陸軍歩兵第41連隊
広島県 福山。そこに陸軍歩兵第41連隊の本部があり、苅田進一はそこで寝食し、一番下っ端の二等兵、別名初年兵としてつらい日々を送っていた。
激しい訓練に加えて、新米に課せられた雑用、そして何かあればすぐ体罰。それらの所は、木曽平吉らの海軍と変わりなかった。そして、つらい日課が終わっても、初年兵を悩ませるもうひとつの事情があった。先輩である上級兵によるイジメである。
「ミーン、ミンミンミン。ミーン、ミンミンミン・・・」
進一は、先輩の一等兵らから、セミの鳴き声をやらされていた。
「あ~、蝉はもういいよ、飽きた飽きた! よぅし、次は犬の真似やれや! ちゃんと四つんばいになるんだよ!」
ここで、我慢ができなくなった進一は、キッと先輩をにらみつけた。その先輩は、進一のその態度に憤った。
「なんだ? 文句あんのか?」
「申し訳ありません、これは私に対するイジメなのでしょうか?」
「ああ!? そぉ~うだよ、イジメだよ。わかってんじゃねぇかよ」
そのやり取りを苦々しい表情で、北島兵長は聞いていた。彼はこの兵の大部屋の古参にして最上級であった。北島は、このようなイジメ問題に対しては快くは思っていなかったが、干渉はしてなかった。
彼ら、イジメに加わっている一等兵らにも”うさ”が溜まっているのだ、本来ならば2年で除隊なのだが、日支事変が起きてからというもの除隊即日再召集が当たり前。過去に除隊した予備役兵らも、赤紙で召集される始末。希望が見えてこない状況だったのだ。
「違うな。俺たちはお前を鍛えてやってるんだよ」
進一に、別の一等兵が、うすら笑ってそう言った。
「お前、メガネかけてやがるだろ? 今まで、そんな近視の人間なんか、陸軍の兵士にはいなかったんだよ。大学出のお兄ちゃんがよ! そんなモヤシを最前線に出る前に鍛え上げてやるってのが、先輩らの務めってもんだよ」
「おお! そうだそうだ! お前のことを鍛えてやってんだよ! ありがたく思えや」
先程、自分の行いをイジメだと言っていた一等兵も、都合よく同調する。
「オラ! さっさと、犬の真似せえよ!」
その一等兵は、進一の尻を蹴った。黙っていた北島兵長は、もう止めてやるかと動こうとしたその時。
「オイッ!! 何をやってんだ! 貴様らは!?」
怒鳴り声がして、大部屋に20代後半の士官が入ってきた。
「ハッ、小隊長! いえっ、な、何でもありません」
イジメの主はあわてて敬礼をする。その士官は、後藤中尉。陸軍士官学校出であり、進一らの小隊の隊長を務めていた。
「何でもないぃ? さっき、犬の真似せぇて、言うとったろうが。私刑は禁じておったのを忘れたのか」
「い、いえっ。申し訳ありません!」
進一は、突然現れた救いの主に、喜びと敬愛の念を抱いた。自分と年齢はあまり変わらない。しかし、陸軍では、士官の彼と自分では天と地のような身分の違いがある。その彼が、下っ端の兵のために来てくれたのだった。
「オイッ、北島兵長。貴様がここをまとめておるのだろう? 何をやっておるのだ?」
後藤中尉は、叱責の先を北島兵長に向けた。北島は、気まずそうに弁明をする。
「申し訳ありません。しかし、彼ら一等兵らも初年兵のときにはひどいイジメを受けておったのです。私もそうでした。後藤小隊長が着任するまでは、暴行まがいの事が行われておりました。私は、それを考えると・・」
実のところ、進一が動物の鳴き真似などをやらされていたのは、体罰禁止令の存在が裏にあった。
「なぁんだ? 暴行は禁止して、イジメを許可したわけではないぞ。私の元では、このような事は許さん!」
「ハッ、申し訳ありません」
北島は、ピッと頭を下げた。
「ええと、君は苅田進一だったかな。疲れているだろうが、少し私の仕事を手伝ってくれないか」
「はっ! はい!」
後藤中尉は部屋を出て行き、進一はそのあとを喜んでついて行った。
後藤中尉と進一が出て行ったあと、北島兵長はイジメの主の二人に言う。
「あー、まぁそういうことだ、俺の立場では今さっきのような事は以後認めないからな」
「は、・・・はい」
二人の一等兵は、しぶしぶうなずいた。北島兵長はその二人へ、効くであろうと思った諭しを入れる。
「それにな、苅田のやつが成績あげて上等兵になったらどうする? お前らの方が下になっちまうんだぞ。アイツ、中学校出で頭いいらしいし、あの通り上官に気に入られてるようだからな」
二人は、そりゃ困るよ、という感じで顔を見合わせた。
苅田進一は、後藤中尉の事務仕事を夜遅くまで手伝った。軍隊は案外、事務仕事が多くて大変なのだそうだ。進一は、後藤中尉から、私には君のような人間が必要だと言われた。
進一は、必要だと言われて、役割を与えられ、そのことを幸せに思った。進一は、この上官にだけは迷惑をかけられないなと、励みが沸いてきたのだった。
木村章吉は、神社の石段を駆け上がっていた。杖なしでは歩けなかった章吉も、今では軍務に戻れるかというほどまで回復していた。
「イタッ! まだ、ちょっと痛むな。くそったれっ!!」
とはいえ、銃弾が貫通した脚はやはり痛む。章吉は悪態をついたが、表情は晴れ晴れとしている。
「大丈夫ですか? あんまり無理は・・」
かたわらで見守っていた中沢ハルは、気遣わしそうに声をかけた。章吉は、それにやや呆れた調子で答える。
「どうしたんだ? 少し前まではオメェ、俺がボヤいただけで竹刀でぶっ叩いてきたじゃないかよ」
「ええと・・、それはぁ」
「そういや、今日は竹刀持ってきてないよな。忘れてきたんかよ?」
章吉のからかい言葉に、ハルは気まずそうに笑う。
「もう、必要ないでしょうが。アレはさ」
そう、今の章吉に竹刀など必要ないと、ハルはそう思った。そして、病院から退院までしているわけで、つきそいの私も、もう必要なくなったのだと思った。
「そろそろ、海軍に復帰しないといけないな。そろそろ原隊復帰を願い出て・・」
章吉は、現役復帰の頃合だと口にした。ハルは、章吉との別れの時が来たのだと理解した。元々、章吉の遊び相手の一人でしかなかったのは知っていた。未練を口にせず、快く見送ろうと思ったが。
「ところでオメェ・・、あ・・いや、ハルさん」
妙に改まった様子で、章吉が話す。ハルは、内心をかくすように笑顔をつくって答える。
「な、なんですか?」
「俺の傷が治ったからってさ、これでお別れってのは、それは無しにしてくれよ」
ハルは、予想してなかった章吉の言葉に戸惑った、が、うれしさがこみ上げてきた。
「そっ、それは当然のことでしょう? 私が・・、そんな、冷たい女だと思っちゃったん?」
「あー・・、いや、以前に俺がハルさんに、『顔も見たくねえ』とか言って、それで縁が切れかかって・・。不安だったんだよ、なんかよ。改めて謝る、すまんかった」
ハルは首を振った。
「でも、あなたは次の日に言ってくれた。『俺にはお前が必要だ』って」
そう、ハルは章吉のその言葉を忘れてしまっていた。ハルは、自分がつくづく愚かな女だと思った。しかし、当の章吉は。
「え? 俺そんなこと言ったっけ?」
ハルは、ピシッ・・と顔が引きつった。実際はこのようなものである。
神戸 川崎造船所。ここでは、民間の造船所でありながら、海軍の航空母艦「瑞鶴」の艤装が急ピッチで行われていた。
後世から見れば、「瑞鶴」の竣工が軍極秘で急がれたのは、対米英戦争の準備であろうと簡単に思いつく。しかし、その未来を知らない当時の者たちにとって、このような軍部の動きはどのように見られていただろうか? なんにせよ、一介の海軍兵でしかない木曽平吉にとっては、命令で受けた仕事であり、軍の思惑など知るべきものではない。
「いよぉし・・、決心がついたで」
決心というのは、艦の機関兵から、航空機機関への転向を願い出ることである。基礎とはいえ、機関術を術科学校で学んで資格もあると思った。一度、航空兵の道が失敗したが、別の形で航空機にかかわれたら、と思ったのだ。
上司の士官に相談しようと、その士官の姿を探していたが、彼の方から声をかけてきた。
「俺が・・、いえ、私が三等兵曹に内定ですか!!」
ついに目標であった、下士官への昇進の話である。平吉にとっては、うれしいなどというものではない。
「ああ、年が明けたらということになると思うが。君は優秀だからな、むしろ遅いほうだよ」
「いえ! とんでもないです! ありがとうございます!」
昭和11年の6月に海兵団に入隊し、それから数えて四年半。海軍への道を選んだのは、憧れもあったとはいえ、仕事が無かったからである。もっともこの時代には、農家の次男坊が家を出される形で、軍隊の下士官を目指すというのはよくあった話だ。
戦艦「日向」での機関兵生活。”かまたき”と別称されたそれは辛くもあり、水谷のような良き同僚との出会いもあった。そして呉で、短くない年月を辛抱してくれた文江のことも忘れてない。
「まぁ、それでこの「瑞鶴」の第一機関室の現場は木曽君がまかされることになると思う。この艤装中の艦の一番近い場所で見れるんだ。これ以上しっかり勉強できる機会は無いだろう。たのんだよ」
士官は、平吉の肩をぽんと叩いた。
(はっ・・・、ということは。やっぱり俺は、機関兵なのか・・・)
平吉の、長く選択を迷った航空機関への道は、あっけなく消失した。
約一年後、航空母艦「瑞鶴」は、かの真珠湾攻撃に参加することになる。このときの木曽平吉には、太平洋を舞台とした大戦争の始まりとなる作戦に、自分が参加することなど知るよしもない。




