ある惑星の遊戯
雨を見ていた。
そして窓ガラスで防音されてしまった雨音を、あたしはあたしのリズムで聴いていた。
このジメジメと暑い8月の日の中で、厨房の男たちの威勢の良い声は、ますます暑さを増幅させる。
「すんげぇ美味いラーメン屋があるんだよ!」と言う永島に連れられて、土砂降りの中で1時間以上も待たされて、ようやくあたしの目の前に現れたラーメンは、よりによって翔と一緒に食べたラーメンだった。このラーメンの味は忘れてしまったけれど、このラーメンよりも翔の部屋で一緒に食べるカップラーメンの方が美味しいと思ったことは覚えている。
「美味しくないか?」
という言葉が、何億光年だかの旅を経て、あたしの耳に辿り着いた。
「暑い日に熱いもの食べるの嫌なのよ。汗かくの嫌いだから。ごめんね。せっかく連れてきてくれたのに」
「そっか・・・じゃあ、俺が食べちゃっていい?」
あたしは頷いて、また窓に目をやった。
「冬にまた食べに来ような」
「・・・うん」
雨音のリズムは相変わらずハイテンポだ。
翔が死んでから、永島はあたしをなにかと気遣ってくれる。翔と付き合っていた時から、永島はあたしに好意を寄せてくれていた。だからといって永島のこの気遣いが、決して卑しい気持ちから出てくるものではないということはあたしも理解している。永島が自然にあたしを心配してくれていることはとても嬉しいし、そういう永島を素直に受け入れられない自分が嫌いだ。
東京で珍しく大雪が降った日に翔は死んで、半年が経って、東京は例年のように暑い夏を迎えている。そんな東京に、いつまでも元彼のことを引き摺っている女が1人・・・。
「何で死んだんだろう?って、また考えてるんだろ?」
永島はもうあたしのラーメンを食べ終えて、キャスターを吸い始めていた。
「そして・・・何であたしを殺そうとしたんだろう?・・・こんな感じ?」
翔はあたしを絞め落とした後、自らも首を吊った。
気を取り戻したあたしが翔の死体の第1発見者で、あたしが救急車を呼んだらしいが、あたしはその記憶を失っているし、失ってよかったと心底思っている。
「こんな雨だしさ、あたしの部屋で映画でも見ながらのんびりしない?」
場の雰囲気を変えようと意図した台詞だったが、レンタルショップで永島はよりによって、あたしと翔のお気に入りの映画を選んでしまった。
※
あたしは今年もなんとか猛暑を乗り越え、東京は初冬の気配を感じさせ始め、テレビではお天気お姉さんが「今年の冬は暖冬になりそうですよ」と、去年と同じことを言っていた。
あたしは未だに翔の事を引き摺っていたが、永島の献身のおかげもあって、表向きは翔が在った頃と同じくらい明るく振舞えるようになっていた。
そして、東京で初雪が降った日。翔の母親が自殺未遂を起こした。
翔の葬式の場に、直視し難い程に衰弱しきった翔の母の姿が在ったから、万が一の事を考え、あたしは翔の母とはまめに連絡を取るようにしていた。それだけに今回の事件はとてもショックだった。
「ごめんなさいね・・・心配掛けてしまって・・・」
翔の母の目は、只々病室の天井を見つめるばかりだ。その目が見ているものが翔の面影だということは、あたしにも容易に推測できる。
「わざわざ東京から来てもらって・・・美代が・・・あたしの妹が、そっちに電話でも寄こしたんでしょう?」
翔の母が溜息を漏らす度に、精気も漏れてしまうような気がしてあたしは不安になった。
「東京から離れてのんびりしたいと思ってましたから。帰りに翔のお墓に寄っていきます。」
「・・・ありがとうね」
病室の窓から枯れた木々が見えて、南の島であっても冬は寒いのだ、と言っている様だった。
「何で死んだのか・・・翔に聞きに行こうと思ったのよ」
”笑う死体”とは、どこで聞いた言葉だっただろうか?
「注げるだけの愛は注いだつもりだった・・・あの時の後だって・・・あたしは変わらず翔を愛していたのに・・・」
”あの時”の事に関しては、翔と初めてこの島に来た時に、美代さんから聞いていた。
「驚いたわ、とても。あんなに素直だった翔がどうして?って」
翔は中学3年生の夏、自宅で金属バットを振り回し、母親をも殴り殺そうと襲った。
「もう翔も大人だし、二度とあんなことはしないと思うけど・・・あなたには知っておいてもらった方がいいと思ってね」
それでもあたしは翔を愛し続けると言った。
あたしは病室を出て駐車場に向かった。そこで永島が待っている。
「病院って、近づくのも見るのも嫌なんだよ。建物から、何ていうか・・・負の感情みたいなもんがさ、滲み出てるんだよ」
駐車場に戻ると、永島は車から出てキャスターを吸っていた。
「南の島っていっても、冬はやっぱ寒いわな?」
「翔のお墓に行こうと思うの」
「了解」
永島の口から出た白いものが、キャスターの煙だか吐息だかは分からなかった。
※
市街地を抜け、山道を上って、そして下る。
あたしの目線の先にはいつも海が在ったし、翔のお墓のすぐ傍には海岸がある。
「なぁ、こんな話知ってる?お盆の時に海に入ると、死者に海の底まで引き摺りこまれるってやつ」
永島はその逞しい図体に反して、少女のような心を持っている。それが永島が女子社員に人気がある理由であり、また、人気があるだけで決してモテるわけではない理由でもあるのだと思う。
「誰だろう?」
翔のお墓の前で手を合わせている女が居る。
「こんにちは」
女の祈りが終わったタイミングを見計らってあたしは声をかけた。
「あなたは・・・確か翔の葬式の時に居たよね?」
「恋人です。翔の。・・・”元”になっちゃったけど・・・」
「そうだったの・・・。あたしもこいつの恋人よ。”元”だけどね」
健康な笑みだ。
「あたしは高校生の時に付き合ってたの。・・・そういえば、卒業したら結婚する!とか言ってたっけ」
「どうして別れたんですか?」
と問いかけたのは、あたしじゃなくて永島。
永島の素直さには呆れることもあるけど、あたしは嫌いではない。
「殺そうとしたのよ・・・あたしを」
だろうな。
「必死に抵抗したら、こいつ、笑って言ったのよ。愛している人から殺されるのはどんな気分だ?って」
あたしは翔のお墓に目線を移した。
「かわいそうな奴。って思ったわ・・・」
「カワイソウ?狂ってるの間違いじゃないっすか?」
永島の呆れ顔は可愛い。
「かわいそうな奴なの、こいつは。・・・愛されるのが怖かったのよ。母親の愛情にいつも怯えていたもの。・・・それを知りながら、愛してる!って言いまくっていたあたしも馬鹿。・・・まぁ、ガキだったからね、あん時は」
あたしの目の前には、物言わぬ翔のお墓だけが在る。
※
「自分を殺そうとした奴に、かわいそう、だなんてよく言えるよな?」
参拝を終えたあたしと永島は今、墓地の傍の海岸で佇んでいる。
あたしは波の音に耳を澄ましていた。
「抵抗・・・しなかったらしいな、おまえ」
波の音を裂いたのは、中学生の焼きもちのような声だった。
「死ねたもの、あたしは。・・・あいつらとは違う」
かわいそうだと思った?だったら何故一緒に死んであげなかった?
愛していた?だったら何故一緒に死んであげなかった?
翔は愛されることを怖れていたんじゃない。只、愛されたかっただけだ。・・・波だってそう言ってる。
「死ぬなよ」
「ん?」
永島の目が潤んでいる。
「死ぬな〜〜〜!」
その声は、何億光年も先からではなく、確かにあたしのすぐ隣から届いた。
・・・そう、今あたしと永島は、同じ惑星に生きている。




