航空母艦「瑞鶴」
呉 海軍病院。
木村章吉はベッドでゴロゴロしていた。溜め息を吐いたり、舌打ちをしたり、悶々とした様子でいた。
昨日、身内でもないにもかかわらず付き添ってくれていた女性、中沢ハルに大声を出してしまった。言い合いの内容はよく覚えていない、だが彼女に二度と来るなと言った事は、繰り返し思い出してしまう。
「あ~俺らしくねぇ・・。後悔してるわけじゃねぇからな・・、ったく」
寝返りをうった木村は、病室の入り口に、ハルが立っているのを見た。
「おめえっ・・!」
思わず、木村は喜びの声を出した、が、雰囲気的にきまずくならざるをえなかった。ハルは無表情で歩いてきて、ベッドの傍に座る。
「え~と、ハル・・・さん。昨日のことは、その、怒ってるか。だよな、その顔は」
「顔に出てますかね? 私」
木村は冷や汗が出てきた。ハルの無表情が怖くなってきた。
だが、こうしてハルが戻ってきてくれたことは、心底うれしかった。さすがに戻ってこないだろうと思ってもいた。とりあえず、木村は自分の失言については謝ろうと思った。
「あ~、昨日はその、言い過ぎた。忘れてくれよ?」
「忘れてくれよ、ですって?」
今度は、ハルは怒りで引きつった表情になった。『忘れてくれ』は余計だったか!と、木村は反省したが。ハルは、こめかみをピクピクさせながら、怒りを抑えるように軽く咳払いをすると。
「昨日は、私が間違っておりました」
木村は、ハルの意外な言葉に驚いた。
「違う! なぜお前が謝るんだ! 俺が悪かったんだよ、言う事を聞かなかった俺が・・」
木村は、男のプライドがあって、全面的謝罪はよそうなどとはじめは思っていたりしたのだが、今は素直に謝罪の言葉が出てきた。
「違いますよ、私は謝っているんではありません。『間違っていた』と言ってるんです」
「はあ?」
木村は、すぐには理解ができなかったが、ハルは確かに謝っているという表情ではない。
「私は、医師から、訓練には厳しく言うように言われていたんです。あなたが音を上げても、それを許したりしないように」
「な!、そうだったのか・・」
昨日、厳しく言われたときには、ハルらしくないと少し思ったりしたのだが、そうだったのかと木村は理解した。
「けれど、私は単にあなたを怒らせただけだった、正論を並べて怒りを煽って、帰ってしまえと言われたら本当に帰ってしまったんです、私は。『間違っていた』というのはそれです」
「何を言うんだ!」
木村はハルの手を取った、が、その手はハルに振り払われる。
「あなたは、なんで今日、歩行訓練をしてないんですか! 寝転がったままで!」
木村は、昨日には『明日続ける』と言ったことを思い出した。『これからやるつもりだった』などという言葉は飲み込むしかなかった。
「私は・・、あなたが今日、歩行訓練を続けていれば・・、このまま帰るつもりだったんです。あなたは、二度と私の顔を見たくないようですから!」
「待ってくれ! ハル、俺にはお前が必要なんだよ」
ハルは、涙目で怒りに震えていた。ハルは、今日にも及んで木村が怠けていたことに怒っていた。木村は、もう自分には何も言う資格などないのだと思えた。今日ほど自分のことを愚かだと思ったことはない。
ハルは、自分が持ってきた荷物の中から袋を取り出した。なにやら太い棒が入っているようであったが。
「あの、ハルさん、なんですかそれは?」
「海軍の兵曹長だった父が大事にしていたものです。私はこれを使って、あなたが歩けるまで・・、いいえ、空を飛べるまで厳しくします」
ハルが取り出した棒には、『海軍精神注入棒』と達筆で書かれていた。これは木村ら、海軍の兵が海兵団の頃からお世話になってきた体罰用バットである。
「・・って、オイッ、なんじゃそれは! 嫌だ、それはもう見たくもねぇ! 俺はもう下士官だぞ、それで打たれるのはカンベンだぜ!」
「私だってこんな物は振るいたくないよ。戦場の空に戻らなくて済むなら、片端の方がいいとも思った。でも、あなたは飛べないのはつらいって・・、また飛べるようになりたいって・・」
ハルはつらそうな、悲しい顔をしていた。木村は、ハルにこのような思いをさせたのが愚かな自分なのだと痛感させられた。そして、自分に釣りあわないほど、ハルはいい女なのだと思った。
「ああ、すまなかったな、ハル。俺は、口でどうこう言われるよりポカリとやってもらう方がいい性質だったからな。・・って、オイッ! 何を大上段に構えてる! それは頭を殴る物じゃねぇ!!」
結局、精神注入棒はダメージが大きすぎるということで、それは竹刀に変えられて、木村とハルの仲むつまじい歩行訓練は行われたという。
呉の木曽文江の下宿。今日は文江は、岡山の田舎から弟が遊びに来たので、呉の街を散策したところだ。
「いや~、呉って大きい街だよね。なにより海軍の街って感じだよね」
弟の藤二は、初めて見る呉に感心していた。文江にとっては、4年近く住んでいる慣れた街になっていたが。
「藤二も支那戦線に行っちゃうんか。ウチの人みたいに、職業軍人ならともかくさ、アンタみたいな甲種合格(徴兵検査合格)もせんような人間が次々に引っ張られる。今の日本は、どうなっとんじゃろね」
「どうせ俺は身長低いけえ、甲種合格なんかせんかったわい。というかチビなんは、姉ちゃんだってそうじゃんか。まあ、俺は運転免許あるから、輜重兵(補給担当)でトラック乗りにされるみたいじゃ。最前線には行かんじゃろな」
もっとも、望んで兵隊になるわけでない人間は、戦地での自分の扱いに、このような希望的観測をしたいものだが。
二人は、文江の下宿に帰り着く。郵便受けに手紙が一通入っていた。差出人の名は木曽平吉だった。
「あ・・・、あのアホから久々に手紙が来たで。呉から横須賀に行って半年以上じゃ。もう、帰ってきてもいい頃なんじゃけどねぇ」
藤二は、姉の顔を見ていたが、笑って言う。
「姉ちゃん、平吉さんから手紙が来ただけで、ずいぶんとうれしそうじゃないか。平吉さんとは縁を切ったって話じゃなかったけ? ・・その、不祥事が原因でよ」
平吉の性病感染の件は、身内が皆知るところとなった。話を知っている藤二は、言葉を濁して一件のことを尋ねたが。
「あの件は・・、私は言うてやったんよ。もう、互いに夫婦ゴッコのような、だらだらした関係は終わりにしようって。これからは、互いに依存しないってことでケジメを付けさせたんよ。アイツは、知らん間に腑抜けになってたんよ。下士官を目指すとか言いながら、これ以上ないような失点を犯すなやんて、ありえんわ。アイツの昇進のためにも、断ち切るものを断ち切らせたというか・・」
藤二は、少し首をかしげて。
「いや、つまり平吉さんのことは、縁を切ったってわけじゃないってこと? 兵吉さんのことを”ウチの人”とか呼んでたし・・」
「ハァ!? ウチがか? いつじゃ?」
「いや、”ウチの人は職業軍人”ってな感じで言うとったやんか」
「な!? それは! 間違えたんじゃろ? 知らん知らん! ウチというものがありながらッ、女を買って・・・! 女なら誰でもいいんか、あの浮気野郎!!」
そこまで言って、文江はハッ、としたように自分を取り戻し、咳払いをした。
藤二は、そんな姉を見て、『やっぱり半ば夫婦なんじゃ?』と、苦笑いをしたのだった。
二人は、部屋でくつろいで、今後の話をした。
「俺は、数ヶ月のうちに支那に送られると思う。だから、俺の連隊の本部へ会いに来てくれないか?」
「ええ? アンタ、ハタチにもなってまだ、お姉ちゃん子なんだから。今生の別れってわけでもないじゃろ?」
藤二としては、死地へ向かう身として頼んだことではあるが、お姉ちゃん子と言われ返答があいまいになってしまったことを残念に思った。
「・・・。ところで、平吉さんからの手紙読まないのかい?」
「ええ・・と、読むところだよぉ」
文江にとっては、恋しい男(?)からの手紙なので、弟の前で開くのは気が引けてたのだが。とりあえず、平吉からの手紙を開いた。
『今は、神戸にいる。当分こちらへ滞在することになる。いつ呉に帰るか、不明なり 木曽平吉』
こんだけ!? と、文江は思った。妙に、何も書いてない感がする手紙が届くのは今までになかった。横須賀の術科学校は終わる頃だと思っていたが、今はどうなっているのだろうか? 文江は、深読みをしてしまう。
(アイツ・・、神戸で女でもこさえてんじゃないじゃろな・・・??)
その頃、平吉は神戸の川崎造船所で働いていた。民間の造船所でありながら、ここで海軍の艦船を建造中であり、今は艤装中であった。平吉は、その艤装に携わる海軍の士官の手伝いをしていた。この艦は竣工(完成)に向けて急ピッチで作業が進められており、この艦の存在が軍極秘であった。そして、その理由、目的など、平吉ら下士官兵などには知るものではなかった。
(しっかし、あんな手紙を送って、文江から他所で女こさえてるとか疑われてるんじゃなかろうか)
平吉は、心の中でぼやいた。自分の仕事が軍極秘であり、検閲のある手紙によけいなことは書けなかったということで、あんな文になってしまったのだ。
「まあ、艦船こさえてるってのは間違ってないかな」
平吉は、来年(昭和16年)の夏頃竣工予定の、この艦を見渡した。全長が約220mの戦艦「日向」よりも、それがはるかに長いこの艦。それは全通甲板を持つ、航空母艦としての姿を整えつつある。
その艦はあとに、木曽平吉、そして木村章吉が乗組むことになる、航空母艦「瑞鶴」だった。