坂道の明日
僕の日常はお湯を沸かす事から始まる。母が忙しそうに化粧をする横で、インスタントの味噌汁に湯を注ぎ、テレビの前でそれをすする。歯を磨いて、着替えたら後は学校に行くだけだ。自転車に乗っていつもの坂道を一気に上り、平坦な道を走る。僕は光と影の間を風のように走って行ける。8時15分ギリギリかな?心の中でそうつぶやいて自転車をこぐ足に力をこめる。あの角を曲がると彼女に会えるのだ。「おはよう」笑顔で手を振る彼女、緑川裕子は僕と同じ高校一年で、一緒に学校に行く事が多い。小学校からの幼馴染で、家も近所なのだ。特に親しい仲でもないけれど、彼女といると落ち着くと僕は感じている。僕がいい天気だねと言ったら彼女は買い物に行った話をし、僕がテレビの話をするとお菓子の話をする。結局のところ、彼女は僕の話を全く聞いてなくてまともな会話をした事がないけど、僕は彼女といると楽しいのだ。そんな彼女がいつも真剣に僕に聞いてくることがあった。「陽ちゃんは元気?」陽ちゃんっていうのは僕の弟の陽一ことだけど、僕はこの質問をされるといつも不機嫌になる。陽一は現在中学二年生。といっても、かれこれ一年以上は学校に行ってない。夜遅くまで起きていて、のそりと冷蔵庫を開けては食べ物を探し、自分の部屋に閉じこもっているくせに、みんながいなくなると部屋中を歩き回り、テレビを見たり、漫画を読んだりして暮らしている。まるで家で浮浪者を飼っているみたい。僕は弟の話をされるのが大嫌いなのに緑川は関係なく僕にその話ばかり聞く。僕らが小学生の頃、兄弟のいなかった緑川はよく弟の面倒をみてくれていて、弟も緑川によく懐いていた。本当の兄弟みたいだった。だから、弟が登校拒否になって心配でしょうがないのだろう。緑川の問いかけに答えるのが面倒になって僕は緑川を抜かして、学校へと自転車を漕いだ。緑川が僕を睨んだ気がしたけど、そのまま進んで行った。
僕が教室に入ると同時にチャイムが鳴り、クラスメートがバラバラと席につく。大きな口をあけて僕の方へ沢田が近づいてきた。「よう、今日も緑川とデートかぁ。やるねぇ」「そんなんじゃねぇよ」「またまた」そう言って僕を小突きながら笑う。緑川と僕を冷やかすのが日課のような男で、それを言い終えた後、一回咳払いをして小声で話し始めた。「戻ってきたらしいってよ、あいつ」あいつというのは同じ学年の大阪光のことで、入学してから一ヶ月で他校の学生とトラブルを起こし停学になっていたのだ。僕の通う西南高校は県内で二番目に賢い学校で、しかも喧嘩したらしい相手が有名な不良校だったのでこの噂はすぐに広まった。身長173cm、赤茶色の髪が印象的で鋭い眼をしている大阪はその姿だけでもかなり目立っていた。「でもクラスも違うし、関係ないだろう?」僕の言葉に沢田が大きく首を振った。「俺はね。でもお前今回の試験で、欠点とって理科室の掃除になっただろ?あれで欠点なの学年でお前と大阪だけだぜ。まぁ大阪は休んでいたからなわけだけど。今日の放課後せいぜい殴られないように頑張れよ」そう言って沢田は席についた。そんな話を聞いても、僕は至って冷静だった。なぜなら、大阪がそんな面倒くさいことに参加するはずがないからだ。放課後、早く終わらせて帰ろうと思い、僕は理科室まで走って行った。
理科室に着くと、独特の変な臭いがした。おまけに水槽には見たこともない異様な形の魚が沢山はいっていて、理科室の気味悪さをより一層引き立たせる。人体模型が僕をじっと見据え、骸骨は笑っている。出来るだけ早く帰りたい。そう思い、急いで箒を取りに行こうとした時、僕は心臓が止まりそうになった。キリッとした細い眼に赤茶色の髪の彼が僕を見つめている。僕が呆然と立っていると、彼が僕のすぐ近くにやってきた。不意に眼をつぶる。パンチが飛んでくると思っていたのに、僕の目の前にとんできたのは箒だった。「君も掃除?」彼の優しい声を聞いて拍子抜けした。でも違和感のある話し方だった。大阪は名前の通り大阪出身らしい。無理して東京風の話し方にしようとしていることがよく分かる。僕の顔色が悪かったのか、大阪は心配そうに僕を覗きながら言った。「大丈夫?気分悪いなら、保健室行ってきなよ。掃除代わりにやっとくから」僕は自分の耳を疑った。本当にコイツがあの大阪光なのか?おかしい、もしかして僕をからかっているのかもしれない、油断させておいて何か企んでいるのかも。理科室の気味悪さもまして、本当に気分が悪くなってしまった。でも僕は首を大きく横に振った。「大丈夫。早くやろう」ちょっと顔が引きつってしまった。大阪が不思議そうな顔をして、首をかしげた。
10分程度で掃除は終わった。ほんの少しのことだったのに、僕にとってはそれが永遠に続く時間のように感じられた。大阪は僕の分の箒も直してくれて、保健室に付き添うとまで言ってくれた。何がなんだか分からないまま、僕は彼の提案を丁重に断り、急いで理科室を後にした。大阪は僕に大きく手を振って「また明日」とさわやかな笑顔を見せた。
学校を出ると空が茜色に染まっていた。空に無数の烏が飛び、空の赤を一層引き立たせていた。「烏って嫌いだわ」「家の近くでよくゴミ漁っているわ、それに雀をいじめるし」遠くで誰かの会話が聞こえる。僕も烏は好きじゃない。子供の頃読んだ童話で、烏はいつも意地悪でずるい生き物だったからだ。自転車を漕ぎながら僕は家を目指した。烏の悲しそうな鳴き声がかすかに響いていた。
家のドアを開けると同時に、ドタバタと階段を駆け上る音がした。弟が急いで部屋に戻って行ったのだろう。テレビがつけっぱなしにされ、お菓子の袋が落ちていた。そういえば弟の姿を最後に見たのは一週間以上前だ。弟が学校へ行かなくなったばかりの頃、僕が帰ってくるといつも嬉しそうに僕の方へ走ってきたものだった。そんな弟が可愛くて仕方なかった。最初のほうはそれで良かったのだ。ある日、クラスメートに僕は弟のことでからかわれた。それからだった。僕が弟を疎ましく思うようになったのは。僕に熱心に話しかける弟が嫌いで、仕草が鼻につく。僕の気持ちを察したのか、弟は次第に僕から離れ、今では顔を合わそうとしない。それは僕にとっても好都合であった。今の時代、兄弟で会話がないことぐらいたいしたことではない。そう思っているのに、この状況をどうしても緑川に話すことができない。ベッドに寝転がり、大阪のことを考えた。ぼうっと彼の姿を描き、それがいつの間にか緑川に変わった。ため息がこぼれ、寝返りをうった。その時、ドアの前のポスターの女と眼が合って、僕のことを嘲笑っていることに気付いた。
朝はやはりお湯を沸かす。いつもどおりの朝。自転車に跨って風を切って走り、角を曲がったそこに緑川の姿はなかった。待ち合わせをしている訳でもないのに、少しの間彼女を待っていた。結局緑川は現れず、僕はゆっくりと学校を目指した。
昼休みに大阪を見かけた。図書室で弁当を食べていた。僕の眼は彼の赤い髪から指先まで全てを何度もなぞった。よく見ると至る所に傷跡があり、僕は何となく呆れてしまった。あまり長い時間眺めていたのだろう。彼が僕に気付き、振り向いた。心臓が止まりそうになる。大阪の力強い眼が、大きく見開かれた。僕が眼をそらすより先に大阪の嬉しそうな顔が眼に入った。「久しぶり」やはり不自然な発音に少々戸惑ってしまう。「何しているの?」「借りたい本があって。ついでに弁当食べている」普通に会話ができる。大阪が差し出した本には「受験に役立つ1200の単語」と書かれていた。まさか大阪が受験をするつもりだとは思っていなかった。言葉に詰まる僕をしりめに大阪が「これ分かりやすいよ。読んでみる?」と言い軽快に笑った。そんな彼を見て、もしかしたら悪い奴じゃないかもしれないと、僕は思い始めた。僕の中で大阪に対する警戒心は薄れ、気付けば一緒に帰る約束までしていた。
自転車置き場で大阪は待っていた。二人で僕の家を目指す道の途中で思い切って、疑問をぶつけてみた。「その傷どうしたの?」大阪は眼をまた細めた。腕を触りながら何も言わなかった。しばらく無言で歩いた。僕は自分の言葉に後悔した。きっと怒っているのだろう。気まずくなって下を向いている僕を見て、大阪はまた眼を細めた。「噂知っているだろう?」震えるようなか細い声だった。彼は他校と喧嘩した事を言っているのだろう。僕は一瞬戸惑ったが頷いた。大阪の顔がどんどん曇っていった。話題を変えることは容易に出来た。だが、僕は自分の中の好奇心を止めることが出来ず、全神経を大阪の声に集中させた。大阪は言葉を選びながらゆっくり話し始めた。空は薄いオレンジ色に燃えていた。
大阪は中学二年生の時、東京へ家の事情で引っ越してきた。生まれつき赤茶色の髪のせいで不良グループに眼をつけられ、同級生からも疎外されていた。彼の方言はたちまち笑いのネタにされ、結局中学校で友達は一人も出来なかったそうだ。高校に入ると同時に今の話し方を定着させた。高校の入学式当日、知らない人達や校舎や花、全てのものが新しく、始まろうとする輝かしい未来に彼は胸が躍った。しかし、現実は明るいものではなかった。外見からやはり同級生は彼に近づこうとせず、先輩には生意気だと呼び出され、不良というレッテルを貼られ特別視された。トイレに落ちていた煙草も廊下に捨てられた唾やゴミも全て彼のせい。こうして彼はまた独りになったのだ。
そこまで話して大阪は一度話しをやめた。残念な事に僕の家に着いてしまったのだ。「あがってよ」そう言いながら逆の事を考えていた。絶対に弟を見られたくない。しかし、僕の祈りは届かず大阪は嬉しそうに頷き、ありがとうと言った。太陽と月が空に薄く浮んでいる。ゆっくりとドアを慎重に開ける。さぁいつも通り急いで部屋に帰れよ。絶対姿を見せるなよ。弟に命令するように強く念じる。次の瞬間、僕は眼に入ってきた光景に悲鳴をあげた。弟が階段の下に倒れていた。急いで上ろうとして足を滑らせたようだ。そのまま動かない。頭をフル回転させ、一つの結論に達した。ドアを閉めて大阪の方を向いて「ゴメン、彼女来ていた」と言った。完璧な演技だった。大阪は僕を小突いて笑い、仕方ないなぁなんて言いながら、手を振って去って行った。大阪の姿が完全に消えてからドアを開けた。弟が頭を抑えながら階段をノロノロと上っていくのが見えたかと思うと、不意に弟が振り返った。僕らはしばらくお互いの顔をまじまじと見つめあった。ちょっと成長している。背が高くなっていて顔も幼さが消え、しっかりしている。しかし、姿勢が悪く落ち着きなく僕を見る姿が、とてつもなく情けない。弟が何か言おうとする前に僕が先に「ここは掃除しておくから、部屋に戻れよ」と言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。弟は口をつぐみ、寂しそうな顔で部屋の奥へと消えていった。
次の日の昼休み、沢田達の誘いを断って急いで図書室に行った。ただ純粋に大阪に会いたかった。彼は緑川と同じ安らぎを僕に与えてくれるのだ。予想通り大阪はそこにいた。懸命に例の英語の本を読んでいる。「やぁ」僕が大阪の肩に手を触れると大阪は嬉しそうに笑った。僕に気付いていたようだ。そういえば僕から声をかけるのは初めてだった。大阪の隣で弁当を広げる。他愛のない話を永遠にした。大阪は家族の話をしてくれた。特に妹の話が多かった。家族の話をする大阪は眼を大きく開いては閉じ、本当に幸せそうな顔をする。「そんな自慢の妹なら、会わせてくれよ」冗談交じりに言ったのに、大阪は今日家においでと言った。こうして僕は大阪の家に行く事になったのだ。待ち合わせの約束をして僕らはお互いの教室に入った。
戸を開けると沢田が鉄砲玉のように僕の所へ飛んできた。「噂本当なのか?」興奮しているせいか、早口で聞き取りにくい。クラスメートの視線が僕を突き刺す。「落ち着けよ。噂って何だよ」訳が分からずただ冷や汗が出てきた。心臓がバクバクと音をたてて、今にもはちきれそうだ。「大阪とつるんでいるらしいな」沢田の声が僕の全身を駆け上がる。それだけ?僕は笑いそうになる。沢田の真剣な顔が尚更おかしい。みんなが大阪を誤解している事をすぐに教えてやろう。意気込んで話そうとする僕の前に沢田が一枚の写真を差し出した。写真には一人の少女が写っていた。髪を二つに結い、はにかんでいる。ある一点を除いてはどこにでもいそうな子だ。そう、彼女は顔の右半分に大きな火傷の痕があったのだ。絶句している僕を見て沢田が言った。「驚いただろ?この子、大阪の妹だぜ」その後も沢田は続ける。「兄弟って似るよな、どっちも超きもい。前から大阪は気に食わないやつだったしな」どっとクラス中が笑う。ありえない、最悪だと喚き、哀れそうな顔で例の少女を全ての眼が見つめる。しかし確実に憂いを含んだ声。人という生物は、単調な日常に刺激を加える為にスパイスを作る。それが今回大阪であった。その反面みんな頭の中で思っている。次に笑われるのは自分かも知れないと。そうならないよう自らの意思と関係なく笑い、自分も仲間だとそれぞれがみんなに信号を送るのだ。そして最後に行き着くのはやはり僕と大阪の関係だ。これがレストランでいうところのデザートだ。僕の答えによって最高の味になったり、物足りない最悪のものになったりする。「それで、お前はどう思う?」みんなが興味深そうに僕を見る。喉まででかかっていた言葉を押し込め言った。「親しくないよ。たまたま話しただけ。でも苦手だな。ああいう人」その後も口がベラベラと言い訳を並べた。話しながら僕は昔を思い出した。弟の事を冷やかされて焦る僕を見て、誰かが問うたのだ。弟の事どう思う?あの時僕は言った。弟は関係ない、仲良くもなかったと。僕はあの日と同じ過ちをまた犯している。自分を守る為だった。しかし、それが逆に僕自身を追い詰める事にもなる。僕の答えを聞いて沢田は満足したようだった。チャイムが鳴ったのを聞いて鼻歌を歌いながら席に着いた。クラス中が同じように座っていった。
授業はいつもより10分早く終わった。鞄に教科書を一気に詰め込み、教室を後にする。教科書が一冊落ちてしまったが拾う暇さえない。僕は風になった。いつもの半分の時間で自転車乗り場に着き、自転車に跨る。大阪から逃げようと決め、ペダルに力を入れたその時、僕は腕を強く握られた。それでも前進しようとする僕を更に強い力で引き戻す。「何急いでいるの」緑川だった。安堵のため息がこぼれる。「何でもない。それより一緒に帰ろうぜ」緑川に早く自転車に乗るように促し、そそくさと学校を出た。緑川は何も話さない。ただ、未来を見つめるかのように遠くの景色を眺めている。緑川に聞いてほしい事はいっぱいある。でも、今日の僕を知ると彼女に軽蔑されることも分かっている。自転車のペダルの音だけが静かになっていた。しばらくして緑川が唐突に言った。「家寄っていい?」何気ない話し方だった。一瞬ドキリとする。花の香りが緑川の髪から放たれて彼女の全てを薄紅色に染める。「別にいいけど」口元が自然ににやけている。僕は顔を見られないように緑川を抜かし、ユリの香りを思いっきり吸い込んだ。
家に着いて、戸を開ける前に大声をだした。「やっと家に着いた」昨日みたいに弟が足を滑らせてこけても、立ち上がって部屋へ行く時間を十分とれるように。戸をそろりと開けた。弟の姿はない。ほっとため息をつく。気付けば緑川はキチンと靴を並べて居間に入っていた。長い髪が上下に揺れる姿に眼が釘付けになる。「何か飲む?」「レモンティー」冷蔵庫を覗いてレモンを探す。ゴロゴロした野菜の赤やオレンジに挟まれて黄色いものはあった。振り返ると緑川がいない。トイレにでも行っているのだろう。僕は来客用のティーカップに紅茶を注ぎ、輪切りにしたレモンを入れた。レモンはゆっくりと紅茶の中に沈んでいった。緑川を呼ぼうとした時、二階から足音が聞こえた。二つの異なった足音がこっちへと向かってくる。次の瞬間、弟と緑川が姿を現した。驚いてレモンティーを落としそうになる。弟は相変わらずおどおどしている。僕が戸惑っている隣で、緑川がクラッカーを鳴らして笑顔で言った。「陽ちゃんお誕生日おめでとう」僕はハッとした。カレンダーに陽一の誕生日という6文字が綺麗に書かれていた。僕からレモンティーを奪って、緑川は弟に渡した。緑川が鞄から白いリボンでラッピングされた袋とケーキを取り出し、弟に渡した。弟の満開の笑顔と緑川の優しい微笑み。どちらも僕にむけられたことなんてない。自分が取り残された気がし、急に僕は疎外感を感じる。そんな僕を気遣ってか、弟が僕にケーキを渡す。その気遣いが僕を憤らせた。気付けば大声で叫んでいた。ここは僕の家でお前が出しゃばる場所じゃない、迷惑だ、と緑川に向かって狂ったように言い、弟に向かって、お前は家族の恥だ、一生顔なんて見たくないと怒鳴りつけた。自分がどれだけひどい事を言っているのか分かっていた。でも止める事ができなかった。少し期待して浮かれていた自分が恥ずかしい、緑川に心配される弟も、心配する緑川も許せなかった。緑川は今までにないくらい怒った顔で僕を睨み、弟は今にも泣きそうだった。近くにあった椅子を蹴飛ばし、僕は全速力で外へ飛び出した。早くここから去りたかった。戸をあけて外に出たちょうどその時、僕の玄関前に立っていた大阪にぶつかりそうになった。そのまま通り過ぎようとする僕を大阪が追いかけた。蝉の鳴く声にひかれて僕は一本道を山へ向かって走っていった。緑川と弟がいない場所なら何処でもよかった。後ろから聞こえる大阪の声を聞き流し、一人で永遠に走って行きたかったのに、想像以上に大阪の足が速く、すぐに捕まってしまった。息が切れてお互い何も話せない。数分後、大阪が絞り出すような声で「これ、忘れ物」と僕の目の前に弁当箱を差し出した。図書室で忘れていたようだ。「ああ、ありがとう」喘ぎ声の合間から僕もやっと話し始める。大阪が次に何を言うか分かっていた。頭をフル回転させて言い訳を考えたのに、大阪は弁当箱だけ渡すと帰ろうとした。僕は驚いて大阪を引き止めた。大阪の眼が僕を吸い込むように見つめる。髪と同じ赤茶色の美しい瞳。その眼の吸い込まれるまま、僕は自分の中で何かが音をたてて壊れるのを感じた。僕の心の中で他人と自分を分けていた境界線が無くなっていく。その瞬間、心の中に溜め込んでいた言葉が一気に流れ出した。いつの間にか僕は大阪に全てを話していた。蝉の声が次第に弱まり消えてからも、僕の声は絶えることなく話され続けた。僕が約束を破った理由、緑川や弟に言ったひどい事や緑川に対する気持ち。ありのままの自分をさらけ出した。大阪は僕を批判する事もなく、ただ僕の言葉に耳を傾けていた。僕が話し終えたのを確認して「スッとした?一人で何でも溜め込むなよ」と言って大阪は笑い、立ち上がった。星の光が思ったよりも明るく、僕らを優しく見守ってくれているようだった。しばらくしゃべった後、急に大阪に腕を見せられた。この前あった無数の痣のほとんどが姿を消し、褐色の肌が見えた。僕は何を言ったらいいか分からず、ただ大阪を見つめた。大阪は眼をスッと細くした。最近気付いた事だけど、彼が悲しい時や怒った時、決まって眼を細めるのだ。「前も話したけど、外見のせいで他校でもちょっと有名になっていてさ」大阪は言葉を選びながら話す。今までならただ好奇心で聞いていただけだったのに、大阪の辛そうな顔と話を聞くのが僕自身も辛かった。でも、彼が僕に話す事を望む以上、僕は話を止める事ができなかった。大阪が話を続ける。「町でたまに絡まれる事もあった。でも喧嘩は全然しなかったよ。学校にばれて退学になるなんて、せっかく学校に通わせてくれている親に申し訳ないだろう。でも、一回だけ喧嘩しちゃった。」「妹の事言われたのか?」僕は確信して大阪の話に口を挟んだ。大阪はとても悔しそうな顔をして頷いた。「僕の妹、3歳の時にちょっとした事故で熱湯かぶっちゃって、顔にひどい火傷があるのだけど、その事でからかわれた。お前の妹は化け物だなって。自分の事何て言われたってどうでも良かったけど、妹の事言われた瞬間、頭に血が上ってつい殴っちゃったよ。それから、騒ぎに気付いた警察に捕まって、勿論学校から家へ連絡されて、お母さんが僕を引き取りにきた。その時の悲しそうな顔も何度も頭を下げる姿も忘れられない。自分が初めて嫌いになった。何馬鹿なことやっているのだろうって」月明かりにボウッと浮ぶ大阪の顔はぼやけてよく見えない。「でも後悔してないだろ?」僕は大阪の言葉を遮り、続ける。「大阪は間違ってない。一人で何でも抱え込んでいるのはお前だよ。僕は大阪の事を誇りに思っているよ。だから、、」上手く表現出来なくて言葉が詰まる。心の中で祈る。どうか変わらないでくれ。君はこの世の美しさも汚さも全て知って、それでも僕らの立つこの地が輝いていると言っているのだろう。両手を強く握り締めて思い出す。彼が僕を変えてくれた事、救ってくれた事、光を与えてくれた事。急に全てのものが愛しく思えて僕は大声を出した。大阪は叫ぶ僕を見て、驚いていたがすぐに一緒になって叫びだした。言葉にならない。僕らは生まれた時と同じようにただ叫んでいた。
家に着いたのは深夜2時だった。すぐに陽一に会いたかった。階段を一段上るごとに陽一との思い出が積もっていく。ドアをゆっくり開き、忍び足で部屋へ入った。青白い部屋の隅で陽一は小さな寝息を立てて眠っていた。恐ろしい程白い肌が月の光しか知らない事を僕に告げる。「ごめんな」何度も呟く。どれだけ約束を破り、陽一を傷つけていたかを痛恨する。部屋に貼られた写真は僕と弟のツーショットが数多く飾られていた。まだ小さな弟の手を強く握る幼い僕がそこにいた。写真から視線をそらし、もう一度弟を見た。陽一の隣に腰掛けて頭を撫でると、髪から石鹸のいい香りがしてどこか懐かしかった。撫で終えた僕の手に絡まった弟の髪を取る事も忘れて、僕はずっと弟に見入っていた。
ミーンミーン。蝉の大合唱が聞こえて目を覚ました。いつの間にか弟の部屋で眠っていた。まだ眼を覚ましていない弟に「おはよう」小声で挨拶し、急いで僕は鞄に荷物を詰め込み家を出た。自転車で風をきり一気に飛ばすと、数メートル先に緑川がいた。名前を大声で呼んでも振り返らない。慌てて追いつこうとした。回りに咲いてあった桔梗がヒラリと舞う。すれ違いざまに「昨日はごめん」と言い、緑川を一気に追い抜いた。緑川はどんな顔をしているのかな。振り返りたい気持ちを抑えて学校を目指す。伝えたい事は他にもあったけど言えなかった。向日葵の黄色が鮮やかにアスファルトを染めている。
学校に着いたのはいつもよりかなり早かった。自転車を置きに行く途中で、大阪が校舎の木の下に見えた。誰かと話しているようだ。遠くから見た大阪は派手な外見と共にそれなりに貫禄があり、目を細めて怒っているように見える。何となく嫌な予感がして、木の陰に見え隠れする大阪と誰かの側へ僕は走った。強い風が吹き、木がざわざわ鳴った。木の間から見えたのは沢田と数人のクラスメートだった。「何やっているの」僕は沢田の肩を掴む。僕を見ると沢田は白い歯をむき出しにして「面白い事教えてやるよ。こいつ、中学の時友達一人もいなかったらしいだぜ。俺の従弟が同級生だったから教えてもらった。笑っちゃうよな」と言って嬉しそうに笑う。周りも同じように下品な笑い声をあげる。大阪は能面のような表情で沢田達を見つめているだけだった。僕と眼があっても何も言わない。僕をかばってくれているのだ。ただ、何もしなくていいと僕に無言で訴えている。「もうチャイム鳴るから帰ろう」狂ったように笑う沢田をなだめて、僕は早く教室に帰る事を促した。沢田は何回か頭を揺らし、了解した。沢田を引っ張って何とかこの場を押さえられそう。そう思った瞬間、思い出したように沢田が叫んだ。「そうだ。大阪の妹ってマジキモイよな、写真で見たけど、あんなの動物以下だよな」どうして人は簡単に誰かを傷つけられるのだろう。傷ついた姿に悶え、喜べるのだろう。次の瞬間、沢田の顔面が思いっきり殴りつけられ、彼の体が宙に浮き、地面に叩きつけられた。周りにいたクラスメートはただ呆然と立ち尽くす。騒ぎに気付いて女子生徒や先生が駆け寄ってくる。大阪はただ眼を大きく見開いている。「最低なのはどっちだよ。人の気持ち考えた事あるのかよ」僕は大声で怒鳴った。沢田を殴った拳が少しヒリヒリと痛む。何から言っていいのか分からない。僕は心の中で思いつく言葉を次々と口に出していた。上手くしゃべれてないかもしれない。でも、そんな事どうでも良かった。地面に伏せたままの格好で沢田がうなるように言う。「こんな事をしてどうなるか分かっているのか」僕を睨む沢田を更に強く睨んだ。野次馬がぞろぞろと僕らを興味深げに見下ろしている。「何やっている」先生が急いで走ってくるのが見えた。僕らを楽しそうに見つめる愚人が邪魔でなかなかこっちに来られないようだ。海に行こうかな。僕は戸惑う大阪に向かってピースし、自転車置き場へ走った。大阪の声、沢田の声、先生達の声、全てが僕の耳に入ってくる。僕はそれを全て空へ飛ばして、自転車に跨った。沢山の批判にあうだろう。沢田達に仕返しされるだろう。もう学校に戻れないかもしれない。それもいい。弟と二人で花火をしたり、海で泳いだり、少し早い夏休みを満喫できる。スイカ畑を越えると青々とした綺麗な海が広がっていた。進路も恋も友情も未来だって、今はちっぽけなものに見えてしまう。僕は自転車のペダルに力を込めて、まっすぐ進んで行った。