昭和15年 それぞれの社会人4年目
1941年(昭和15年) 呉港 戦艦「日向」にて。
木曽平吉と、先輩の水谷は、課業である銃剣術の立会いをしていた。
先達である水谷が、掛け声と共に木銃の突きを激しく繰り出す。
(さすが、水谷さん速い! セオリーでは突かれそうになれば、肩を引いてかわすんじゃが・・・。それじゃあ、自分の攻撃の姿勢が遅れてしまうで!)
水谷の喉を狙った突きを、自分の木銃をかすらせることでそらし、逆に水谷の喉を突いた。
「ぐはっ!!」
「やったで!! やっと水谷さんに勝ったんじゃ!」
「木曽くん、やるなぁ。やっぱ、悔しいもんじゃが」
平吉は、荷物をまとめて、艦を降りる支度を済ませた。
「木曽くん、もうお別れなんか。この艦にきて何年たったんじゃ?」
水谷は、「日向」を降りることになった平吉に、最後の別れをしに来ていた。
「もう、3年とちょいがたちました」
「なんか、もうそんなにたつんかよ。早いもんじゃ」
「いや、俺には長かったですよ。やっと、術科学校の入学が決まったんですから」
術科学校とは、専門性を重視する海軍で、兵に専門的な訓練を行う教育機関である。下士官を目指している平吉にとっては、それへの一歩といえる。
「あー、君、一度不祥事をやってるからね」
「あ、まだ性病のこと覚えてるんですか?」
「ああ、覚えてるさ。ずっと心配してたんだよ。二等兵どまりになるんじゃないかとね」
平吉も、それでかなり落ち込んだものだが、今では平吉も、水谷と同じ一等兵だ。
「心配してくれてたんですか?」
「そりゃそうさ。昇進もそうなんだけど、オンナの・・あの子、名前なんってたっけ?」
「文江です。まぁ、色々ありまして」
「ああ、責任感じてるんだよ。俺が性病のこと、彼女にそのまんま言っちゃってよ。別れたりしたのか? どうもそのことを、聞きにくくてよ」
平吉は少し暗い顔になって、それでも笑って答える。
「文江から、俺がやったことを”浮気”とは思わないって言われました。ただし・・・」
「え? ただしって・・?」
「『今後、家族とは思わない』って。半分夫婦みたいな関係を解消し、海軍で得た給金は渡さないでいいって」
「あ・・、それって」
別れたも同然じゃん?と、水谷は言葉に詰まった。
「縁を切られたってわけでもなく、下宿に来ても客人としてなら上げるということで。いや、叩き出されたも同然かな」
「お気の毒というか・・・」
「いえ、愛想つかされたってわけでもないんですよ。あいまいな婚約は消滅しても、文江の奴はまだ、呉にいますから。田舎に帰れば、百姓に嫁がされてしまうのを恐れてますからね、アイツ」
お前らどーゆう関係なんじゃ、と水谷は苦笑いして、ちょっと憐れんだ。
「それじゃあ、俺は半年ばかり横須賀に行ってきますから。俺が「日向」にまた戻るかどうかわかりませんが、呉に戻ってきたらまた会えますよね」
平吉は、肩に荷物をさげ、艦から呉へ出るランチへ向かった。
3年、3年か。そういえば俺は、海兵団のときに3年以内に下士官になるってほざいたことあったっけ。平吉は、あのつらい海兵団時代を懐かしく思い出した。
文江とも、向こう半年は会えないことになるかな。二人は、妙にギクシャクとした関係になってしまった。
(もう二度と買春なんかしねぇ~!!!)
苦くて深い後悔を味わう平吉だった。
支那の上空。平吉らのように、海軍の戦艦部隊などは実戦に参加しないままであったが、海軍航空隊は、支那事変の始まりから支那側の戦闘機と戦闘を続けていた。
あまり知られていない事だが、支那側は欧米から購入した新鋭機を揃えており、開戦当初は制空権争いで日本軍に多くの損害が出たのである。
平吉の同年兵の木村一等航空兵は、九六式艦上戦闘機に乗って、爆撃機の護衛をしていた。
爆撃任務を終え帰還中、護衛対象の九六式陸上攻撃機の一機が、被弾のために隊から脱落したため、木村含む3機の戦闘機がその護衛をしていた。そこへ、危機的な状況が発生する。
支那側の戦闘機、カーチス・ホークⅢらの戦闘機編隊約20機が襲いかかってきたのである。
「くっそう!! まずいことになったで! 本隊から離れてなかったら、なんとかなったのに!!」
木村は操縦席で叫んだ、が実のところ戦闘機の操縦席では、自機の爆音で自分の声も聞こえないのであるが。
機体の性能では、九六式艦上戦闘機が敵機に勝るのだが、多勢に無勢である。手負いの爆撃機を見捨てて退却するという選択は、帝国軍人には無かった。
九六式戦闘機の3機は、爆撃機という足かせを守るために奮闘し、敵機2機を撃墜するも、味方の1機が被弾して墜落していった。
「ああ、アカン!!」
ここが死に場所か? いや、残った2機でそれぞれ10機ずつ落とせばええんじゃ!、と気合を入れなおす木村だったが。その木村の目に、新たな機影が見えた。
「あれが、敵機ならもう終わりじゃ。さすがに、あきらめるで・・・!?」
その6機の編隊だが、機体には日の丸が付いていた。つまり、友軍! しかし、木村が見たこともない機体だった。
(これで、8対18これでも敵が倍以上なんか。いや、さっきまでの絶望に比べれば、地獄に仏じゃ。遅れをとってなるまいぞ!)
しかし、予想にも反する形で、その友軍機は次々に敵機を撃墜していった。その姿は銀の翼を持つ海鷲にも見えた。
(あの、新型機か?、この九六式艦戦よりも格段に速い!!ばかな!)
速度が速いばかりではなく、旋廻するときの小回りが断然に違う。くるりと回っては、敵機の後ろに食らい付いている。
(あの機体、主脚が見えないってことは、引込み式主脚なんか、道理で速いわけじゃ、うらやましいのう)
自分の機体は、固定式主脚だから、空気抵抗でどうしても遅くなる。だが、強さの理由はそれだけではあるまい。戦闘機乗りとして、木村はあの謎の新鋭機が欲しいと思った。
新たに援軍が加わった日本軍に、多くを撃墜された支那側の戦闘機は、劣勢を悟り撤退していった。
木村は、新鋭機のパイロットに向けて操縦席から敬礼をした。
この新鋭機は、零式艦上戦闘機。のちに零戦(ゼロセン、れいせん)の略称で広く知られるようになる海軍の最新鋭戦闘機であった。
帝都東京、場所は久穂田鉄工所 隅田川工場。
平吉の東京時代の知りあいである苅田進一は、この工場の設計係で働いていた。
今年で勤務4年目、中堅と言われてもいい頃なのではあるが、なかなかうまくはいかない。苅田は、自分の仕事のほとんどが使い走りや、雑用のようなものだと感じていた。
(自分はこのまま、うだつが上がらないままなのだろうか・・・)
重要な仕事も任せてほしいとは思うものの、それをやる力量が自分にあるかとなると自信がない。
今日も、先輩らの仕事を手伝っていると、職場に配達員がやってきた。どうも、その配達員は苅田のことを探していたようで、苅田は呼び出された。
「郵便ならば、自宅の方に届けてくれればよかったのに」
と、苅田は配達員にそう言った。職場にいる自分に、直接に郵便が届けられるようなことは普通ない。苅田は変に思ったわけだが。
「いえ、これは本人に直接渡すものなので」
苅田は嫌な予感がした。配達員だと思っていたのは、役場の職員であった。彼が持ってきたものは、苅田に対する陸軍の召集令状だったのだ。
「おめでとうございます! それでは、この受領書に記入と押印をお願いします」
「え、ええ・・・」
いわゆる赤紙かよ・・・。苅田は、返事はしたものの、頭の中は真っ白になっていた。なぜ俺が?、ハタチも大分過ぎている俺が?、大学出の俺を引っ張らなくてもいいだろう?、などと頭の中で繰り返す。
受領書を受け取ると、役場の職員は笑顔でお辞儀をして帰っていった。
気がつくと、苅田の上司がそばにいて肩を叩いてきた。
「おめでとう! 苅田くん!」
「え、あ、ありがとう・・ございます」
とても喜ばしい気持ちではない。しかし、苅田は虚ろに返事を返す。いままで頑張ってきたのに、自分の設計係としての経歴は終わりなのだろうかと、苅田は危惧した。
「わ、私はどうなってしまうんでしょうか?」
「あん? その本状に書いてある場所に行けばいい。いや、なに2年もすれば帰れるさ」
実際は、支那などに出征していった兵達は、徴兵満期になっても除隊できないことが多かった。戦闘拡大で、兵員が不足していたからだ。今までに徴兵が無かった、苅田のような年かさの社会人や、家の跡取りの長男まで徴発が回ってくるようになっていた。
「え、いえ、そうではなく。ここでの私の席はどう・・なるのかと。まさか、これでクビなんてことは?」
「そんなことあるもんか! 君が務め上げて帰ってきたら歓迎するとも!」
上司はニコニコして、苅田の不安を否定した。そして、励ましの言葉をつなげる。
「いいか、軍隊に入るってのは、男を磨くいい機会なんだ。陸軍でいい成績をあげれば、除隊時には下士官さ、伍長で帰ってこられる。そうすれば、君の素質の証明にもなるんだ」
「そ、そうですよね」
苅田は、悪いことばかりじゃないさ、と引きつった笑顔を見せた。上司は、再び苅田の肩をぽんと叩く。
「いいか、伍長で帰ってきたら、私は君を上に推薦できる。即、主任、いずれは係長も期待できるさ」
苅田はうなずいたものの、これからの不安の方が大きかった。