軍旗を守っての撤退
1943年(昭和18年)1月上旬 呉。
呉の下士卒集会所で木曽平吉はくつろいでいた。くつろいでいたというよりも、やさぐれていたも同然な状態であった。
空母「瑞鶴」から仕事の不始末で降ろされてから、やりがいや自己の存在価値を見失った状態である。
「瑞鶴」での航海中にはあれほど望んだ内地に自分は立っているのに、休日の集会所でも他人を避けるようにしている。
(なんなんだろうな・・)
木曽が溜め息をつくと、近くで遊んでいた海軍兵らが話をしているのが聞こえる。
「11月でのソロモン海の海戦で我が海軍が大勝利あげてな、連合艦隊長官が陸軍に『海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし』と言ったわけよ」
「ああ、聞いた。そしたら『陸軍に余剰兵力なし』とか言ったらしいじゃねえか」
「なんだなんだ、陸軍の連中はよ! 陸と海で縄張り争いの感覚がまだ抜けねえのかよ!」
このやりとりを聞いていた木曽にも陸軍に対する憤りが起きた。
(あの戦いで瑞鶴や翔鶴の航空兵、水兵が犠牲になったのがわからないのか!? こんな調子で戦争に勝利できると思っているのだろうか!)
木曽はもどかしい気分になったものの、自分は艦を降ろされて戦地にも出れない身分である。我が身の無力さを噛み潰した木曽は椅子に腰掛けて、目を閉じた。
その頃、ニューギニア島東部。
東部ニューギニアの北岸より上陸して、陸路ポートモレスビーを攻略するべく進軍を続けていた陸軍であるが、昨年の9月についに後退命令が出される。元々、補給能力に劣る日本軍であったが、陸路ニューギニア島を縦断してポートモレスビーを目指すには、補給路の建設が困難であったのだ。物資調達も負傷者の治療も攻略したポートモレスビーで行うという計画で、負傷者を後送せず前へ前へと送っていた有様である。
海軍が一度の海戦に勝利したとはいっても、この地の空を守るはずの零戦の姿は無かった。制空権は失われていたのである。
陸軍は負傷者を連れて、追撃するアメリカ・オーストラリア軍に頑強に抵抗しつつ後退した。海軍も駆逐艦輸送で、わずかな物資や陸戦隊を上陸させるなど支援を行う。しかし、東部ニューギニアに上陸した日本軍は1月にはついにニューギニア島北岸のブナ・ゴナ地区に追い詰められることになった。
歩兵第41連隊の士官、後藤中尉は心の中で繰言をつぶやいていた。
(なんでこんなことに、なんでこんなことに、なんでこんなことに・・)
後藤らがいる第41連隊は、ブナにあるギルワ陣地にこもって連合軍に抵抗をしていた。実際は弾も食料も尽きて逃げ続け、生を求めて行き着いた場所がこの陣地だった。連隊の多くの兵はマラリアなどの病気か栄養失調。戦えない兵は戦地病院と名づけられた何も無い場所に、ただ捨て置かれている。
陣地の中は水が溜まっており、そこで生活も睡眠もする。悪いと分かっていても他に場所が無いのだ。陣地の周囲を包囲している連合軍からは砲弾が次々に撃ち込まれている状況だった。
後藤は栄養失調で腫れてきた顔を虚ろに撫でた。伸び放題の髭が指にあたる。
「へっ、男前が台無しだわぁ・・」
そこへ部下が来て伝令をする。
「小隊長、連隊本部から、至急来るようにとのことです」
「わかった。何だろうな? 生き残った者で総攻撃だろうかなぁ。まともに武装してるヤツあんまり残ってないがな」
「撤退ですか?」
「そうだ、本部から撤退命令が下った」
「そ、そうですか」
後藤は安心の感情がやはり生まれた。陣地を包囲する敵の重包囲を抜けて行くわけであるから、死の確率が高い命令ではある。だが、生への望みの光が差したようなものだ。
「まずは連隊の軍旗を守るのが第一だからな、軍旗護衛中隊を中心に必ず守りぬかねば」
後藤は上官である中隊長の言葉に憤った。
「このような状況になっても旗が一番大事なのですか? 私は今まで、飢えや病で死にかかった部下を多く見捨ててきました。最後に守るのが旗なのですか?」
「何を言うかバカ者! 軍旗は連隊の象徴だろうが! 敵に奪われることがあれば、我々は死しても詫びることなどできんのだ!」
「そうですが! 傷病兵の方が・・、ここまで戦ってくれた兵らの方が・・」
「命令では『在隊患者ハ極力連行スベシ』とある」
「そうでしたか」
後藤はホッと安心したのだが、上官は否定する。
「これは現状を知らぬ本部が書いたものだ。動けない患者は残していく」
「・・そんな」
ギルワ陣地に近い海岸。傷病者を海岸より撤退させるために大発(輸送ボート)が来るというので、生き残った兵らが海岸に集まってきていた。
「北島兵長、来るですかねぇ、大発」
「さぁなぁ」
後藤の小隊にいた北島と本田はこの海岸に来ていた。第41連隊が後退を始めてから、連隊本部からははぐれていた彼らである。
「そういえば苅田はどうしたですかねぇ~」
「さぁなぁ~。生きていてもアイツなら生真面目に小隊長にくっついてんだろ。小隊長に気に入られてたからな」
「だとしたら、あのギルワ陣地の中で・・飢え死にでもしてますかね」
海岸に大発が到着する。待っていた兵らは、本来運ぶべき傷病者を捨て置くように大発に乗り込んだ。この船に乗らないということは、すなわちここで死ぬということだから遠慮はしなかった。
撤退する兵を乗せた大発は海岸を離れた。
「やっと、やっと地獄から離れられる~。国に帰れるかもしれないんですよ~北島さん」
しかし、その北島からは返事は無かった。
「北島さん?」
本田が北島の肩を揺さぶったが、北島は安心したかのように死んでいた。安らかな死に顔だった。
後藤中尉の部下の苅田新一は、栄養失調とマラリアの高熱で完全に動けなくなった。思うのは食い物のことばかりなのだが、たまに、企業の設計係の新人として働いていた頃の夢を見てしまう。
徴兵されて陸軍に入り、その時はやりがいを見つけた気になったものだった。がんばって良い成績をあげて上等兵選抜者になったりもした。それらは思い返せば、やるせないような空しいような気分にしかならない。
(国にかえりてぇ~)
心で切にそう思った苅田の耳に銃声が聞こえた。陣地の中だから銃声ならば聞きなれているのだが、違和感があった。
後藤中尉がゆらりと現れた。何やら雰囲気がおかしい。見れば彼は右手に拳銃を持っていた。後藤は拳銃は使いたくないと、それに弾は込めてないはずだったのだが。
ドンッ!
後藤は、近くで倒れていた部下の頭を拳銃で撃って射殺したのだ。
「これであと一発か。お前ら部下を見捨てて俺だけ行くわけにはいかないものな。だけど、これでもう終わりにすっかなぁ」
後藤は拳銃をこめかみに当てた。今にも自決しかかっている後藤を見かねて苅田は叫んだ。
「小隊長ぉ! いけません!!」
後藤はゆっくりと振り返った。体力を失って座り込んでいる苅田の叫びが聞こえ、マレー作戦以来つれそった従卒の顔を見ると力なく笑った。
「あ~、なんだ苅田か。そんなところにいたのかよ」
苅田も後藤に合わせて笑ってみせたのだが。後藤は拳銃をじっと見てつぶやく。
「あと一発しか撃てないんだけど、俺の分はまぁいらないか」
後藤は拳銃を苅田に向けた。
(ああ!!)
苅田は制止の声をあげるヒマも無かった。
ドンッ!
苅田は額を撃たれて即死した。後藤は倒れた苅田の姿を見て、やりとげたように笑って地面に倒れこんだ。
第41連隊本部は、軍旗を守りつつ連合軍の包囲を抜けてギルワ陣地を撤退することに成功した。撤退した者には小銃はおろか銃剣も持たぬ丸腰の兵が多かったようだ。
大局的に見ると、ポートモレスビー作戦の失敗により日本軍の攻勢は完全に停止し、連合軍の物量の前に守勢に回ることになった。ポートモレスビー作戦に参加した兵の約70%が戦死したという。