海軍と文江に対する失点
戦艦「日向」乗組員、水谷一等機関兵は呉の街を歩いていた。戦艦「日向」は、交戦状態になることもなく青島から呉に帰港している。
「正直、気がすすまんのう・・」
彼は、ある役目で後輩の木曽平吉の婚約者、木曽文江の下宿を探していた。教えられた住所から、彼はその場所を見つけた。
「ごめんください! どなたかいらっしゃいますか」
戸を開けて、中から若い女性が姿を見せた。
「失礼ですが、こちらに木曽文江さんはいらしゃいますか」
「はい、私ですが?」
セーラー服姿(水兵の正装)の水谷にやや怪訝そうな顔で彼女は、そう答えた。
(この人が文江さんかい。ちょっとカワイイ顔してるじゃないか。この子のために平吉はがんばっていたのか?)
水谷は、少し前に文江のことを『一度会いたかった』と言ったことがあった。正直、こんな形で会うことになるとは思っていなかったのだが。
「私、木曽平吉くんの同僚の水谷と申します。実は、木曽くんに頼まれてひとつ大事なご連絡が・・」
「え・・、あの人、なかなか船から降りてこないから、心配していたのですけど」
部屋にあげてもらった水谷は、文江に、平吉が船から降りない事情についての話を始める。
「実は、木曽くんは・・、支那の地で難病にかかりまして・・、現在は船の軍医の治療中であります。えー、つまり、軍の規定で兵の病で伝染のおそれがある場合、船を降りることができません・・」
「え! 平ちゃんは!・・いえ、彼は伝染病なんですか!? というか、支那へ行ってたんですか? 彼は・・彼は、大丈夫なんですか?」
水谷は文江に腕をつかまれた。水谷はしどろもどろになってしまう。
「え、ええ・・。「日向」の軍医は優秀ですから・・、ご心配なく・・」
「そ、それで・・、彼の病名は!?」
しもうた、それを問われるのは当然なのに、答えを用意しとらんかったわい。水谷は返答を探して沈黙した。
水谷がこのような事になったのには、話の時間を戻す必要がある。
時間は10日ほど前、戦艦「日向」が支那の青島を出航した後。
「お、木曽くん。青島の写真できてるぞ。お前のはこの海水浴場のやつな・・」
「あ、水谷さん、どうも。あの、ちょっと大事な話があるんですが・・」
昼の休憩中に、水谷が平吉に話しかけると、苦々しい顔で平吉から相談事らしい様子。
「な! なんだよ!? ま、まさか君、不始末でもやらかしたんかよ!?」
「じ、実は・・、当たっております!」
「ま、待て! 不始末の隠蔽は御免だぞ! そういうのは、隠すよりすぐ報告する方が傷口は小さいんだよ!」
「ま、待ってください! 話だけでも聞いてください」
人目のある場所を避けて、平吉は水谷に仔細を話した。
「そ、そりゃあ大変な不始末じゃが。これは上に報告しても・・、木曽くんの昇進に響くというか」
「話には聞いてましたが・・。そうなるんですか!?」
「ああ、俺ら召集された者ならば痛手でもないが・・。この場合、君の昇進は確実に見送られるな」
「そ、そんな・・・!」
下士官昇進を目指している志願兵の平吉にとっては、致命的ともいえる失点となるであろう。
「症状から判断するにおそらく”淋菌感染”だろう。この前の娼館でもらったな? というか、避妊具は上陸前にもらっただろうが!」
平吉の不始末とは、性病の感染である。海軍では、その点は厳しく戒められているのだ。
「申し訳ありません・・。一生の不覚でした」
「アホ! 俺に謝ってもしょうがないだろう。しかし、淋病だとすると早期は投薬だけで直るんだが・・」
「ええ、出航してしまった今では、薬を手に入れるには軍医の診断を受けないと」
「それは避けたいな・・、国内に戻ってから町医者に行くのがいいんだが。治療が遅れてしまうぞ」
「遅れるとまずいんですか!?」
不安そうに問う平吉に、なぜか性病に詳しい水谷は、痛そうな表情になって答える。
「悪化すると、尿道の膿をかき出すために脱脂綿を中に突っ込んで、ジュッポンジュッポンと・・。そんな治療を受けることになるな」
「ギャー!! それはご勘弁を!!」
「今すぐ軍医に診てもらうか、早くに国内で艦を降りられるのを期待して我慢するかだな」
「う~ん・・・」
何か方法は無いかと、平吉が慌てていると、誰かの声が聞こえた。
「いけませんよ!」
「あ、青田か、今の聞いてたのかよ」
偶然、聞いていたのか新兵の青田が現れた。
「志願兵の木曽さんが、性病の報告をためらうのもわかりますが・・。不始末を隠すのは軍人としてどうなんでしょう?」
「あ、青田まさか、俺の事、上に言ったりとかしないよな?」
青田は、平吉の言葉に呆れた表情になった。
「しませんよ! ていうか、隠すの前提なんですか?木曽さん」
「あ・・、いや・・」
「『言行に恥づる勿かりしか』って言葉知ってます?」
「あ、ああ、海軍兵学校の五省(五つある訓戒)だな。言行不一致な点はなかったか、という意味だ。フフ・・、後輩に軽蔑されてまで昇進してもしゃあないかな・・」
「木曽くん、それじゃあ・・」
「ええ、軍医さんに診てもらいます」
平吉の後姿を見送って、潔し!と水谷は思った。性病を隠すのどうのという話でなければ、感動もしたのにな、とも考えた。
戦艦「日向」は呉に帰港した。平吉の性病は海軍軍人としての経歴に汚点を残すことになり、病気完治まで上陸できないことになった。
「水谷さん、申し訳ありません。呉の下宿にいる文江が心配していると思うのです。どうか、心配せぬようにと・・」
「おお、まかせとけ。後輩のためだ、それくらいはまかせとけ」
水谷は喜んで、平吉から伝言を引き受けた。だが、元来が百姓であり、このような役目が上手く果たせるか不安があったのだが。
そして水谷は、下宿の文江に平吉が難病で治療中だと伝えた。だが、文江に病名を訊ねられて、しどろもどろになったのである。
「ええと、なんというか。私は医学には通じておりませんので、詳しくは、その・・」
「あの・・・。何を隠しているんですか? 不治の病ならばそれで、おっしゃってくれてかまいません。五体がバラバラな状態であれ、私は彼を見捨てたりはしません」
水谷は、文江にまっすぐな目で見つめられ、彼女に対し感服の感情が沸いた。そして、ウソをつきに来たようなものな自分を恥じた。すると、文江は猜疑の目に変わって。
「あの、貴方はなぜ目をそらせたり、苦笑いしたりなのでしょうか?」
「そ! そんなことしてませんよ」
「いいです、私自身が鎮守府にでも出向いて、事情を聞きますんで。どうか、お引取りを・・」
「ま、待ってください! 失礼しました。正直にお話します」
その日の夕刻、戦艦「日向」。
「おお、木曽くん。文江さんに会って来たぞ。ちょっとキレイな人だったな。心配せぬようにちゃんと伝えてきたからな」
「あ、ありがとうございます水谷さん。それで、病気のことは・・・?」
「ああ、正直に言っておいたで」
「・・・いや、水谷さん・・・、正直にって・・・」