海軍は極めてキツく、極めて薄給
平吉ら新兵は、今日は短艇橈漕教練のために海上の短艇の上にいた。
(うぶぅっ・・、俺がこんなに船酔いに弱いとは、思わんかったわい・・)
平吉は、船酔いで強烈な吐き気をもよおしながら、オールを漕ぎ続けている。オールを漕ぐだけ、と聞くと楽そうでもあるが、オール自体が相当の重量物なのであり、それを海水の抵抗に負けず漕ぎ続ける。尻の皮がむけ手に豆を作るなど、海軍の訓練では難行のひとつに挙げられた。
士官養成校である海軍兵学校でも、カッター訓練に弥山登り、と生徒達の体力が試される大変な試練であった。しかし、軍艦では洋上での連絡にカッターを必要とするので、海軍の兵がカッターを扱えないのでは話にならない。
(だ、だめじゃ! もうアカン)
疲労よりも船酔いでふらついた平吉が、カッターの舷に手をかけてしまう。
「おいッ!! 木曽っ! 貴様、舷に手をかけるなと教えただろうがっ!」
(げっ!! しまった!!)
教班長の小島一等兵曹の容赦ない鉄拳が、平吉の頬に飛ぶ。カッターの舷に手をかければ、船同士の接触があった場合に指が潰れてしまう。
海軍ではこうして、危険については特に厳しく新兵達に叩き込まれていく。新兵達は心身ともに海の男に鍛えられていくのだ。体罰の是非はともかくとして・・。
小島兵曹の短艇の横に、他の教班の短艇が並ぶ。こうなると、教班同士の面子をかけた勝負が始まる。海軍の勝負事に敗北は許されないのだ。
「いよぉうし!! ウチの班が一番じゃっちゅうのを見せてやるんじゃあ!! 貴様ら!気合入れて漕げやァ!」
その晩、就寝前にいつものようにというか、平吉らは廊下に整列させられる。
小島兵曹の手には、木製の太い棒が握られている。
(今日は、バッタ打ちかよ・・・)
海軍の体罰で有名なものに、バッタ打ちがある。いわゆる尻バットであるが。樫の木の太棒、野球のバット、係留ロープ、鉄パイプ、何でも使われたようである。
「今日の訓練は、さすがにたるみが過ぎとんじゃぁないか? お前ら? ちょっと俺も甘やかし過ぎたようじゃのう」
小島兵曹は、『海軍精神注入棒』と達筆で書かれた太棒を肩の上に持ち上げながら、そう言った。
小島兵曹は、昼のカッター訓練での競争でヨソの教班に敗れたことで、かなり機嫌が悪い。小島兵曹の命で、新兵らは廊下の壁に手をついて、尻を突き出す。
小島兵曹は、太棒を使って新兵の尻を順番に殴っていった。太棒が振るわれるたびに鈍い音が響き、新兵達は歯を食いしばって痛みに耐える。
一応、これでも手加減はしている。というか、全力で殴るとマズい。肛門が裂けたり、死亡事故になったりしたこともあったようだ。
平吉は、このようにバッタ打ちをされた夜は、尻が腫れ上がってうつ伏せで寝れなかった。そんな夜は、なぜ自分はこんな組織に入ったのだろう、という疑問が沸いてしまうのだった。
日曜日、今日は海兵団は休みで訓練も無い。平吉らは、兵舎で身体を休めていた。
「あー、ちくしょー・・。尻がまだイテ~、明日もまたバッタ打ちされたらかなわんで~」
そう、ぼやく平吉に、同輩の木村章吉は。
「いや、俺はどうせなら、一発ポカリとやってもらった方がいいがな。訓練で締まらないという点では俺らに非があるわけだしな」
「そう言うか・・。だが、お前も昨夜は仰向けで寝られなかったんじゃないか? ケツ腫れてんだろ」
「いや、まぁそうなんだが・・・」
章吉は章吉で、尻が痛くて座るときも椅子に深く腰掛けられない。浅く座ったり、何気に立っていたりしている。
「木曽平吉はいるか? 面会だぞぉ」
海兵団の職員が、平吉に面会の呼び出しを告げてきた。
「俺に・・、いえ私に面会ですか。誰なのでしょう?」
「なんでも、同居の方だとか。若い娘さんでしたが」
これは、文江以外にない。わざわざ会いに来たのか。
章吉が、怪訝そうな顔をしている。そういえば章吉には、妙な関係の同居人のことは話してない。戻ったら、こいつには説明しておくか、と平吉は思った。
許可を得て、海兵団の門を出ると、そこに文江がいた。白い洋服を着て、おしゃれをしている。
平吉は、文江とひと月も別れていたわけでもないのに、ひどく久しぶりに会うような気がした。そんな平吉を見て、文江は言う。
「どーした? 疲れきった顔してさ。なんか、下宿に帰ってこないから様子を見にきたんよ」
「そりゃあ・・、疲れもするって。いや、言うまい。それと、帰れるわけない。俺ら、四等兵のうちは休みでも自由外出はないんだ」
「ありゃー、そうなんね」
文江は、ニコニコと笑っていた。平吉は、文江の着ている真新しい洋服が目についたので、からかいついでに言う。
「良い洋服着てるじゃないか。俺がシゴかれて稼いだ金で買ったんかよ?」
「これは、私が縫うたんよ。ずっと内職通しで、だいぶ裁縫が上手くなったし。布も内職の余りなんよ」
そう言われた平吉は自分を恥じた。自分が辛いからと、文江の苦労を考えていなかったのだ。
「すまん!!」
「え? アンタ何で謝ってるのん?」
頭を下げて謝る平吉に、文江は不思議そうに答えた。
「私が縫ったものを、良い服だってほめてくれたんじゃないの? 買ったものだと思うくらいにねぇ」
「いや、俺が稼いだ金で買った、と言った事に怒ったんじゃないのかと・・、思ってよ」
「冗談に怒るほど、ウチは子供じゃないよね。アンタの一ヶ月の給金いくら?」
平吉はそれを言われて、口ごもったが、正直に言う。
「六円五十銭・・です」
当時の一円が、だいたい現在の千円の価値である。当時が皆、低賃金だったいうのを考えても極めて薄給だ。ただし、衣食は官持ちなのだが。
「使い込むとかより、私が稼いでもやっとでしょうが。さっきの言葉は冗談とわかってるから、怒るわけないよ」
文江から怒ってない、と言われても平吉は下げた頭を上げられなかった。
「私は、今でも田舎には帰りたくないし、アンタに頼るつもりで上京した。けどねぇ・・」
平吉が文江を見ると、笑っていた。
「私はねぇ、アンタが海軍で何かを目指しているのを支えてあげたいのよ。幼馴染としてね。まぁ、許婚とか、婚約者だとかは別としてね。とにかく、期待はしているというのを忘れずにね」
「ああ・・・」
平吉らの教班は、修練のひとつである相撲をしていた。
土俵の上で勝負をして、勝った側が残り、負けた側が入れ替わる。これは大相撲の稽古であるような方式だが。海軍の場合は違う。
負けた側が残り、勝った側が入れ替わる。これが海軍式だ。勝たない限り休めない。疲労がたまり、勝つのが厳しくなっても入れ替われない。
土俵下の新兵らがささやいている。
「おい、木曽の奴・・、負けこんでるな。7回くらい連敗しているが」
「ああ、ちと憐れだが、手は抜けねぇ・・」
土俵の上では、平吉が連敗をくらって土俵から降りられない状態になっていた。とっくに息が上がっていて、ラチが上がらない。
平吉の次の相手が土俵に上がってくる。木村章吉である。この教班の中で、というか海兵団の同期でも成績のいい章吉は、たくましい身体をしていた。
平吉が章吉を見れば、悪いが負けられねぇという顔をしていた。
(俺だって負けられるかよっ!)
勝負の合図がかかり、両者は土俵の上で組み合う。体格に勝る章吉が、疲労の残る平吉をじりじりと押していく。
平吉の頭の中に、文江の顔が浮かんだ。少々利己的なところもある文江が、自分に『支えてあげたい』、『期待している』と言ったのだ。こんな所で止まれないと思った。
平吉は章吉のわきに腕を差し、まわしをつかむ。そして、全体重をかけて、章吉の身体をひねり倒した。
両者ともに倒れこんだ。が、軍配は平吉に上がった。平吉が、不利を覆して連敗を脱したことで、周りから歓声が上がる。
「やるじゃねぇかよ! 平吉さん」
そう言った章吉に、平吉は不敵に笑って返す。
「俺はこんな所で止まれねぇんだよ。俺は三年以内に下士官に上がってやるんだからな」
「ドアホ! それじゃ志が低すぎるわぁ!」
平吉は章吉に志が低いと返され、おや?と思ったが。章吉は。
「俺はな、海軍で航空兵になってやるんじゃあ!」
当時、航空兵と呼ばれた飛行機乗りには、そう簡単になれるものではなかった。航空兵の養成に航空機一機分の費用がかかったと聞けば納得もいく。
「そ、そりゃあ・・・、負けたわ」
平吉が、そう言うと周りから、どっと笑いが上がった。
「馬鹿野郎ッ! 訓練中に笑うな!」
行司役をしていた小島教班長は怒鳴った。だいたいお前らカスが下士官になるのには、早くても四年半はかかるんだぞ阿呆が、と思った。
訓練の相撲を終えて、小島教班長が土俵を降りると、上官である分隊長が見にきていた。分隊長は笑って言う。
「なかなか士気が高いんじゃないかな? 君の班は」
「はっ、恐縮です」
「それに見込みがあるのもいるね」
「はっ、確かに木村章吉君は、優秀と言ってもさしつかえありません」
「うん、それと木曽君・・だったかな。師範学校出は使い道があるからな。しっかり育ててくれよ、小島教班長」
「はっ、了解です」
小島としては教班の面々を評価されればうれしくないはずがない。小島は、今日は体罰をカンベンしてやるかなと考えた。