第7話 勇者一行
激しい雨が降っている。
飛沫で霞む真夜中に、巨大な本を背負ったとんがり帽子の老人が赤ん坊を抱え、ノースランド城の門前に立っていた。
全身ずぶ濡れで、赤ん坊を濡らさないようしっかりと首元に引き寄せ、背中を丸めている。
「この城の主は子供を流行り病で失くしたばかりじゃ。それにあの男とも因縁のある相手、きっとお前を助けてくれるじゃろう。よく学び、立派な大人になるんじゃぞ」
赤ん坊は笑った。とんがり帽子のつばから滴り落ちる雨水をつかもうと手を伸ばした。
「お前はわかっておるのか?」
老人は口では怒りながらも目尻を下げ、皺だらけの顔で笑っていた。赤ん坊が老人のあごひげを引っ張った。
「あいたたた……」
――朝、ヴァレンタインが夢から覚めると目の前にエリスの顔があった。彼女はすでに目を覚ましていて、枕の上に横顔をつけヴァレンタインの顔をじっと見つめている。
「おはよう」
「……おはようございます」
「私たち何で一緒に寝てるの?」
「昨晩のことを覚えていないんですか?」
「……私、何かした?」
ヴァレンタインは昨夜の酒場での出来事を説明した。エリスの表情が見る見る強張る。うつ伏せになると枕に顔を埋めた。
「ごめん、本当にごめん」
エリスの後ろ髪が跳ねている。
「いや、俺のほうこそ、ごめん。エリスが絡まれているのに助けなくて……」
エリスが顔を上げ、再び頬を枕に乗せた。
「ね、私が寝てる間に何かした?」
「何もしてません」
「何でしないの?」
「一方的なのは好きじゃないんだ。こういうのはお互いに求め合ってしたほうが絶対に気持ちいい」
「経験ないからわからないけれど、そういうものなの?」
「そういうものです」
「ふうん、そうなんだ……」
エリスが体を起こした。
ヴァレンタインも体を起こす。寝る前にカーテンを閉め忘れたので窓から空が見える。二人で白む空を眺めた。
「今日は仕事はないんですか?」
「うん、今日もお仕事……」
エリスはヴァレンタインに身を寄せ、肩に頭を乗せた。
「私、いつもはこんなんじゃないからね。いくら酔っていても、こんな風に男の人と……初めてなんだから」
「……なぜです、なぜ俺を誘ったんですか? 出会ったばかりの俺を」
「私にもわからない。あなたに初めて会ったとき、とても懐かしい匂いがした。早く怪我の痛みを取り除いてあげたかったし、ボタンも留めてあげたかった。何でだろう、この気持ち、心の底から湧き上がってくるような……」
エリスが涙をこぼした。
「あれ?」
肩から頭を起こす。
「私、何で泣いてるんだろ……」
指で涙を拭いた。
隣の部屋をノックする音が聞こえた。ぼそぼそと何かを話す声がする。
「本当か!」
マクベスの大声だった。どかどかと廊下を歩く音が聞こえ「お嬢様! お嬢様!」とドアをノックしている。
またぼそぼそと何かを話す声がして、マクベスの声が聞こえた。
「わかりました。ホーリー、お前は商会に戻っておれ」
「何だか騒がしいわね」
エリスが不機嫌そうに言った。もう涙は消えていた。
今度はヴァレンタインの部屋がノックされた。
「ヴァルさん、起きてますか?」
ヴァレンタインはドアを開けた。茶色いガウンを着たクレアが立っていた。ブラシで梳かしてないのか、長い金髪が少し波打っている。
「おはようございます――」
クレアはベッドに座るエリスを見た。エリスが振り返る。
「あ、ご、ごめんなさい!」
クレアは背を向けた。ヴァレンタインは廊下に出てドアを閉めた。
「どうしたんだクレア? 何かあったのか?」
「ヴァルさん! 坊ちゃんだ、カイン坊ちゃんが見つかったぞ」
マクベスが興奮気味にシャツのボタンを留めながら隣の客室から出てきた。
カインの目撃情報は帝国軍の詰所に入り、そこからチェルシー商会に持ち込まれたらしい。
ヴァレンタインは宿からエリスを送り出したあと、クレア、マクベスと共に詰所に向かった。
サミュエルの部屋でレイルが言った。
「お前も酒場で会っただろう? あのゴーグルをした金髪の男だ」
「彼がクレアの?」
ヴァレンタインはクレアの顔を見た。確かに言われてみれば面影がある。透き通るような金髪、緑色の瞳、似ている。
クレアもじっとヴァレンタインの顔を見つめていたが、ふっと憂いの表情を見せると顔を逸らした。
「あまり見ないでください」
「……ごめん」
「それで坊ちゃんは?」マクベスが聞いた。
「それが……」
レイルが数名の兵士を連れ、カインの泊まる『月の森亭』に行ってみたら、すでにカインの姿はなく、宿の主人によると夜が明ける前に旅立ってしまったらしい。
「何ということだ」
マクベスはがっくりと肩を落とした。
「申し訳ない」
サミュエルが机の上で頭を下げた。
「もっとカイン殿の特徴を兵士たちに知らせておくべきだった」
「隊長……」レイルが拳を握り締めた。
「だが、まだ間に合うかもしれない」
サミュエルは席を立ち、部屋の壁に飾られた大きな地図を眺めた。帝都を中心にした大陸地図で、領地の境界線から、ヴァレンタインが持っている地図よりも新しいもののようだ。
「夜が明ける前に出発したのなら、今から出れば追いつけるかもしれない。どこに向かったのかさえ分かれば……」
マクベスが言った。「カイン坊ちゃんに応対したウィントの話では、ダンジョンに入るための準備をするためにこの村に立ち寄ったと言っておりましたぞ」
「ダンジョンか……」サミュエルは席に戻った。「レイルから報告を受けたが……」
「……やはり隊長も信用できませんか」
「いや、確かに皇帝陛下や将軍閣下らが所有しておられる兵器には不思議な力がある。もしあれを神器と考えるなら、なるほど、納得できる」
「なぜですか?」
「神器を所有している何れのお方も、皇帝陛下がまだ冒険者だったころのパーティメンバーだからだ」
「そう、おっしゃる通りですな。私は昔、冒険者だったころの皇帝陛下にお会いしたことがありますが、その時すでに陛下は神器を持っておられました」
「それでマクベスは神器のことを知っていたのですね」クレアが言った。
「はい」
「だが、これではっきりした。神器が存在する以上、ダンジョンも存在する。そこにカイン殿がいる。しかし……」
サミュエルが言葉を切った。
ヴァレンタインが続けた。
「ダンジョンの場所がわからない」
皆が黙ってしまった。ヴァレンタインは地図の前に立ち、過去の記憶、貴族としての経験を参照した。
こういう場合、闇雲に探すと効率が悪い。推理する必要がある。推理するためには情報が必要だ。早く、早く、早く――。
「考えていても仕方がない。ここはまず行動したほうがいい。村に出て目撃者を探しましょう」
ヴァレンタインはきっぱりと言った。皆が驚いたように顔を見合わせる。
「どうしました?」
ヴァレンタインが聞くと、サミュエルが言った。
「君は指揮官に向いてるな。先ほどの言葉で皆が一瞬で緊張したぞ」
「……すいません。差し出がましい真似をしました」
サミュエルとレイルは帝国軍の務めがあるため、ヴァレンタインたちだけで目撃者を探しに出た。
クレアとマクベスは行動を共にし、ヴァレンタインは単独で動いた。人の目があまりない建物の影に入り、ジェイドに呼びかけた。
「若様」
空から声がする。黒頭巾、覆面姿のジェイドが屋根の上から首だけ出した。
「お前も手伝ってくれ」
「御意」
すっと首が引っ込んだ。
ヴァレンタインは道行く娘に声を掛け、カインたちを目撃していないか話を聞いた。
そのようなことを繰り返しているうちに、いつの間にやら周囲に女性が集まり始める。
彼女たちはお互いに話し始め、自然発生的に、この村に住む彼女たち専用の情報網が駆使され始めた。
――ヴァレンタインは情報を得た。
ゴーグルをした金髪の男、巨大な本を背負ったとんがり帽子の老人、背に湾曲した剣らしきものを担いだツインテールの女の子という、いかにも目立つ一行が村を出て西に向かったらしい。
ヴァレンタインは女性たちと感謝の抱擁を交わしつつ、その集団から離れ、待ち合わせ場所の噴水に向かった。
途中でカラスの鳴き声を真似るジェイドと合流し、報告を受ける。
やはりカインたちは西に向かったらしい。この村を訪れた行商人が騒がしい三人組とすれ違った話をしたと言う。
「西ですか」
歩き回って疲れたのか、クレアが噴水の縁に腰かけた。彼女のほうは何も情報が得られなかったらしい。
マクベスはこの場におらず、皆で昼食を取るためレストランの手配に行っている。
噴水の周りにはレストランがいくつかあるが、すぐに戻ってこないところを見ると、なかなか席が取れないようだ。
「俺が集めた情報によると、そうみたいだ。すれ違った行商人によれば、カインたちは徒歩での移動だったらしいから、今から馬を使えば追いつけるかもしれない」
「……そうですね」クレアの表情が冴えない。
「疲れたか?」
クレアは軽く首を振った。
「もう、兄さまには追いつけない気がします。以前にも同じようなことがありましたから」
「そうなのか?」
「はい……。だから、しばらくはこの村でゆっくりして、また改めて探そうと思います。ヴァルさんは手伝ってくれますか?」
「俺は構わないが、君に雇われている身だし……」
「よかった」
クレアは笑った。彼女が初めて見せる笑顔だった。潤んだ緑の瞳に太陽の光が当たり、きらきら輝いている。
ヴァレンタインが見惚れているとクレアが不思議そうな顔をした。
「……どうかしましたか?」
「いや……」
ヴァレンタインはクレアの隣に座った。空を見上げる。快晴で、空気も暖かい。昨日、わずかに残っていた女神像の雪も解けてしまっている。
「……マクベス、遅いですね」
「そうだな……」
それから少しの間を置いてヴァレンタインとクレアが同時に口を開いた。お互い顔を向け、慌てて背ける。
「ご、ごめんなさい。どうぞ、お先に」
ヴァレンタインは頷き、顔を正面に向けたまま言った。
「クレアはカインに会ったらどうするつもりなんだ」
「連れて帰り、商会を継いでもらいます」
「商会を? ……それは無理かもしれない」
「なぜですか?」
「酒場でちょっと話しただけだが」
ダマスカスの小剣を押さえ込むカインの姿を思い出した。別れ際に笑う姿も。
「彼は楽しそうだった。きっと今の生活を楽しんでいるんだと思う」
「そんな……」
「クレアは継げないのか? 帝国は、身分制度や性差別のある王国と違って女性でも跡を継ぐことが可能なのだろう?」
「私は……、私には無理です。大きな商会ですから、まとめるには男性であるほうがいいのです。それに、私には決められた婚約者がいて、いずれ家を出て行く身ですから……」
「婚約者……」
二人の前を若い娘が通りかかる。先ほど聞き込みに協力してくれた娘だ。笑顔で手を振ってくる。ヴァレンタインはつい、いつものように手を振り返してしまった。
クレアが腰を上げた。
「マクベスを探してきます」
「そうか、俺も行こう」
「いいえ、私一人で行きます」
「いや、そういうわけにはいかない。マクベスから君を一人にしないようきつく言われているんだ。……何で怒ってるんだ?」
クレアは驚いた様子で一歩後退した。顔を背け、その場から立ち去ろうとするが、踏み止まり、雑念を払うかのように首を左右に振った。
ヴァレンタインは回り込み、クレアの顔を覗き込んだ。
「あ……」
クレアが声を出した。顔が赤い。
「お嬢様、今すぐ詰所に戻りましょう!」
マクベスが戻ってきた。帝国軍の兵士も一緒だった。
「カイン坊ちゃんの行方がわかったみたいですぞ。……どうかされましたか? お顔が……」
「……いいえ、何でもありません。マクベス、行きましょう」
クレアはヴァレンタインに一度も目をくれることなく歩き出した。早足で離れていった。