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青島(チンタオ)での半舷上陸

 平吉と文江が暗がりの中、布団で抱き合った、その時間の少し前。

 戦艦「日向」にて。水谷一等機関兵と、その同期の兵たちは上官に呼び出されて整列していた。皆は嬉々とした感情が表情に表れていた。

「あー、皆々は3年間良く海軍のために頑張ってくれた。あとは満期が来るまで海兵団の補充分隊で待機ということになるわけだが・・」

 徴兵で海軍に召集された者たちだ。海兵団での激しい訓練から始まり、きつい艦隊勤務。国へのご奉公とはいえ、志願兵のように好きでここに来たわけではない。つらい生活が実質、今日で終わると知り、兵たちは笑顔をこらえきれない。

「あー、今から呼ぶ者はここに残ってくれ、あとは下がってよい」

 上官は、数名の名をあげる。その中には水谷の名があった。

 まさか・・。水谷は、嫌な予感がした。その予感は、その予感だけは当たって欲しくなかった。残った者たちに紙きれが渡される。この紙きれが、水谷には不吉の象徴、具現に思えた。

 ゴクリ、と喉を鳴らして、水谷はその用紙を見た。それには「召集令状」と書かれていた。



「あー・・・痛ぇ・・、文江のヤロー、まさか全力で鉄拳制裁するとはよう・・」

 木曽平吉は、文江に殴られた頬をさすった。昨夜、文江と抱き合ったときに調子に乗って、彼女の胸を揉んだ。その結果、平吉はぶん殴られたのだ。

「せめて、ビンタだろうが!」

 近くの水兵が怪訝そうな顔で見る。平吉は、気まずそうに目を逸らした。

(痛い・・・、先輩たちの鉄拳より痛い)

 殴られた怒りもあるが、自分自身の軽率さと、彼女を怒らせたことへの後悔で心が痛い。

(『ウチを安く見るな!』って言われてしもうた。安く見てなんか・・、いや安く見てしもうたんか?)

 戦艦「日向」は、明日あさってにも出航するだろう。次に文江に会えるのはいつになるだろうか。その時、俺はなんて顔で会えばいいのか?

 そんな事を考えていると、「日向」へ向かうランチが岸に着いた。平吉は、仕事へ専念しなければと、考えを打ち切った。



 艦で朝食を済ませた平吉は、通路で後輩の青田に会った。

「あれぇ? 木曽さん、その顔、鉄拳制裁でももらったんですか?」

「あ、あぁ、まぁ」

「でも、昨日、おかに上陸するときは普通だったでしょう?」

「い、いいだろが!」

 女に殴られたとか悟られたくない、と平吉はごまかす。

 そこへ、ツカツカと先輩の水谷が歩いてきた。

「おい! 貴様、何をやっている!!」

 普段の水谷とは雰囲気が違う、ギラリとした目で怒っている。木曽、青田の両名は怒鳴られた理由がわからず、気をつけの姿勢になる。

「な、なにか? 水谷さん」

「貴様じゃない! 青田!貴様だよ、油で汚れた靴で通路を汚してるだろうが!」

「え! ああ!! も、申し訳ありません!」

 新米の青田が、うっかりというより、甘い考えの上で現場の機械油を通路にあげてしまったのだろう。平吉は青田がかわいそうになってきたので、間に入った。

「まぁまぁ、水谷さん。俺がしっかりと言っておきますので・・」

「木曽! 貴様もだよ! 普段から指導しとけばこんな事にはならないんだよ!」

「ハッ! 申し訳ありません!」

「貴様は後輩ができたんだ! いまでも三等兵気分じゃダメなんだよ!」

 平吉は、気をつけをして頭を下げた。水谷に叱られるのが初めてではないが、敬愛する先輩に完全否定されたと感じ、悲しかった。

 水谷が立ち去った後。緊張してしまった平吉は、普段とは違う水谷のことで言う。

「どうしちまったんだ・・、水谷さん。普段、あんな怒り方しないのに。”貴様”だとか、らしくないなぁ」

 もっとも、この時代の海軍では、”貴様”とは”お前”と似た言葉であり、気心の知れた間柄でも使う方言のようなものだ。

「どうも、水谷さん、再召集もらったみたいですよ。他にも古参が何人か。荒れるのも無理ないというか・・」

「な! なんだって!?」

 再召集ということは、実質徴兵延期ということか? 昨日、家族の元にやっと帰れると喜んでいた水谷のことを考えると、平吉はいたたまれなくなってきた。



 昼の休憩時間。平吉は再召集の噂の件について聞こうと、水谷のもとへ向かう。のだが、午前中に彼の気が立っていた、しかもそれに自分の不始末も絡んでいるので、やはり気まずい。

 水谷の姿が見えた。平吉が、少しためらっていると、水谷の方から話しかけてきた。

「おう! 木曽! 今度このフネが向かうのは青島チンタオなんだってな。お前ら、海外での上陸は初めてだろう?」

 意外というか存外というか、水谷は機嫌よく話しかけてきたので、平吉は拍子抜けしてしまった。

 青島とは現在の中国、山東省にある港湾都市である。日清戦争後、清朝時代にドイツが租借し、軍港として開発した。これが西欧風の町並みなど、現在に至る街の基礎となった。

 第一次大戦のときに、ドイツに宣戦布告した日本は青島を占領し、一度は支那に返還している。しかし、昭和12年、支那事変が起きると以前より青島を重要視していた日本軍部は青島占領の準備を始めた。そして、昭和13年(この物語の現時点)1月、航空母艦「龍驤」、巡洋艦「足柄」、軽巡洋艦「球磨」等60余りの艦艇が動き、海軍独断、そして陸軍抜きの単独行動で青島を占領した。海軍は青島に対し専有意識があったのであろう、埠頭はおろか街の重要な建築物を占拠し、後から来た陸軍と激しく対立したという

「え、ええ、上陸は楽しみですが・・。っていうか!、遊びに行くんじゃないんですよ!水谷さん」

 違いない!、と水谷はゲラゲラ笑った。

 平吉は、再召集のことで水谷が怒っていたり、しょげている様子がうかがえないので、逆に心配になった。噂、だったのか? 平吉は、思い切って水谷にそれをたずねたのだが。

「なんだ、君もそれ聞いたのかよ」

 水谷は、そう答えるとポケットから紙切れを机の上に投げた。その紙きれには、召集令状と書かれていた。

「見ての通りさ。3年マジメにやってたら・・とか、考えてたのがアダになっちまったかな」

「あ、あの。水谷さんは、どう・・思って」

 平吉の問い方はさすがにおかしすぎた、水谷はブスッとした表情になった。

「どうもこうもねぇよ。この紙きれは天皇陛下からのご命令に等しいんだろ? これが、渡されてしまったら、大富豪の跡取りだって逆らえねぇぜ」

「それは・・・」

 平吉には返す言葉もなかった。

 支那事変が始まってから、陸軍も海軍も徴兵満期の者や予備役を再召集するなど、増員のため人員確保したという。水谷もその犠牲になったといえる。

「そうだったんですか、再召集では水谷さんが荒れるのも無理ないです」

「は・・? 俺がいつ荒れたんだよ? 確かに脳から血が出そうなくらい、落ちこんでいるが・・」

 平吉は午前中に、水谷が大声を出したので、再召集の件でカッカきていたのだと思ったのだが。

「まーさーか、朝の”アレ”、俺がヤツ当たりしたと思ったのかよ!?」

「え!? い、いえ・・、そういうわけでは・・」

「間違ったこと言ってなかっただろうが!? これからは俺は一等機関兵なんだよ。後輩の指導がイヤでも回ってくるんだよ! 貴様だって二等兵になっただろうがよ!」

「は、はいっ!!」

 水谷は午前中の叱責のときのような、ギラギラした目になっていた。

「青田のアホが通路を掃除しなおしたの確認したよな?」

「あ・・・あの、アイツにはキレイに拭いとけって言っておいたので・・・・。確認してきます!!」

 もしも、青田がテキトーに処置していたら。もしも、上の人間がそれを見れば。平吉は、急に恐ろしくなってきた。

「だーから! 三等兵気分じゃダメだって言ったろうが! 自分の事だけやっても・・」

 例の床はキレイに掃除されていた。杞憂でした、ではない。反省点でいうと、多すぎる一件であった。青田の隣にいた自分が、不始末を気付けなかったこともある。これから自分が下士官になるのだとすれば、今の水谷よりも周りに気配りをしなければいけないのか。

 平吉は、自身がやはり半人前であり、先輩の水谷に教えられる事が多いのだと思った。それと、不謹慎ながらも、水谷が艦に残ったことを喜ばしくも感じた。



「しっかし、青島チンタオって想像以上に美しい街ですよねぇ」

 平吉ら、戦艦「日向」の乗組員は半舷上陸で青島の街にくりだしている。

「ああ、海軍が占領して一年もたってないから、なんか荒れているのかと考えていたがな」

 海軍が青島を占領した時には、大きな戦闘はなく、わずか一日で街の占拠が終了している。支那側の兵力が少なかったのではあるが。

 陸軍の小隊が行進しているのにすれ違う。

「おおっと、陸軍だわ。アイツら、俺ら海軍を嫌ってるからなぁ・・。目ぇ合わせないようにしないと・・」

「俺ら下っ端が喧嘩したくなくても、陸と海の上層部が縄張り争いなんかやってるからな」

 青島を海軍の拠点としたい上層部が、陸軍を出し抜く形で街を占拠した事だけではなく、陸軍と海軍は対立関係にあったといえる。両者を統帥する大本営なる機関もあったのだが、大戦を通じ陸海軍の連携はうまくいっていなかった。

「おお、ここが小魚山か、ここからの町並みの景色がいいらしいんだわ」

 なぁに、日本の街と比べればいかほどのものか、などと言いながら、皆は山というほどもない高台に上がる。

「こ! こりゃあ・・・。確かに美しいわぁ」

 高台から見下ろす町には、赤い屋根の洋館が並び、自分たちが支那にいるとは思えないほど美しかった。

「これらは、ドイツの植民地じゃった頃のモノなんじゃろうなぁ」

「ああ、大したもんじゃあ」

「この街って、大きさだけで言ったら呉より大きいんじゃ?」

 言われると、ま、まぁな、と皆思うのだが無言だ。皆、母港の呉に対する誇りがある。

「あ、ほれ! あっち見てみい! 海水浴場があるで!」

 皆々、眼下の景色を見て無邪気に喜んだ。借りてきた写真機を持ってきた者がいて、周りの景色を撮る。

「現像したら、写真はみんなに配っちゃるけぇな」

 ありがたいわぁ、と最高の土産になるであろうソレに皆々は喜んだ。

 当時、写真は高価でもあり、姿を残す貴重なものでもある。写真に対する思い入れは、現代人のソレとは違う。

 日本が、実質的な戦争状態に入っており、軍人の自分たちはそれが理由でこの街にいる。しかし、彼らは一時でも戦いを忘れて楽しんだ。



 「日向」の乗組員の一行は、娼館の前にいた。夕方まで艦に戻ればいいので、時間はある。旅の思い出に、皆々ここで楽しもうということになったのだが。

「私は遠慮しておきますからね」

 新兵の青田が呆れた顔をして、そう言った。

 なんだよ、ここで男になれやと言う者がいたのだが。

「い、いやですよ! 私は、こういう場所は好きじゃないというか、不潔というか・・」

「まぁ、無理にとは言わん。水谷さんも行くのなら私も行きます」

 平吉は完全に入る気満々であった。

「木曽さん! アナタ婚約者がいるでしょうが!! 何でこんな場所に・・」

 そんな平吉を、若干17歳で純朴な青田がたしなめた。

 こんな言い方されると、まるでふしだらな男のような・・。俺は呉で、その婚約者の胸触ったら殴られたのだ、悶々としてんだよ、と平吉は思った。

「べ、別にいいだろが、言うとくけど、俺は童貞ってわけじゃないぞ。お前と違って」

 古参の数名と、水谷、平吉は娼館に入り、他の人間は別行動ということになった。

「俺らは童貞坊主も連れて天主教会でも見に行くかよ。もしかしたら中も見れるかもしれんで」



「し、しかし、こういう場所に来るのは久々というか、わくわくしてきやがったぜ」

 平吉は部屋に案内され、娼婦が来るしばしの時を待った。自分が軽率だったとはいえ、身体を触ったことで殴った文江。その文江より、少しでもいい女に当たれば言うことは無かった。

 男ばかりの艦隊勤務。水兵が訪れた港町で女遊びをしてもバチは当たらない。

 部屋の戸が開き、娼婦が入ってくる。平吉は、緊張と期待で喉を鳴らした。



 娼館で遊んだ面々は、「日向」への帰途へ。皆々足取りが重い。

「木曽くん、楽しめた?」

 水谷が、オンナの感想を聞いてきた。平吉は少し不味い顔をして。

「い、いえ、楽しめんかった・・です。オンナの顔を隠さなきゃデキんかったです」

「あっはっは! てか、我慢してヤッたんだね。俺についたは少しオバさんだったけどね」

「・・オバさん!?」

「オバさん・・って言っても、・・三十代後半くらいの?」

 水谷は思い出すような顔をして、そう答えた。

「そりゃ、オバさんです!」

 平吉にそう言われると、オンナにゃ三十代なりの味があるんだよ、と齢二十三の水谷は反論した。

 古参の一等兵が割って入るように言う。

「まぁ、娼館なんかの遊びで楽しめる確率なんて、2割から3割だからな」

 平吉には悶々とした後悔が残った半舷上陸であった。

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