開戦の年の夜は緊張状態にあり
1940年(昭和15年)9月27日 日本は、ドイツ、イタリアと日独伊三国条約を締結。アメリカはこれに対する措置として、資源の対日禁輸を行うことになる。
1941年(昭和16年)7月28日 資源の供給先を求めた日本は、南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐を決定。
同年 8月1日 アメリカ、イギリスは、これに対する制裁措置として、対日石油全面禁輸を決定。
これにより、日米開戦は事実上決定的となった。しかし、前年の1940年(昭和15年)の頃には日本は、航空母艦「瑞鶴」、「翔鶴」の竣工を急がせるなど、対米英戦の準備を着々と進めており、両者の戦争を回避するなんらかの方法が存在したのであろうか、との疑問はある。
昭和16年9月 フランス領インドシナ。陸軍歩兵第41連隊の、苅田進一らの部隊は外地のインドシナに進駐していた。
「しっかし、インドシナってぇとこは、やっぱ暑いわなぁ。南国の台湾よりも熱いんじゃけえ、かなわんわぁ」
「ああ、だが支那に送られるよりは良かったんじゃないか? ドンパチに参加せんでもええし」
当時、ドイツ占領下にあったフランスは、植民地であるインドシナへの日本軍の進駐を曲りなりにも受け入れた。そういう事情で、遠国の米英との緊張は別として平和ではある。
「コラッ! 初年兵! しっかり肩を揉まんか!」
古参の一等兵らは、後輩の二等兵らに肩を揉ませており、ウサ晴らしに難癖をつけては殴ったりしていた。
「申し訳ありません、本田一等兵殿・・」
かつて、苅田進一が初年兵の頃にイジメをしていた本田一等兵らは、相手を変えて新米イビリをしていた。
(アイツら、またやっとるわ・・。初年兵が首でもくくったら俺が責任問われるじゃ!)
かたわらの北島兵長は我慢をしていたが、場の責任者として止めようとした。しかし、そこへ苅田がやってきた。
「本田さん!」
本田一等兵は、かつて自分達がイジメていた苅田上等兵の出現に、ややうろたえた。上等兵候補者から昇進した苅田は、今は自分よりも階級が上であったからだ。
「な、なんだよ!? 苅田・・上等兵殿? ヘヘッ」
「本田さん、肩なら私が揉みます」
「ヘッ・・!?」
後輩の上官から叱責をもらうかと思っていた本田は驚いた。とまどう本田にかまわず、苅田は本田の肩を揉みはじめた。本田は気まずいこと、この上ない。そばでは、北島兵長がポカンとした顔で見ている。
苅田は、微笑んで言う。
「私は小隊長から教わりました。星の数より飯の数だと。私のような若輩者は、いざ実戦となると経験不足であります。先輩のような古参の方々からは、教わることは山ほどございます。よろしくご指導のほどを」
「・・・お、おう! 任せとけ!しっかり教えてやるよ」
苅田の意外な言葉に唖然としていた本田だったが、乗せられたのか苦笑いでそう答えた。
「苅田上等兵殿! 肩もみ代わります!俺らにやらせてください!」
頬を紅くした初年兵らは頭を下げ、そう自ら申し出た。
「お! そう言ってくれるか、頼むぞ。それでは先輩、こいつらまだまだ下働きしかできませんが、私の初めての後輩なんで。よろしく面倒を見てあげてつかあさい」
苅田に頭を下げられた本田ら古参兵は、上機嫌そうにうなずいた。
このやり取りを見ていた北島兵長は、『苅田もやるなあ』と感心した。入隊して数年もしないうちに男として成長した苅田のことを称えた。
木村章吉ら第五航空戦隊、通称、五航戦は瀬戸内海で航空母艦「翔鶴」で、発着艦訓練を行っていた。
訓練中の零式艦上戦闘機(通称、零戦)の編隊は、機体尾部の着艦フックを母艦上に張られた着艦ワイヤーに引っ掛け、次々に「翔鶴」に着艦していた。
全長242mの長さがある「翔鶴」の飛行甲板でも、陸上の飛行場より短いのだ。艦上で機体を停止させるために、着艦フックを艦上のワイヤーに引っ掛けることが要求される着艦は、非常に高度な操縦技術が要求される。この時点で、飛行訓練の初期段階であった五航戦の飛行兵らには、着艦訓練はまさに命がけであった。
「いや~。毎回、毎回、着艦は緊張するわな!」
「ああ、もし、引っ掛けるのに失敗したら・・・。一応艦上のネットで止めることにはなってるんだが」
五航戦のパイロットは、訓練後にそうぼやいていた。
当時はしばしば、着艦の失敗で事故が発生したという。
「それが余裕なのは、木村先輩くらいだよな」
「そうなのか!? 木村君が!?」
その飛行兵は、かたわらの木村三等兵曹を見た。
「あ、うんまあ。俺は、支那事変で空母「赤城」の戦隊にいたから。着艦には慣れてる。もっともそんときは九六式艦戦だったけど」
「なんだよ! それなら、一航戦の方にいてもおかしくないじゃないか!」
この言葉に別の同僚が突っ込む。
「オイオイ、それじゃ俺ら五航戦が、選ばれし素人集団みたいじゃねえかよ。まあ、一航戦のベテラン勢には経験で劣ってるんだが・・」
経験豊富な航空母艦「赤城」、「加賀」の、一航戦のパイロットが、五航戦の面々を『妾の子』と称していることは噂で聞こえてきていたのだ。当然、当人らは面白くない。
同僚のその疑問に対して木村は。
「ん? ああ、そうだな。俺自身が「赤城」に残っていてもおかしくない。でも俺にはブランクがあるんだ」
木村は、太ももを指差した。
「俺は、支那で敵機から撃たれて墜落・・、いや不時着かな。その時に、敵機の銃弾が脚を貫通してしばらく飛べなかったんだ。なんとか、こうして飛行兵に戻れたがな。いわば、病み上がりだよ」
「撃墜成績があるのも、この中じゃ木村先輩だけだよね」
「ばかやろう、まだ3機だよ。自分が撃墜されたのを引くと自慢にもならねえよ」
実戦経験の無い同僚は、木村の話を聞いて息を飲んだ。若干21歳の木村に似つかない、戦場体験だった。一航戦の面々もこのような者達ばかりなのだろうか、と思った。
「ところで、一航戦の艦攻隊は鹿児島湾で攻撃訓練してるんだってよ」
「そうなんか? なんでまた、そんな狭い所でよ?」
「噂じゃ、『真珠湾』に似ているんだとよ。あくまで、噂な」
『真珠湾』の聞き慣れない言葉を聞いて飛行兵らは、緊張した。日本にそのような地名は無い。彼らは、アメリカ領のハワイ島に存在する、巨大な海軍基地を思い浮かべた。月月火水木金金と、歌に評される猛訓練の日々の目的を考えると、大国との戦争を予感する彼らであった。
広島県 呉。何かと忙しく、休みのない木曽平吉は短い休暇を使って、文江の両親の了解を得て、待ち望んだ文江との結納を迎えた。
といっても、金も時間も余裕などなく、写真館で記念写真を撮るくらいなもので、形式的といってしまえばそうである。しかし、平吉は5年越しの、紆余曲折あり失点ありの恋の成就であり、幸せであった。
下宿では、平吉と文江の、夫婦として始めての夜を迎えようとしていた。
「あ~、文江・・さん。いや・・ゴホン、文江・・」
「いきなり呼び捨て!?」
「あ・・・、すまん」
「いや・・、かまわんよぉ」
今までと何も変わりないようで、やはり夫婦となると緊張もする。互いのやり取りも、ぎこちない。
「すまんな、式らしい式もなくて」
「そんな余裕がどこに・・!!」
「新婚旅行とかできたら良かったんだが」
「だーから、そんなお大尽のような余裕は無いっての」
部屋の中には、布団がひとつだけ敷いてある。先に、平吉の方は入ってるのだが、文江はなかなか入ろうとしない。
「・・・そろそろ、寝ようか。文江」
「・・・う」
平吉は招くように、文江へ床に入るよう促した。普段どおりの寝間着を着た文江は、緊張を隠すようにして平吉と同じ布団に入った。平吉が電灯を消すと部屋は暗くなった。文江の表情が見えなくなったが、息づかいで彼女のこわばりがわかる。
平吉は、腕で文江の小さな肩に回して抱きしめた。
「ひゃっ・・!!」
文江が悲鳴を上げたので、思わず平吉は手の力を緩めた。
「ん・・、平気・・。大丈夫、多分」
文江はこわばったまま、そう答える。目が慣れず、まだ彼女の表情は見えない。しかし、声は妙に艶かしく感じる。このような夜を過ごすのは、青島へ向かう前の夜以来か。あのときは、平吉は調子に乗って、文江の胸まで触って思いっきり殴られた。
文江の方は、自身の緊張をほぐすために言葉をつなげていた。
「身体はちゃんと、銭湯で洗ってきた・・から。ウチは、こう・・いうことは、良くわからん。だから、平ちゃんに、・・まかせる」
平吉は、その言葉に興奮して、文江に口づけをする。
「ふっ・・、ん・・・」
文江は目を閉じて、平吉の口づけを受け入れた。が、しばらくもしないうちに、平吉の手は文江の胸をまさぐってくる。
「ふうっ!? ばっ!! やめッ!! んー!!!」
平吉は、数年前の中途半端で終わった夜這いの続きをするかのように、文江へ荒々しく愛撫をはじめた。
文江は、口の中までねぶられて、胸は寝間着のすそから直接触られている。
「ぶはっ! ちょっ!? やめっ!! まかせるとは言ったけど、何してもいいって言ってないやん!!」
「ええ・・と」
平吉は手を止めた。が、その手は文江の帯を解きかけていた。
「・・でも」
文江は平吉の訴えるような目を見た。文江はしばしためらったが。
「わかった、本当にまかせる」
平吉は嬉々として、文江の帯を解いた。文江は、思わず両手で顔を隠した。
翌朝。平吉が目を覚ますと、布団の中に人肌のぬくもり。布団の中のすぐ側に文江がいるのを確認して、なにより安心した。文江にそっと腕を伸ばすと、その文江は目を覚ましていた。
「なーんか、汚された気分ー・・」
そう言って、うらめしそうな目で見てくる。
文江の着衣は乱れた様子もなく、平吉の知らぬ間に衣服を整えたのだろう。そういう所も可愛らしい。
「夫婦って、こんなというかあんな事するもんなん?」
文江は昨夜のことで問いかけてくる。昨夜の行為を喜んでいる様子でもないが。平吉は返答を考えた。
「ええと、する・・と思うで」
文江は、ややしかめっ面をしてたが。
「ん、慣れるように・・する」
平吉は、そんな文江の頭を撫でた。平吉は文江のことを、何がなんでも守ろうと心に誓った。夫として、軍人として。