誘う白い手
「あんたってば本当に、私が連れ出さないと部屋から出てこないんだから!」
真奈美ちゃんはそう言って、今日も私を呼び出した。
隣の家に住む真奈美ちゃんは小学校から一緒の、いわゆる幼馴染みだった。
人見知りですぐに俯いてしまう私と違って、真奈美ちゃんは元気で明るくて、誰とでもすぐに友達になれた。さらさらの長い髪もすらりと伸びた手足もきれいで、私は同い年とは思えない彼女の全てに憧れた。
「今日は、どこに行くの?」
迷うことなく進む真奈美ちゃんに行き先を聞くけれど、振り返って笑うだけで答えはくれない。
真夏の太陽は傾きはじめ、影が濃く長く伸びている。
強引な彼女の行動にも慣れてしまっている私は、それ以上尋ねる気にもなれなくて無言で後を付いていくのだった。
そうして辿り着いたのは中学校だった。夏休みに入ってしばらく見ていなかったからか、ずいぶんと久々な感じがする。
ここでなにをするのだろうと真奈美ちゃんを見れば、先に来ていた友達と顔を見合わせた後でこちらを振り返りにっこりと笑った。
「今日はここで肝試しをします!」
どうだ、とばかりに両手を広げて言い切った真奈美ちゃんに、利香ちゃんと亜由ちゃんも盛り上がる。
その様子に、私はザッと顔から血の気を引かせてふるふると頭を横に振った。
「や、だ……やめようよ真奈美ちゃん……」
私はお化け屋敷も会談も大嫌いだ。もちろん肝試しだって想像するだけで怖くなる。
「たまにはこういう演出も必要だと思うのよね。だって夏なんだし!」
真奈美ちゃん達には中止するという選択肢は無さそうだ。
言い訳にもならない反論をいくつかしたけれど、結局すっかり乗り気の3人が心変わりをすることはないし、私にはそんな3人に逆らうこともできないのだ。
そうして夕暮れに黒く浮かび上がる校舎へと私は足を踏み入れることになった。
鍵の壊れた窓から入り込み、学校7不思議として話題になる場所を巡っていくという内容を聞き、私はいっそ倒れてしまいたかった。
北校舎3階の段数の変わる階段。
西校舎2階の開かずのトイレ。
夜中に人物が抜け出る美術室の絵画。
ひとりでに鳴る音楽室のピアノ。
生物室の生きているホルマリン漬け。
異界に繋がる用具入れ。
正面玄関の死者を映す大鏡。
誰に教えられるというのではなく、いつの間にか知っているのは、3年も通っていれば誰かが話しているのを聞くせいだろう。
実際の所その話が本当かなんて興味は無いし、確かめたいとも思わないけれど。
「まずは美術室から行こうか」
先導する真奈美ちゃんの声に2人が頷き、今から1人で帰ると言い出せないまま私も付いていく。
昼間とは違う薄暗い校舎は、それだけで十分に怖い。
いつもならば気にもしない廊下の棚の影や、カーテンの隙間の暗い部分にすら恐怖心が沸いてくる。
脱いだサンダルを手にしているせいで、ぺたりぺたりと響く自分の足音さえ、追われているような錯覚を起こし、意味も無く何度も背後を振り返ったりもした。
締め切られた校舎の、真夏に相応しい蒸し暑さに汗が浮かぶが、これは熱さよりも恐怖のせいかもしれないと思う頃、問題の美術室に辿り着いた。
真奈美ちゃんに促され、震える手でカラリと引き戸を開けた。
私を追い抜き、戸惑うことなく室内に入り込んだ3人は、件の絵画を見上げながら笑い声を上げる。
「やっぱり嘘じゃんねぇ」
「絵から出てくるわけ無いよね-」
そんな話し声が聞こえるけれど、私はとても顔を上げる気にはなれなくて、そわそわと足下だけを見下ろしていた。
「翔子ってば、せっかく来たんだし見てごらんよ」
真奈美ちゃんの声におずおずと見上げた先には、いつもと変わらない絵がそこにあって、分かってはいても思わず深く息を吐いた。
「もう。翔子ったら恐がりなんだから-」
「こんなの今時小学生でも怖がらないっていうのにね」
「でもそこが翔子のカワイイところだよね」
からかいと慰めの言葉にもう一度上を見る。
何度確かめても絵は絵だ。日傘を差して微笑む夫人も気むずかしい顔の老人も、動く事はない。
再び廊下を進み、次は2階にある音楽室に辿り着く。
しばらく待ってみたけれどピアノは鳴ることはなく、利香ちゃんの「つまらなーい」の声を合図にその部屋を後にした。
その後も肝試しという名の探索は続いた。
飛び降りたせいで段数の違う階段に笑い、私が棚を押してホルマリンの中身を揺らし、開かないはずの扉は飛び上がって上から覗き込んだ。
全国どこにでもありそうな7不思議の中身を確かめる度に、笑って騒いでいる真奈美ちゃん達。その3人の後ろを付いていきながら、私はやはりほとんど俯いていたのだった。
太陽はほとんど沈み掛け、次の目的地の用具入れの前に着いた時には辺りはすっかり暗くなっていた。
「ねえ、もう、やめようよ……」
さすがにこれ以上暗くなる前には帰りたい。そう思って話しかけてみたが、真奈美ちゃんは中断することを許してはくれず、むしろ楽しそうに笑うのだ。
「これくらい暗い方が雰囲気があっていいじゃない!」
「そうそう。それにせっかくだからさ、次は翔子が入ってみようね」
いい思い付きだといわんばかりの亜由ちゃんの言葉に私は激しく首を振った。
「や、無理だよ……それにきっと開かないし!」
西校舎1階の用具入れは校舎の端奥にあり、行き止まりのこの場所は普段から人気は少ない。体育祭や文化祭の時だけに使う大型の道具がしまわれているので、行事のあるときくらいしか開かれることはないため、鍵も掛かっているはずだ。
扉の前で尻込みする私を大丈夫だからと笑う真奈美ちゃんに促されて、嫌々ながらも扉に手を掛けてみれば、鍵の掛かっているはずのその扉はあっさりと開いた。その事に驚く間もなく真奈美ちゃんは、さあどうぞとばかりに私に微笑んだ。
「ま、なみ、ちゃん……」
道具が日焼けしないようにだろうか、厚いカーテンで閉じられた室内は外以上に真っ暗で不気味だ。やだやだと首を振る私を見ながら、真奈美ちゃんはゆっくりと口の端を上げていく。
「ねえ翔子。入ってみてよ」
おねがい、と続ける真奈美ちゃんに合わせて、利香ちゃんと亜由ちゃんも赤い口の端をゆっくりと上げていく。
「翔子はできるよね?」
真奈美ちゃんが傾いだ首のままでそう続けるから、私はついに諦めてゆっくりと暗い室内に足を向けた。
閉め切った室内のかび臭さと籠もる熱さに、ぎゅっと眉間に皺が寄るのがわかる。
異界に繋がるというのはどんな意味なのだろうと、周囲の暗い山から意識を逸らしつつ、1歩2歩と足を進めた。
「もっと奥よ。ちゃーんと中まで行ってね」
亜由ちゃんがくすくす笑いながら指示を出す声が背中から聞こえる。
教室と同じ広さの部屋はたくさんの道具が所狭しと置かれているせいで、ひどく狭苦しい。
置いてある物がひとりでに動くはずがないと、必死で心の中で唱えながらも、握りしめた両手が震えるのを止められない。
そうしてほぼ部屋の中央まで来たときだった。
何かが視界の端で動いたような気がして、落とした視線の先にソレはあった。
低い台のような物のさらに下から、床に這い出している、真っ白な人の手。
「ひっ……」
恐怖と驚きに、喉からは掠れた声しか出なかった。
竦んだ足は動いてくれず、視線を逸らすことも恐ろしく、私はその場から動くことができないまま、ガタガタと震えだした。
「どーうしたのー? いまさら怖くなっちゃった-?」
利香ちゃんの間延びした笑い声が入り口から聞こえる。
亜由ちゃんはずっと笑っている。
真奈美ちゃんは何も言わないけれど、痛いような視線を背中に感じた。
白い手がズルリとその指先を伸ばしてくる。
徐々に伸びてくる手首は黒く汚れていて、灯りのない暗い室内だというのに、その汚れが血なのだと私は知っていた。
「あ、あ……」
伸びてきた手は、その先に何があるのかを知っているように、私の足を目指して伸びる。
未だに固まる足を私は無理矢理に動かすが、ジリジリとしか動かない足に、その白い手はすぐに追いついた。
きれいに整えられた爪の、不自然に白い細い指先が、私の足首を掴む。
「つーかまえた」
背後からの声に、強張りを無視して振り返れば、そこには傾いだ首のままの真奈美ちゃんが、ニタリと口端を上げて笑っていた。
「まな、み、ちゃん……?」
なんで、も、どうして、も、言葉にはならない。
ただ何処かで「やっぱり」という気持ちが湧き上がっただけだった。
「翔子ってば、いつまで経っても来てくれないんだもの。だからね、迎えに来たのよ」
「そうーよー。まってるーのにー」
真奈美ちゃんの言葉に利香ちゃんの声が続く。
利香ちゃんは段々と喋ることが難しくなってきているようだった。口の端から赤い物が垂れている。
笑い続ける亜由ちゃんの声が室内に響く。
「ここなら、翔子にも届くかと思ったの」
異界に繋がっているという、この部屋。
触れないものに、触れることができる場所。
声を伝えることしか出来ない3人が、私に触れられる場所……
見覚えのある指は間違いなく真奈美ちゃんのものなのに、私の足首を掴む力はあり得ないほど強い。
ギシギシと骨が鳴りそうなほど強く掴まれた足首は、徐々に痺れ青くなり始めていた。
真奈美ちゃんの手を追うように、周囲の床には複数の白い手が這い出てきている。それは笑い続ける亜由ちゃんや、口端から血を流す利香ちゃんの手だろう。
「離して……真奈美ちゃん……」
早く逃げなければと必死に足を引くけれども、掴まれた右足は床に張り付いたように動かない。
必死に逃げようと暴れる私は、バランスを崩して床に倒れ込んでしまった。そしてそのことを察知したのか、白い手達は指で床を掻くように近付いてくる。
「いや……いや……」
首を振りながら出口へと這いずるが、動かない足のせいで大して進むことは出来ない。
そうしている間にも白い手は私へと辿り着き、ついに足を掴みだしたのだった。
白い手は氷のように冷たく、不気味なほどに柔らかい。
その感触に私はついに悲鳴を上げた。
「ダメよ。だって翔子のせいじゃない」
右足だけでなく左足も掴まれて、私は半狂乱になって両足をばたつかせて逃げようとする。
そんな私を嘲笑うかのように、真奈美ちゃんが私の罪を暴く。
「あの時、翔子が遅れなければ―――」
あの、1年前の夏の日。
待ち合わせに遅れた私を、真奈美ちゃん達3人は待っていた。
そして急ぐ私の目の前で、3人は落ちてきた鉄骨に潰されたのだ。
「私達は、死なずに済んだのに」
それは工事中の事故だった。
重量ギリギリの鉄骨を運ぶクレーンが強風に煽られて倒れるという、過失の上の事故。
誰かが叫ぶ声も、飛び散る赤い色も、千切れて転がってきた白い手も。
現実とは思えない情景の中で、きれいに塗られたピンクのネイルだけが印象的だった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
冷たい手が這い上がってくるのに耐えきれず、無我夢中で手を振り回しながら私は叫んだ。
あの事故の後。どんなに後悔したって、どれほど謝ったって、3人はいつも私の傍に居た。
そして笑いながら私を連れ出し、静かに私を責めるのだ。
振り回す手が周囲に掛けられていた幕に当たり、中身ごと倒れてきて私と手を押し潰した。その隙に私は床を這いずって唯一の出口へと手を伸ばす。
この部屋から出られれば助かる。
その時の私はただそれだけを思い、必死に埃だらけの床を進んだ。
辿り着いた暗い廊下には真奈美ちゃん達が立っていて、情けない姿の私を見て笑い出す。
「やーだー、しょうこってば、きーたなーいー」
「あはははは。逃げちゃった逃げちゃった!」
「翔子ってばほんとドジねぇ。せっかく迎えに来てあげたんだから逃げなくてもいいのに」
そこにはさっきまで私を責めていた真奈美ちゃんではなく、いたずらに失敗したとでもいう風な口調で佇む人が居た。
「あ、あ……」
耐えきれない。
そう思った私は震える足を叱咤して廊下を走り出した。
誰もいない暗い廊下は、どこまでも続いているような気がして、何度も転びそうになった。
後ろを振り返る気も、周囲に気を配る余裕もない。ただただ出口だけを求めて足を動かした。
普段ならば大した距離ではないのに、正面玄関に辿り着いたときには息も絶え絶えな状態だった。
そこまで来て、初めて私は背後を振り返った。
物音一つしない長く伸びる廊下には動くものは何も見えない。それは私だけに見えるあの3人がいないということだ。
逃げ切れた……
そう思えたことで強張っていた力が抜け、思わずほう、っと息を吐いた。
今までが異常だったのだ。
死んだはずの3人の姿が見えるのも、声が聞こえるのも。
元々私には霊能力のようなものは無かったし、あの事故の後に3人が現れるまではごく普通に暮らしていた。
それが何の理由があったのか、ある日真奈美ちゃんは私の目の前に現れて笑顔で声を掛けてきたのだ。
少なからず3人に対して罪の意識があった私は、彼女たちの言葉を断り続けることができずにこれまでを過ごしてきたけれど、それもここで終わりになる。
そう考えた私は、その時になってようやく自分の立っている場所が何処なのかを思い出した。
学校の3つある校舎の中で唯一正面玄関と呼ばれている場所。
数代前の卒業生によって寄贈されたという姿見の大鏡。
それは、7不思議の最後の1つではなかったか……?
落ち着いたはずの心臓が再びバクバクと音を立て始める。
蒸し暑さよりも得体の知れない恐怖に、背中を冷えた汗が流れる。
「まさか」と「もしも」がめまぐるしく思考を混乱させながらも、私はついに無視し続けることが出来ない鏡へと顔を向けた。
身長よりも大きなその鏡には、1年前からは想像も出来ないほどに痩せた私の姿と一緒に、笑顔を浮かべる3人の姿が映っていた。
「翔子。また遊びましょうね」
真奈美ちゃんの声が、耳元で聞こえた―――
読んでいただきありがとうございました。