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呉の女房

 1942年(昭和17年)5月21日。航空母艦「瑞鶴」は呉に帰港した。僚艦である航空母艦「翔鶴」は修理を急ぐ必要があり、この4日前には呉に入っている。

 大本営発表では、珊瑚海海戦は日本側の大勝であり、空母「翔鶴」は損害軽微とされていた。しかし、実際は450kg爆弾3発の命中により、飛行甲板には破孔が空き、前部の錨が二つともに失われているために、港内のブイに係留しているという有様である。係留作業に当たった作業員らは、「翔鶴」が受けた損害の大きさ、そしてMO機動部隊が戦った戦闘の激しさを初めてしった。



 空母「瑞鶴」の乗員らは1月に出航して以来の母港であり、家族のある者は4ヶ月ぶりの再会をはたした。機関科の下士官、木曽平吉もその一人である。

「おう、お前、今帰ったで」

「ああ、アンタか。おかえり」

 平吉は妻の文江の下宿に顔を出すと、妻は手短に答えて内職の作業を続けている。

「おいおい、せっかく旦那が遠地から帰ってきたのにそれだけかよ。久しぶりなんだぜ、なんか・・」

 平吉は苦笑いをしながら呆れる。

「ああ、・・うん。ちゃんと生きて帰ってきたんじゃな」

「・・・いや、もうええで」

 平吉は、久しぶりの夫婦再会に妙な手持ち無沙汰を感じた。

「あのさぁ」

 文江は不機嫌そうな声になっていた。

「な、何じゃ」

「海軍が休みでも、ウチは休みじゃないんよ。悪いけどそこに座ってるとジャマ! しばらく表を歩いてきなさいよ」



 平吉は久しぶりに帰ってみれば、妻に下宿から叩き出されてしまった。そして、仕方が無くぶらぶらしている。

「・・ったく何だよアイツは! しばらくっていつまでだよ! 俺は夕方までに艦に戻らにゃいかんというのに・・」

 平吉は、こうやって母港に帰る日を楽しみに艦隊勤務をこなしてきたのだ。妻から邪魔者扱いでは憤まんもある。ついでに言うと、男ばかりの閉鎖空間で性的な欲求も溜まってるのだった。妻の文江に手を出せば、この前のように殴られるのが確実。我ながら情けない旦那だぜ、と平吉は思った。

 いっそ女でも買ってやろうかと思ったとき、平吉は若い女性から声をかけられた。

「あのう、失礼します」

 見れば、ハタチかそこらに見える綺麗な女性であった。地味な洋服を着ていたが、背が高く妙な色気があった。今の平吉は、女に飢えた状態であるから、なおさらそう見えた。

「もしかして、木曽平吉さんですか?」

「は、はい! そうですが、何か?」

 この女性は自分の名前を知っている? 平吉はその理由が思い至らず、ドギマギしながらも変な期待で胸が膨らんだ。

「あ、私、中沢ハルといいます。奥様の文江さんとは友達同士というか」

「ああ、そういえば・・」

 平吉は、言われて思い出した。この女性、中沢ハルとは一度ここで会っている。あれは、文江と結婚する前のこと、同年兵の木村章吉と再会して、そのとき彼と一緒にいた女性だった。

「ここでは何ですので、中でお話しませんか?」

「え、ええ」

 ハルは、自宅の中で話そうと言った。同年兵の木村のつれあいという事がなければ、平吉はこれをお誘いだと勘違いしていたかもしれない。しかし、妙な動悸が止まらない平吉であった。



「お茶をお出ししますので、座ってお待ちになってください」

 男にとって女所帯というのは落ち着かない。既婚者にあるまじきことだが、ハルが出してくれたお茶をすごくおいしいと感じた平吉であった。

(そういや、文江のアホはお茶なんか出さねえよな)

 ちゃぶ台を挟んで平吉の向かいに座ったハルは話を切り出す。

「お聞きしたいのは、彼、木村章吉さんのことです」

 やっぱりそれか、と平吉は思った。彼女が自分に何か尋ねるといえばそれしかない。その木村ら航空兵は日本近海で「瑞鶴」を飛び立ち、今は九州のどこかで訓練中のはずだ。

「ああ、ご主人でしたら。今、九州にいるはずですよ。もっとも詳細については秘匿なんですが・・」

 平吉は、木村のことを”ご主人”と呼んだときに、ハルがビクッと引きつった表情になったことに気がついた。少しそれを不思議に思ったのだったが。

 平吉は、木村について話せるだけのことは話した。もっとも同年兵とはいえ、機関兵と航空兵。住む世界が違いすぎて、多くは語れないのだあったが。

「ご主人とは、つい最近会ってゆっくり話ができたんですわ」

 平吉がそう言うと、またハルが引きつった表情になった。どうも”ご主人”がマズいらしい。彼女は怒りに近い感情を抑えているようでもあった。

「・・あの」

「彼とは・・、まだ結婚してないんですよ。いえ、”まだ”って言うのもおかしいんですけどね」

 平吉は、ここでしまった!、と思った。そういえば、彼女は『中沢ハル』と名乗ったので、苗字から気付くべきだった。以前に会ったときに木村が彼女のことを女房、女房、と言ってたような気がしたのだが。

「彼とは・・、初めて会ったときから、私は遊び相手でしかないんですよ」

「ええと、・・失礼しました」

 平吉は恐縮して小さくなるしかない。

「彼ったら、九州に本妻でもいるんでしょう。ソッチの方が長いですから! コッチには手紙ひとつ寄こさないし!」

 ハルは怒ったのか顔が赤くなっていた。そして、『5月にしては暑いですね』と言い、胸のボタンを外し、バタバタとうちわで顔をあおいだ。

 その風でハルの洋服の胸元がめくれ、彼女の乳房が乳首まで見えてしまった。

「・・・!!!!?!?」

 元はと言えば、悶々としていた平吉がその部分を見つめていたのだが。平吉は興奮で鼻血が出そうなのをこらえた。しかし、今見た光景は脳裏に焼きついてしまった。

(文江の貧相な胸とはちごうて、ハルさん美しいモノを・・。いや何を考えとるんじゃ俺は!)

 ハルは、そんな平吉の気持ちには気付かず、平静を装って向き直った。

「取り乱してごめんなさい。でも話を聞いて、彼が撃墜されて死んだりしてないことがわかりました。私はそれで幸せなんです」

 その言葉が全て本当なのか、ハルのひきつった笑顔からそう取れない平吉だった。



 一方、九州の鹿屋基地では木村章吉ら五航戦の航空兵が連日の猛訓練を重ねていた。いわゆる月月火水木金金である。

 珊瑚海での戦いで犠牲の出た航空機搭乗員を補充して、再編成するのだ。

「あっれ~、木村先輩。前とは違う女性の写真つけてますね~」

 木村の後輩である、零戦搭乗員の本郷が木村の愛機の操縦席を見てそう言った。

「ああ、前の写真は古い愛機と共に海へ棄てられちまったのよ」

「ふ~ん、この人もなんかキレイな人ですよね。木村さんってばモテますよね色々と」

「お前だって、パイロットなんだから町を歩いてれば女が寄ってこようがよ」

「え!?、いえ、自分は恋は本気でしたいんですよ。ひとりの女性と一生。で、この写真の人なんて名前なんですか?」

 木村は本郷が写真の女を物欲しそうに見ているような気がした。

「だめだ!こいつはやらんぞ! こいつは・・そう、ハルだ。苗字は忘れちまった。こいつは俺の”呉の女房”じゃ」

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