機動部隊ヒトカップ湾へ集結
昭和16年 10月。広島県 呉。
木曽平吉、文江夫妻の住まいである、呉の下宿。たとえ結婚していようとも、海軍軍人である平吉の住まいは航空母艦「瑞鶴」であり、所定の上陸日でないと共に夜を過ごせない身である。平吉は、昨夜は下宿にて夫婦水入らずの時間を過ごした。
「ああ、文江。もう起きてたんか。なんか、やっぱ10月ともなると朝が寒いわ」
平吉は、朝目を覚まして、先に起きて布団から抜け出していた妻の文江に声をかけた。
「おはよう・・。あ、あのさ、昨夜のことなんだけど」
「なんじゃ?」
文江はやや、うらめしそうな顔をしている。
「寝るときに・・、その、真っ裸にされるのは・・、時期的につらいというか。これからもっと寒くなるしぃ」
「ええっ!? 寒かった、か? アレ」
昨夜の、夫婦の営みを思い出した。昨夜は、というか昨夜も、というか、夢中になってしまい、衣服を脱がしたときに、文江は寒さがこたえたかもしれない。
「寒いって!当たり前じゃろ! まぁ、なんというか、アツくなってきたら平気になってくるんじゃけど」
その妻の言葉を聞いて、平吉の顔に笑みが浮かぶ。
「な、何、いやらしい笑いをしてるんじゃ!?」
「いやぁ・・、お前ちゃんとアツくなれてたんだなって。やっぱ男としてはうれしくってよ」
「な! そ、それは!!」
文江は、顔を紅くしている。平吉は、そんな文江を抱きしめた。
「わかった、もう文江のことを寒がらせたりはしないよ。寒いときも、あっためて、もっとアツくしてやる」
文江は、夫の腕に抱かれて、恥ずかしそうに何かつぶやいていた。平吉は、妻が喜んでいると、都合よく解釈した。
「もっとも、俺が次に下宿に戻ってくるのは、いつになるかわからん。予定がわかっても、立場上、家族に連絡できんのじゃ。一人にさせることになると思うけど・・、すまんな」
「な・・、何を言うとるん? アンタは海軍に入ってから、だいたいそんな感じじゃろ? ウチはいつも一人じゃったよ」
実際そうなのだが、夫婦になってからは、お互いが一緒にいる時間というものが違って見える。
平吉の機関兵としての立場上、航空母艦「瑞鶴」の出航が近いことはわかっていた。そして、この頃、対米英戦争の開戦が近いという噂は、国民の間にも広まっていた。
「瑞鶴」の次の出航が、戦闘行動になるかもしれない。自分が「瑞鶴」の腹の中で戦死するかもしれないという、恐れに似た覚悟の気持ちはあったのだが、平吉はそれを文江には言わなかった。
昭和16年 10月7日に出航した航空母艦「瑞鶴」は大分沖に移動した。平吉と文江の新婚夫婦は、その後の「瑞鶴」の行動により、年が変わるまで一度も会わないことになってしまう。
それから航空母艦「瑞鶴」は、大分沖にて航空機搭乗員の着艦訓練を行うことになる。そこで、木曽平吉は、「瑞鶴」の搭乗員となった木村章吉と再会した。のではあるが、お互いに忙しい身であり、顔が合えば敬礼しあうだけではあった。
昭和16年 11月中旬。別府湾。九州の各基地で訓練を重ねていた飛行隊は、母艦である「瑞鶴」に収容されており、艦は抜錨(艦の出発)の準備に入っていた。
ここは、「瑞鶴」の機関部。燃えるような高温にたぎっていた。戦艦「日向」でも、どこでも同じなのだが重油を燃やしてボイラーを沸かしている。重油が燃えているボイラーの側に機関兵たちがいるわけで、熱いのは当たり前なのだ。
事業服を着ている木曽平吉は熱さに苦しんでいた。5年から機関部で働いてはいても、この熱さは苦しい。真夏の熱帯夜が、まったく苦にならない程度には身体が慣れたのではあるが。下士官である平吉が部下に指図していると、背中に誰かがぶつかった。
見れば、見知らぬ18歳ほどの少年である。知らないということは、自分の部下ではないし新顔だというのはわかった。
「どうしたんだ、お前は。どこの配置なんだ?」
「ハッ、すいません。実は良くわからなくて・・」
その新顔に良く聞けば、平吉の受け持ちとは違う所の三等機関兵だった。
「お前の配置は、城島兵曹のとこだよ」
「あ、あの、それはどこなんでしょう?」
「だから、第3ボイラーのとこだよ」
「ええ・・と、それはどこですか?」
平吉は、その三等兵と話をしたが、さっぱり要領を得ない。イライラがつのった平吉は大声を出した。
「いいから、お前はどっかいけよ! ジャマなんだよシンサン(新三等兵)が!!」
平吉に怒鳴られた、三等兵は首をすくめた。そこへ、その三等兵の先輩らしき者があわててやってきた。
「おいおい、向井こんなとこにいたんかよ。お前は、居住区に戻って雑用でもしてろ!」
その向井三等兵は、頭を下げて出て行った。平吉は、『まったく・・』と憤ってそれを見送った。しかし、彼の先輩がかける声が聞こえてくる。
「ホラ、こんなに熱いんだから兵曹ドノもイライラしてんだよ。気にすんな」
それを聞いて、自分も似たような経験をしたことを思い出した。戦艦「日向」の機関部でジャマ者扱いされて、先輩の水谷になぐさめられたことがある。
(あ~~~。俺は悪い先輩になっちまってたわ・・)
5年も軍艦に勤めたせいか、シンサンを見下してジャマ者扱いした先輩と、自分が同じになっていた。航空母艦「瑞鶴」は9月末に竣工したばかりで、要領も知らないシンサンがこの現場で右も左もわからないのは当然だった。
そういえば、あの向井とかいうの、歳は若かったしやっぱ志願兵なのか?と、平吉は思った。平吉は、向井三等兵とかつての自分を重ね合わせて考えてしまう。軍の志願兵になる理由は人それぞれだが、彼も農家の次男、三男が行き場を求めたといったクチなのだろうか?
それから間もなく抜錨した航空母艦「瑞鶴」は、商船航路を避けるように迂回して北へと向かった。そして、11月下旬に北海道の更に北、エトロフ島のヒトカップ湾に到着した。
元々、艦の行き先を知らされていなかった平吉ら兵達は、ヒトカップ湾の寒さと雪景色、そして、湾内に集結した三十数隻の機動部隊に驚くことになる。
「遠くて艦名まではわからんけど、航空母艦が6、金剛型戦艦2・・、他に巡洋艦2に駆逐艦多数ってところか。戦艦「日向」は来とらんようじゃけど。あの給油船が気になるのう、なんなんじゃ?」
洋上に見える給油船を随行させるとしたら、大量の重油を費やす遠洋までの航海? それもかつてない程の距離が考えられる。
「例えば・・、太平洋のど真ん中・・!?」
目を細めてヒトカップ湾内の大艦隊を眺めていた平吉は、言いようもない不安に包まれた。これから行われるものがただの大規模演習ならええんじゃけど、というのが本音だった。