表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/40

空母「瑞鶴」との別れ

 1942年(昭和17年)11月上旬 トラック泊地 空母「瑞鶴」。

「兵曹長! そろそろ内地に帰れるって本当ですか!?」

「おいおい、誰からそんな話聞いたんだよ」

「いや、誰からというか、噂になってるもんで」

 空母「瑞鶴」機関科の下士官、木曽平吉は休憩中に上官へそんなことをたずねたのだが、はぐらかされたような形になった。

「そんな話が確定情報であっても言ったりしない。それくらい知ってるだろうが」

「はっ、そのとおりであります」

「まあ、僚艦の「翔鶴」が要修理だからな。我が艦も一緒に内地に・・、と期待する気持ちもわかるがな」

 戦争が始まってから、正確には開戦前の昨年(昭和16年)11月から空母「瑞鶴」は外洋に出ている期間の方が長い。ハワイ沖へ、珊瑚海へ、ソロモン海へ、内地にはたまに、わずかな間しか戻れないのだ。「瑞鶴」の乗組員らは呉の街に戻る日を待ち望んでいた。

「まあ、内地に戻るにせよ、また哨戒任務に出るにせよ、俺らは出港準備を万全にするだけだよ」

「はっ、そのとおりですね」

 木曽の上官の兵曹長はこの時期にしてはめずらしく正装をしていた。腰には海軍隼士官のシンボルである軍刀が下げられている。

「ん、なに見てんだ? この軍刀かよ」

「いえ・・、まあ興味がありまして」

「無理もねえ、手に取ってみろよ」

 兵曹長はホレ、という感じで腰から外した軍刀を平吉に渡した。木曽はその、何かに使用するというわけでもない短剣を神妙な顔で手に取って眺めた。短剣には柄と鞘には装飾が施されており、その真鍮色が木曽には黄金の輝きにも感じられた。木曽ら勉強中の下士官にとっては、兵曹長、そしてさらに上の特務士官の地位は目標であり、この軍刀はその象徴なのだ。

「これをもらうにはよ、早い奴でも入隊から15年かかる。俺は18年もかかったがな」

 その兵曹長は日焼けした顔をほころばせた。笑うと目じりには皺ができて、現場で苦労を重ねた中年男という感じの風貌であった。特務士官、略して特さんと呼ばれて兵らに慕われている兵あがりの士官らもそのような年齢になっている。

 兵曹長は機嫌が良かったのか、自分の苦労話を後輩の木曽に聞かせた。大変なのは、海軍下士官の服役義務の6年を終えたときに、成績優秀と判定されなければ除隊となることだと言った。

「俺の場合、高等練習生時代は座学(講義形式の学科)を必死にやった。なにしろ軍事学を理解するための普通学がやたら多いからな。睡眠時間を削ってよ・・」

 木曽は、その話を聞くとやや目まいがしてきた。つめこみ教育はつらいものがあったが、それは必要なものだ。

「まぁ、なんだ、俺の頃と違って今は戦争中だ。今の海軍には前線から兵を引き抜いて、学校に送る余裕も無いんだわ。かわりに昇進が早くなってるのは知ってるだろう? 貴様の場合、現場の仕事をしっかりこなすことが重要だよ」

 木曽平吉はうなずいた。仕事が無く、成り行きで海軍に入ったふしもあるが、兵曹長のように長く海軍職業軍人を務めたいと願った。呉の街で待つ妻のためにも、それは必要なことだった。

 航空兵のように戦果で成績を示せない機関科の自分が今できることは、日々の任務を着実にこなすこと・・。そう、木曽が思ったときに、部屋に下士官が飛び込んできた。

「木曽! 何やってんだ、給油中の重油が漏れ出してんぞ!!! 今日は、お前んとこが担当だろうが!?」

「な! なんだって~~~~~!!!」

 木曽は部屋を飛び出して、現場に向けて飛ぶように駆けていった。



 放心状態で現場にへたりこむ木曽だった。現場の周りには「瑞鶴」の乗組員が集まってきて海面を覗きこんでいる。

「こ、これは、どういう・・!?」

 すでに重油の供給は止められていたが、どれだけの時間もれていたか分からない重油が海面に浮かんで黒い溜まりを作っていた。

「どういう、じゃないぞ、責任者のお前が分からないで済むことかよ!」

「す、すいません」

 木曽は周りを見渡した、この場にいるはずの自分の部下を探したのだ。しかし、ひとりもいない様子だった。

「そ、そうだ! 中島だ! 中島がいるはずなんだ。中島は・・、中島はどこだよ」

 木曽は部下の中島を探したが、丁度その中島が駆け込んできた。

「な、中島!」

「木曽! いや、木曽兵曹! これはどういう!?」

「これはどういう、じゃなくて! お前が責任者だったろ?」

「い・・いえ、私は向井に・・向井に任せていたので。向井は、向井はどこですか?」

 木曽はポカーン、という表情になった。なんで半人前どころか、ヨソの班のド新人の向井に”任せていた”ということになっているのか?、と思った。

「やれやれ、責任のなすりあいかよ・・・」

 周りの人だかりから、そんなつぶやきが木曽の耳に届いてきた。



 この重油漏洩事故は、日本にとって貴重な重油を無駄にしたことで、さすがに”内々で済ませる”というわけにもいかなかった。だが現場の不注意による過失事故ということで、大きな処分はなかった。問題が起きても小さく済ませる、軍隊というのは案外そういう面があるのだ。

 しかし、責任者の木曽平吉は、空母「瑞鶴」機関科での任を解かれるという形で責任を取らされることになった。



 11月9日、空母「瑞鶴」は呉に帰投した。7月に帰港して以来であるから4ヶ月もたっていないのだが、大きな戦闘に2度臨んだ乗組員らには果てしない時間にも感じられたかもしれない。

 半舷上陸がようやく許されて、乗組員らは嬉々として上陸の準備をしていた。その活気あふれる中で木曽平吉は自分の荷物を黙々とまとめていた。

 黒い詰襟の正装に身を包んだ木曽の元に、同僚の城島が現れた。

「あ、城島さん。今回は、・・なんというか」

フネ、降ろされるそうだな。なんというか、済まなかった」

 城島は頭を下げた。

「よしてくださいよ、城島さん。あなたは何も・・」

「い、いや、俺の部下が、アホの向井が。あの日、アイツを貸したり呼びつけたりしなければ・・」

「いえ、行き違いってあるじゃないですか。現場じゃよくあること、そうでしょ城島さん」

 そう言う木曽の目は虚ろだった。やはり、今回の処分はかつてない程こたえている。先ほどの言葉は、自分自身にかけた慰めでもあるだろうか。

「それじゃあ、先任の城島さんにはお世話になりました。あとの現場はよろしくお願いしますね」

 木曽は城島に頭を下げて歩いていった。


 木曽は通路で事業服の向井に出会った。そういえば、コイツも現場に残る日なのか、と木曽は思った。

 向井は木曽に深々と頭を下げて謝った。

「もうしわけありませんでしたっ!」

「おいおい、あの事故は解決ずみだよ。頭上げろよ。俺が艦降りることで終了だ」

「いえ! 私を! 気の済むまで殴ってください!」

 木曽は向井の肩を持って彼の顔を上げさせた。向井は鉄拳が来るのを覚悟してこわばった。

「もういい」

 木曽は力なく笑っていた。

「聞いた。俺んとこの中島と、あと城島さんにもボコボコにされたんだろ。君まだ顔が腫れてるぜ、そんな君をさらに殴れるかよ。あと、部下の不始末を背負うのも上官の務めなんだよ」

 木曽は向井の肩を叩いて、呉の港行きのランチへと向う。

「これから瑞鶴はまた戦いへ向かうのだろう。君は死ぬなよ」

 木曽は肩ごしに、向井に言葉をかけた。役立たずで足ひっぱるだけのド新人でも死ぬことはない、と木曽は思った。



(あ~、性病がバレた時どころじゃない失態だわ~。俺これからどうなるんだよ~。兵曹長への道は・・?)

 ランチに乗った木曽の目に、待ちに待ったはずの呉の港の姿が見える。ランチの乗客で憂鬱になっていたのは木曽平吉ひとりくらいであったろう。

 そして、木曽平吉が空母「瑞鶴」に再び乗組むことはなかった。未来からの視点で見れば、それは幸運なことであったのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ