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純愛アンチテーゼ

作者: 一瀬詞貴

 ベッドに潜り込む前、彼女は必ず部屋の窓を押し開き天を見上げる。腕の前で手を組み目を閉ざし、囁くような声で呼ぶ――星を。

「私は此処よ。善良なる(スルーア・マヒ)

 夜空から堕ち来たり、気紛れに願いを叶えるという星の精に、ひたすら願う。

 ……くだらない事、時間、夜明けを迎えて訪れる今日……それら全てを忘れるほどの愛に私を突き落として、と。息すら奪う、私だけを見つめる『目』が欲しいと。

「私もきっと、逸らさずに見つめ続けるから」


     * * *


 アリシアはドレスの裾を持ち上げ、起毛の絨毯を蹴るように、前を行く母の背を追った。

「お母様、あの……」

「……誰か! アリシアの相手をして!」

 螺旋階段の途中で立ち止まった母は、娘の声に振り返りもせず、ばたばたと女中らが忙しくする階下に声を張り上げた。次いで大慌てでやって来た年老いた女中頭に、顎で娘を示すと、足早に去ってしまう。その顔は黒いケープに隠され見えなかったが、アリシアには、はっきりと舌打ちする音が聞こえた。

「何の用でございましょう。お嬢様」

 入れ替わりで寄ってきた女中頭は顔を曇らせるアリシアを覗き込み、そう恭しく問うた。それになかなか口を開かないでいれば、女中は前掛けの前で組んだ手をやきもきと動かし始め、ついにおずおずと――けれど苛立たしさを滲ませながら、口を開く。

「…………本日は、旦那様のお客様方がいらっしゃいますれば」

「ごめんなさい。大した用では無かったの」

 アリシアは手の内のハンカチーフをぎゅっと握り潰して淡泊に告げた。それに女中頭は見るからにほっとした。深々と腰を折り、足早に階段を下ると広間に消える。

「…………そうよ。大した用じゃない」

 思わず呟いて、アリシアは豪勢な細工が施された欄干に腕を乗せ階下を見下ろした。客人を静かに待つ正面玄関の前を召使いたちが忙しく行き交う。その右手側にはぞくぞくと父の知人らから送られた花が運び込まれていた。……広間はさぞ、盛大に飾り付けられているに違いない。

 母はこの日をどれほど心待ちにしていた事だろう。父が手遊びに書き、自費出版した小説が増版された事を祝って、ここぞとばかりに客を呼んだのだった。けれど、アリシアはこの会が真実、父を祝って催されたものではない事を――父の嫉妬激しく、めったに他人と会う事を許されない母が、他人と会談するために開いた会なのだと知っている。

 その時だった。途端に外が騒がしくなって、アリシアは顔を上げた。召使いらの歓待の声……彼女の父、リュリ男爵が帰還したのだ。

 重い音を立てて玄関の扉が開く。アリシアは喜色に頬を染めて、階段を段抜かしで飛ぶように下りたのだったが、

「お父様! お帰りなさ――――」

「ルチア。帰ったよ」

 父は、あと二、三歩の距離まで走り寄った娘には目もくれず、妻の姿を探した。

「お帰りなさいませ」

 広間からドレスの裾をさばき、優美に母が歩み寄る。父は眩しげに目を細めて妻を見遣ると穏やかに微笑んだ。

「今日も一段と美しいよ、ルチア」

 母は答えない。父が母のコルセットで締め付けた細い腰を抱き寄せてやっと「そうそう、編集長さんが……」などと言って、あからさまな嫌悪感と共にその手から逃れた。

「…………せっかく、作ったのにな」

 広間に向かった両親を無言で見送ったアリシアは、皺だらけになった手巾(ハンカチ)を見下ろした。

 それは彼女が手ずから父を祝って一針一針、刺繍を施したものだった。けれど父は、口すら聞いてはくれなくて。

 ――父の世界には母しかいない。

 それを知っているから、アリシアは母を介して渡して貰おうと思ったのだが……

「処分してちょうだい」

 アリシアは近くを通った女中に、行く宛を失った手巾を押しつけると踵を返した。

 複雑に結い上げられた髪に、青みがかった裾の美しいドレス……着飾られた自分は祝賀会のための調度品の一つのようで、アリシアは握り拳を目に押し当てると、低く笑った。


     * * *


 暮れかかる空が次第に光を失う頃、会は始まった。ゆうに二百人は入るかと言う広間の中央には円卓が設けられ、所狭しと色鮮やかな料理が並べられている。それを囲むようにして、手にシャンパングラスや小皿を持った貴人らが話に花を咲かせていた。

 主役であるアリシアの父・リュリ男爵は、方々から招かれた賓客らに取り囲まれ、尋問されているが如く身を縮こまらせていた。その隣には堂々とした様子で母が付きそう。

「……お父様は相変わらず?」

 庭園に続く硝子扉の近くでぼんやりしていたアリシアが声をかけられたのは、酒も食事も行き渡り、会も酣と言う頃合いだった。

 羽根扇を口元に添えて歩み寄って来たのは全身をごってりと飾り立てた、侯爵夫人――アリシアの三歳年上の姉だった。

「ええ。心の中にはお母様しかいないから」

 その答えに短く嘆息を漏らした姉は、「それで」と妹に身を寄せた。

「貴女はいつまで家に残っているつもり? 十六にもなれば見合いの話はあるでしょう。ま、貴女の場合、お母様みたいに浮いた話一つ聞かないから良いけれど……余り遅くなるとあの人の娘なだけに変な噂が立つわよ」

 ……かつてアリシアの母ルチアは社交界の華だったと言う。生まれは歴とした伯爵家の長女、今でこそ黒いベールに隠されてはいるが、彼女の美しさにまつわる噂はアリシアも知っていた。その美貌を目にした者はみな一瞬呆け、やがて男は持てる限りの愛を囁き、女は忽ち羞恥心を覚えて身を隠したとか云々。母の元に間断なく届いた結婚の申し込みの中には上は皇室に連なる者もいたとか。

「大丈夫よ。私はお母様ほど美しくないし」

「私の妹が美しくないことがあって? お母様譲りの金髪にふっくらとした唇、お父様譲りの青い瞳……ま。今は幼く見られても、あと二、三年もすれば殿方が放っておかないわ」

 それから姉は、歓談に耽る母をチラリと一瞥して、「それに……お母様と比べるのは間違いってものよ」と付け足した。「あの人はちょっと特殊だから」とも。

 彼女らの母がその奇蹟的な美貌で数多の男を虜にし、浮名を流したのは有名な話だった。

「…………今じゃ、見る影もないけどね」

 そう言った姉は、皮肉に歪む口元を隠すように扇を広げた。

 母は――二十二の時、火事に巻き込まれ怪我を負ったのだと、アリシアは聞いている。

 命は取り留めたものの、絶世の美女と詠われた彼女は二目と見られぬ姿となった……それをきっかけに、彼女の自由奔放な愛の生活は、ついに幕を閉じた……

「財産も身分も下だったお父様によく嫁げたものだと感心するわ」

 数多の男たちは去り、その取り巻きの中で父・リュリ男爵だけが残った。その彼に莫大な持参金と共に母は嫁いだのだと言う。それはまるで押しつけられるようだったらしい。

「それで、貴女の結婚しない理由は何? この間、求婚してくれた伯爵家の青年なんて、身分、財力共に申し分なかったでしょう?」

「わ、私はそんな事で結婚したくないのよ。こ、心から愛せる人と一緒に……なりたくて」

 俯きながらも、なんとか声を絞り出せば、姉は首を傾げた。

「愛する……例えば、お父様みたいに?」

 頷けば、短い溜息と共に姉は扇を閉じる。

「……いつまで夢みる子供でいるつもりよ」

 そう言って、アリシアの顎を扇の先端で持ち上げた姉の眼差しは、少し厳しげだった。

「貴女、さっき言ったわね。お父様はお母様だけで心がいっぱいだって。それって、だから私たちが見えなくても仕方がないって事?……あんなものが愛であってたまりますか」

「お父様はお母様を愛しているわ。それこそ、見返りもなく、純粋に、真っ直ぐに」

 アリシアが怒気荒く言い返せば、姉は暫し目を瞬くと眉をハの字形にする。

「……貴女が愛した人と結婚したいと言う思いを否定する気はないわ。でもお父様のは愛じゃないのよ」

 アリシアの胸にカッと熱が走る。

 身分や財力で夫を決めた姉に父の愛を語って欲しくはない。父は、姉や……母に美しさを求めた男たちとは違う。親ですら目を背けた容姿となった母を娶り、結婚して二十年、どれだけ邪険にされても、父は愛情細やかな態度を変えなかった。整った面から穏やかな微笑が絶える事はなかった。

 ……確かに父の母への執着は甚だしいものがあるかもしれない。母が他人と関わろうとするのを極端に嫌がり、母の外出には必ず父が同行した。しかしそれが何だと言うのだろう。父は、母がいなければ息もできぬほど……それほどまでに愛しているのだ。

 父の世界には母だけ。それこそが、愛――一人を直向きに愛する、純愛と呼ばれるものではないか。

 姉はふいに目を細めると、やがて諭すようにゆっくりと口を開いた。

「見返りのない愛なんて存在しない。与え、与えられての愛よ。ましてや、貴女の言う純粋な、真っ直ぐな愛だなんてあるはずがない」

「あるわ」

 頑なな妹の態度に、姉は瞳を翳らせた。

「…………では、訊くけれど」

 一オクターブ低い声で、問う。

「お父様は、お母様の何を愛していると言うのかしら」

「お母様自身。お母様の全てをよ」

「では、お母様をお母様たらしめている――容姿、身分、財、性格、知能、それら全てを失ったとしても、お父様は愛し続けるかしら」

「愛するわ」

「――――――それって愛なの?」

 アリシアの迷いない答えに、姉は更に問いを重ねた。

「愛だとして……誰に向けられたものなの?」

 アリシアは目をぱちくりさせる。それから慌てた。答えが見つからなくて、無意味に口を開閉させる。姉は、そんな妹に何処までも真剣な様子で、告げた。

「ね? 分かったでしょう。混じりけのない愛なんて存在しないの。……お母様はお可哀想だわ」

 短い溜息が落ちる。アリシアは自身の頬が引き攣るのを感じた。

「お父様はね、弱いのよ。ご自分に自信がないの。だから誰からも見放されたお母様を娶った……確実な自分の居場所を得るために。お母様の世界にはお父様しかいないと、そうやって必要とされたくて……私にはそう見える。自分を蔑ろにしてまで尽くすのがその証拠でしょう? あの人は……お母様が火傷を負った時、ほくそ笑んだに違いないのだわ」

 アリシアは前で重ねた手の平をぎゅっとドレスごと握りしめた。やがてぽつりと言った。

「……そうやってひたむきなお父様を否定して、自分を納得させなければ、辛いのね」

「なんですって?」

「聞いたわ」

 顔を上げて、姉を睨み付ける。

「侯爵様は随分とお妾さんにご執心のようじゃない。お姉様は相手にされてないから、お父様の愛をやっかんで――――」

 頬に走った痛みに、アリシアは言葉を飲み込んだ。姉は呆然とした様子で振るった自身の右手の平を見遣ると、

「……私は貴女の事を思って言っているのよ」

 言って、気まずげに唇を噛み、目を逸らす。

「…………お父様の愛は本物よ」

 アリシアは叩かれた頬に手を添えると唇を戦慄かせた。

「お父様の何が間違ってるの? どうしてお母様がお可哀想なのよ。お可哀想なのはお父様の方だわ! ひたむきに愛してるだけなのに! それなのにお姉様もお母様も、酷い」

 視界が涙で霞む。

「私だったら。お父様が愛するのが私だったら。…………私、こんなに愛してるのに」

 目元を押えて吐き捨てる。その彼女の肩を姉が掴んだ。

「アリシア。貴女は寂しいだけなの。貴女は愛してくれるなら誰でも良いのよ。でも仕方ないわ。こんな所にいては――」

「違う!」

「なら、貴女はお父様がお母様をああして愛さなくても、お父様を愛していられて?」

 ナイフの切っ先のように鋭い問いに胸を抉られ、アリシアは一瞬、息を引き攣らせたが、

「――もちろんよ! 愛するわッ!」

 なんとかそう叫ぶと中庭に向けて駆けた。


 空には満天の星空が広がり、星が二つ弧を描いて夜を滑った。


     * * *


 外気の寒さにアリシアは思わずぶるり、と震えた。息が白い。一瞬過ぎった、何か羽織るものを取りに戻ろうかとの考えを無視して、苛立ちのままドレスの裾を摘み上げ、ポプシー、スエシカなど針葉樹(コニファー)が立ち並ぶ、しんしんと冷える冬の庭を早足で通り抜けた。

 やがて聖母の立つ噴水に到着して――アリシアはぎくりとした。

 人影があったのだ。

 それは母と……背の高い一人の男だった。

 男はどこにでもいそうな紳士だった。黒い燕尾服に、首元にはボウタイの変わりに白銀色のアスコットタイ、頭にはシルクハットを被っている。異様だったのは、緩くウェーブのかかった前髪の合間から覗く禍々しく輝く赤い瞳、そして悪魔的な美しさ……

 母の逢瀬を覗き見る趣味はないと、アリシアはすぐに来た道を戻ろうとしたのだが。

「おや。そちらは夫人の娘さんですか」

 男の飄々とした問いに母が振り返る。……これほどはっきりと指摘され、なお逃げ隠れるのは誇りが許さず、アリシアは背を正した。

「……お母様。この方は一体、どちら様?」

 しおらしく挨拶するでなく、無礼を承知で敢えて誰何する。男は母が答えるよりも早く、悪びれ一つせず、いな、大げさにも思える優雅さで帽子を持ち上げて深々と腰を折った。

「わたくしはエトワール。そしてこちらが」

 にゃぁ、とその時、アリシアたちの脇を駆抜けて黒猫が一匹、男の肩によじ登った。それを示して彼は「弟です」と紹介する。

(エトワール)……?」

「はい。この星です」

 訝しげに眉根を寄せるアリシアに、人懐こく笑って彼は天を右の人さし指でさした。

「貴女は星を見上げていかがします? 胸で手を組み願わずにいられはしませんか? わたくしはそんな方の願いを叶えるため天から堕ちた、妖精(スルーア・マヒ)! 願いを叶え、幸をもたらす……それがわたくしの喜び!!」

 蕩々と語った彼に気圧されて、アリシアは一歩退いた。反対に、母は大股で男――エトワールに近づいた。

 その横顔は怖いほどに真剣で、アリシアは彼を招来したのが母だと知り、一抹の不安を覚える。

「それで、夫人。わたくしは一体、何を叶えれば宜しいのでしょう?」

 エトワールは口角を片方上げて問うた。それに母の戦慄く唇が答える。

「――――――もとの美しさを」

 ケープが剥ぎ取られ、露わになる生々しい火傷痕。その余りに酷い有様に、アリシアは息を飲んだ。母は苦渋に満ちた声で続けた。

「もう、いやなの。愛されず朽ちていくのは」

「何を言っているの、お母様。お父様はお母様を愛して……」

「あんなもの、愛じゃない!!」

 アリシアの声は母の怒号にかき消された。母は低く笑うと自身の身体を両手で抱いた。

「家に閉じこめられ、飼い殺されて……老いさらばえていくだけ。選べるはずだったのに。私は選べるはずだった……自由に、自分の意思で愛する人を。なのに、この火傷のせいで」

「お母様……」

 アリシアは愕然として母を見つめた。美しさで男を虜にしていた頃に戻りたいと……父の愛よりも、大勢の寄せ集めでしかない紛い物を望むと、そう母は願うというのか。

 エトワールはかなりの時間、母を観察するように眺めてから、晴れやかに宣言した。

「それではその願い、叶えましょう」

 言って、腰に佩いた刀剣を鞘から抜き放つとさくり、と地に突き立てた。

「ただし……どなたか――近しい方の命と引き替えです」

「な……」

 にこやかに告げられた言葉に、アリシアは息を飲む。

 エトワールは顎を撫でると首を傾げた。

「何を驚くんです? 代償があるのは当たり前でしょう?」

「…………すぐに立ち去りなさい。でなければ人を呼びます」

「人を呼ぶ? 何故」

 アリシアの鋭い目付きに、彼は傾ける首の角度を大きくする。ついでハッとした。

「もしかして信じてくれてない?!」

「お母様。館に戻りましょう」

 衝撃を受けるエトワールを無視して、アリシアは地に落ちたケープを拾い、母にそれを押しつけ促した。

「お母様」

 苛立たしげに、地に刺さった剣を見つめ続ける母の腕を掴む。アリシアが踵を返せば、ひらりと二人の頭上を飛び越えて、エトワールが目前に立ちはだかった。

 ぎょっとするアリシアを気にもとめず、ステッキを左腕にぶらさげた彼は、母に近づくと断りもなく彼女の服の袖をたくし上げる。露わになった火傷跡と母を見比べ、エトワールはニヤリと暗い笑みを浮かべた。

「わたくしは本当に妖精なのですよ。願いを叶えるため天から堕ちた……」

 彼は袖を元に戻してから、次いで高々と母の腕を持ち上げた。手にしたステッキをくるりと一回転させピタリ、と腕に突きつける。

「……ネマ、ネマ、ネ~マッ!」

 そして、戯れるようなかけ声を口にして、服の上からステッキで火傷跡をなぞるように触れた。ややあってから、再び袖をまくり上げれば――そこにあったのは、生まれたばかりと見紛うような、瑞々しい白い肌だった。

「どうです?」

 母がまじまじと自身の腕を見て、その場にへたり込む。

「出てお行きと言っているのよッ!!」

 アリシアは目前で生じた不可思議な出来事を必死に否定しようと声を張り上げた。

 それにエトワールは目を瞬くと、ふむ、と低く唸った。

「貴女は信じてくださったようですが?」

「信じません。信じるわけないでしょう。そもそも何です? 願いを叶えるため近しい者の命をよこせですって? 願いを叶える如何に関わらず……そんな事を望むなんて、あなた愉快犯ね。それも最低の、殺人狂!」

「違う。違いますよ、お嬢さん」

 忌々しげな告発を真顔で否定すると、彼は母の腕を離しアリシアに向き直った。腰低く、すくいあげるように彼女の顔を覗き込む。

「わたくしは、覚悟を見せて欲しいだけ」

「覚悟……?」

 はい、と彼は重々しく頷いた。

「わたくしはその人の望む、一番を叶えます。その人は満たされ幸せになるでしょう。ですからそうなる覚悟を見せていただきたい」

「……願いを叶える事と、他人の命を奪う事、何処に関わりがあると言うの」

「幸せは自らやって来たりはしません。だから、貴女がたは他人から奪うのでしょう?」

 眉根を寄せるアリシアに、エトワールは虚を衝かれたような顔をした。

「それともまさか、気付いていませんでしたか? あなたが幸せになれば、誰かが不幸になっている事を」

 彼は淀みなく続けた。

「人の最も重荷となる罪はなにか。それは殺人です。命を奪うと言うのですから当然の事。ですから、わたくしはそれで覚悟を量りたい」

「だったらすぐにでも願いを言いそうな犯罪者のもとへ行けばいい。迷う事なく、あなたにその覚悟とやらを見せるでしょうよ」

「分からないお人ですねぇ。わたくしが叶えたい願いは人の願いだけです」

 一度、彼は蔑むような目をアリシアに向けたが、噛んで含めるように言葉を加える。

「ルールから外れた者に用はないんです。社会の中で生きる、〈人〉の覚悟が欲しい」

 ひんやりとした彼の赤い目に、アリシアは息を呑んだ。微笑を浮かべた整った顔が、ぐにゃり、と歪んだように見えたのだ。

「…………悪魔」

 思わず口を突いて出た言葉に、エトワールは人指し指を立てて、左右に振った。

「ノンノン。それは違います。わたくしは神に最も近しい光の皇子の眷属。ま、悪魔と言うのも部分的には正解ですかね。客観的な――そう。貴女から見れば確かに私は悪魔です」

 面白そうに赤の瞳が煌めいた。

 不意に感じた悪寒に、はっとして背後を振り返れば、いつのまにやら地に突き刺さっていた剣を手に、母が立っていた。

「お、お母様……一体何をなさるの!」

 間髪入れずに剣が振り下ろされる。その腕に、アリシアは咄嗟に飛びついた。

「取り戻したいの。あの頃の美しさを」

「しっかりなさって、お母様! こんな――」

 ぐぐぐ、と剣を押しやりながら説得にたる言葉を探す。母の瞳は不気味に凪いでいた。アリシアの背に冷たい汗が流れる。一方、エトワールは完全に傍観に徹するようで、乱心した母を止めようともせず楽しげに二人のやりとりを眺めている……

「こ、こんな得体の知れない方をお信じになり、私を殺すと言うのですか? その程度にしか……私は愛されていなかったの、ですか」

 問いを口にすると、ズキリと胸が痛んだ。

 父が好きで、だからこそ母が憎くて。でも、それでも……態度は素っ気なくとも、それなりには愛してくれていたらいいと、思っていた。願っていた。――けれど、今、躊躇いなく剣を手にした母の全てが答えではないか。

 自分は、愛されてなどいない。誰からも。アリシアの胸中を、絶望が黒く塗り潰していく…………

「私が貴女を愛していない?」

 しかし思わぬ事に、目をぱちくりさせた母は、やがて唇を引き延ばすと、言った。

「愛しているわよ、もちろん。だって、貴女は私が腹を痛めて生んだ子だもの」

 アリシアは瞬きすら忘れて母を凝視する。

「だから、ねぇ、アリシア。我慢してちょうだい。幸せのためなのよ」

 その時、アリシアは……命を奪われるかもしれない恐怖より、息もつけぬほど愛を与えられてなお、違う物が欲しいとのたまう母へ嫉妬した。

「もう一度お腹に返って、アリシア。また産み直してあげるから」

「……わたしはお母様の一部じゃないわ」

 ――視界が揺れるほどの、狂おしい、嫉妬。

「わたしはお母様じゃないのよ!!」

 もしも母であったなら、寂しい思いなどしなかっただろう。もしも母でさえあったならば、父は自分にも愛を振り分けてくれたに違いない。けれど現に自分を、父は見もしない。

 父の瞳が病的に映し出すのは母だけ。だから、やはり母娘は別個体なのだ。それなのに。

「愛していたの。こんな火傷さえなければ同情される事もなかった。ちゃんと愛し合えた」

 アリシアは自分が母の瞳にすら映っていない事に気付いて、ぶるりと震える。

「お……お願い、お母様。やめて」

 悲しみと、悔しさと、憎しみでうまく息ができない。……これで終わってしまう?

「やめて…………やめてぇッ!!」

 そんなのは――あんまりではないか。


     * * *


 喪を済ましたリュリ家は、異様な空気に包まれていた。

「ルチア」

 夕食の後、広間の長いすに座って縫い物をする妻の隣に男爵は腰掛けた。妻は夫に寄り添うと、美しい青い瞳を向けた。そっと手を重ねる。暖炉の炎に煌々と照らされた白磁の頬に夫は唇を寄せる……美しき夫妻は家を襲った不幸など露とも知れぬ風だった。

 祝賀会の夜から、夫人が顔を隠す事は二度と無く、一方、男爵は今まで通り妻を愛し、今まで通り自由を奪った。

 ……そんな主人を、召使いたちはついに乱心したのだと嘆いた。――彼はルチアが死んだ事を、とうとう理解出来なかったのである。


「えぐい」

 小高い丘の上……そこの一本のもみの木に二つの陰が佇んでいた。その内の小さい方、エトワールの弟である黒猫はそう吐き捨てると、兄に支えてもらった望遠鏡から顔を上げた。夕闇を迎えた町筋を背に、リュリ家を眺めて髯を揺らす。

「僕も大概、酷いとは思うけど、まだ、切ったり千切ったりして楽しむ方がましだと思う。……あ、これ褒め言葉ね」

「なんだか素直に喜べませんねぇ……」

 苦笑を漏らして、エトワールは望遠鏡を手元に引き寄せると、胸ポケットへ押し込んだ。それを横目に弟は問う。

「どうして母親の願いを叶えなかったの?」

「……娘の一途な願いが心を打ったからです」

「とぼけないでよ、兄さん。一途だったのは夫人だろ?」

 弟が鼻を鳴らして指摘すると、エトワールの柔和な目元がスッと鋭さを帯びた。

「彼女は火傷などしなくたって、リュリ男爵と一緒にいた。そのために火傷跡を消したかったんだから」

「…………どうして、そう思うんです?」

「彼女が夫を愛していたから」

 間髪入れずに弟が答える。

「愛していたからこそ彼女は選びたかったんだ。数多の男の中からリュリ男爵を」

 それから弟は嘆息すると、大げさに肩を竦めるようにした。

「ま。だから、あんたは娘の方の願いを――母に成り代わりたいって願いを叶えたんだろうけど。……そっちの方がより面白いからね」

 それには答えず、エトワールは立ち上がると幹に寄り掛って背後を振り返った。眼下に広がる町並み……闇夜を舞う突き刺すような冷たい風に彼は黒髪を遊ばせる。その兄の内心を探るように見つめて、弟は続ける。

「願いが叶うよう人は祈るけれど……本来、人は随時軌道修正しながら、願いそれ自体を探っていく。一つ一つ立ち止まって悩み、失ったものを繰り返し、振り返り確認したり、今と昔を比較して本当に得たいものを追求していく――だから……兄さんはえぐい」

 そこで弟はニヤリと口の端を持ち上げた。

「自身の願いを、それを取得しようと模索する者の手足をもぐと言うんだから」

「願いを叶える事が、手足をもぐ……と?」

「そうだよ。突然訪れた満足は、何がどう自分の望むものと違うのかを、分からなくさせる。手に入れてしまったために、その歪みに気付けない。不満の理由は永遠に見つけられない。……まるで虚飾の檻だ。一見、幸福だから自分が捕われている事すら知れない。苦しむしかない」

 弟は満天の星空を仰ぎ見る。

「だから、自分で得たもの以外――与えられなどしたら、人は、歪む。それは欠けているよりも質が悪いよ。壊れるよりもずっと酷い歪み方をするんだから」

 それから彼はじっと目を閉じた。黒い耳がピクリと揺れる。次いで零れる悦楽の溜息。

「あぁ、美しいね。リュリ家に響く音色は、硝子が割れる瞬間の……軋む音に似ている」

「……心外ですねぇ。わたくしは純粋に人を愛しているんです。だから願いを叶えている」

「無知、愚か、盲目が大条件の〈純粋〉は、兄さんの中じゃ存在できないよ」

 弟が首を振るのに、エトワールは「おやおや」と目を瞬かせた。

「存在は何処までも主観的なもの。わたくしが〈ある〉と言えば、あるのですよ。――彼女のように、ね」

 微笑を浮かべつつそんな事を言って、彼はシルクハットを右手でちょいと摘み上げる。

 そして彼は、リュリ家を一瞥してから空へ目線を向けた。黒猫はそんな兄を半眼で見遣る。……楽しそうには見えるものの、兄が決して望遠鏡でリュリ家の行く末を覗いたりはしないのを、弟は知っていた。

「悪びれもなく……さすが悪魔と言うか」

「失礼な。わたくしは光の天使の末――」

「楽園を追放された、だろ」

 弟の容赦のない指摘に、エトワールは人さし指を唇に当てると、ニコリと笑って片目をつぶった。


     * * *


 ……星は無邪気に、世界を付け狙っている。




(了)

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