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別れの水杯

 1941年(昭和16年)11月23日。航空母艦6隻を中核とする大艦隊は、エトロフ島のヒトカップ湾に停泊していた。この湾にいた航空母艦は、「赤城」、「加賀」、「蒼竜」、「飛竜」、「瑞鶴」、「翔鶴」である。当時の日本海軍の大型の空母(後に正規空母と呼ばれる)全てが、ヒトカップ湾という僻地に秘密裏に集合したわけであった。

 航空母艦「瑞鶴」の機関部。現場にいた、機関下士官の木曽平吉は、交代の時間が近い頃に命令を伝えられた。

「会議室に班の全員が集合ですか? 何の連絡ですか?」

「俺にもわからんよ、行けばわかるだろう? そのための集合だよ。貴様も外を見たろう? この湾に集結した艦隊の行動に関することだろうがな」

 平吉は、集合の理由は行けばわかる、との、先輩のもっともな返答にうなずいた。それでもやはり聞いてしまったのは、妙な胸騒ぎがあったからだ。

 平吉は会議室に向かうと、自分達の班だけでなく、機関部の他の班の面々も集められている様子だった。会議室に呼ばれた全員が集合すると、皆の前に立った分隊長が口を開いた。

「心して聞け。ここに集まった皆々は、我が艦の行動計画について全く知らないことだろう。当然のことだ、それを知っていたのは艦長、飛行隊長など極一部だったからだ。今後、我が艦は、いや我が機動部隊は作戦行動に移ることになる」

 会議室の下士官兵らはどよめいた。動揺する者が多く、互いに顔を見合わせる。

「静粛にしろ!」

 分隊長の注意が飛び、皆々は気をつけの姿勢になる。

「では、その行動計画はどのようなものなのですか?」

 部下である兵曹長の一人が質問をする。興味本位というより、計画の内容を知らなければ今後の行動ができないからだ。

「残念だが、それを今ここで話すわけにはいかないな。許してくれ。だが、その時が来ればわかるだろう」

 そう分隊長は答えた。

 下士官兵らは気をつけの姿勢のまま冷や汗を流した。これでは、今後のことを何も話してないのと同じような気がした。しかし、不安だけは煽られたようなものだった。

「まぁ・・・、私も”これ”を準備するように言われていて、薄々感づいておったがな」

 分隊長は、部下に杯をめいめいに配らせるように命じた。下士官兵らの前に、白く小さな杯がひとつずつ置かれていく。

(これは・・・、まさか水杯ってヤツかいや!?)

 水杯を交わすという行いは、危険な出陣など、死で別れが予想される場合などにあった。これを行うということは、死を覚悟せよということなのだろうか?、と平吉は思った。

 杯が配り終えると、今度はそれに水が注がれていく。

 兵らは、普段から『それで、いざという時に命が捨てられるか!』などと豪語したりして気を保ったりするものだが。上の人間は何を思ってこのように、兵らに水杯を与えたりするような事をするのか? 戦闘に必要な士気など上がろうはずがない。


バリン・・!!


 杯が割れる音がして、平吉はそちらを向いた。

「すっ、すいません! た、大変な粗相をしてしまいました」

 兵の一人が、水を注がれるときに杯を落として割ってしまったようだ。顔を青くして謝っているその兵に見覚えがある。先日、現場で平吉の邪魔になっていた、新米兵の向井とかいう志願兵だった。

「・・・無理もねえよ」

 平吉は、そうつぶやいた。5年から海軍に勤めている自分でさえ、『死の覚悟』など出来上がってなどいない。ましてや、初めて軍艦に乗組んだであろう少年が、杯を落とすほど震えて当然だった。

「おいおい、割ったことなんか気にすんな。ただの儀式だよ、どうせクイッとやったあとに叩き割るんだよ」

 向井の傍らの男が、そう言うのが聞こえてきた。彼は先日、現場で向井の面倒を見ていた先輩なのであろう。向井も、自分のように先輩に育てられ一人前の下士官になるのか、それとも艦の腹の中で死ぬのか。


 平吉の持つ杯にも水が注がれた。注がれた水の水面を見ると、ぷるぷると震えているのがわかった。

(ちぇ~、俺も恐れてんだな。なんだかんだで)

 なんやかんやで色々あって、やっとこ結婚したばかりの文江のことを、ここで思い出す。死の別れなどまっぴらだった。皆で杯を叩き割る瞬間、それを念じた平吉だった。


「機関科の俺らにゃあ、あんなちょっぴりの水じゃ足らねえよなあ?」

 儀式を終え、居住区に戻る際に、平吉が部下に冗談を飛ばすと、『俺はサイダーが良かったス』と返す者がいて、皆は笑った。

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