年履き続けている靴の紐をしっかりと結んでいる所に、背後から父親の声が飛んでくる。
緑のバンダナに包まれた少し大きめの、男の子がよく持っていそうな大きさの弁当箱を持ち、鷹也は満足そうな笑みでそれを手渡した。
「今日も自主練あるんだろ?これ、忘れてるぞ」
専業主婦と化している父親から弁当を受け取り、弁当箱を乱暴にスクールバッグに押し込んで急ぎ足で玄関を出て行く。
「さんきゅ…行ってくる」
出て行く直前にはにかみながら言われた息子に礼を言われた事によりある種の鬱陶しいくらいの喜びを体現し、悶絶している父親をよそに、燕は思い切り顔を顰めつつ早々に自宅を後にした。
「…お父さん、邪魔なんだけど」
乃南家の大黒柱であり、また子供達が通う学園の教師でもある男、乃南鷹也はろくに出勤の準備もせず、娘達に邪険に呟かれるまで玄関でその幸せをかみ締めていたのである。