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薬子異聞  作者: 一介
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第三話 入内

「薬子よ。」

と夫は言った。

「姫は東宮様の妃になるのだ。」


 夫は何を言っているのだろう。東宮の安殿親王様は今お幾つだ。二十三、四におなりではなかろうか。皇太子妃の帯子様が平安の都に入ることなく身罷られたあと、確かに東宮妃の座は空席だ。だが、斎宮をお降りになった朝原内親王様が帰京されて間もなく入内された。内親王様は先帝の親心を一心に受けておられた第一皇女であられる。この皇女様がいずれ次の皇太子妃になられるだろう。それよりなにより、我が姫はまだ十にも満たない幼君だ。裳着もまだ済ませていないのに入内するなどあり得ない。

「おまちください。あなた様は何を仰っておられるのですか。姫はまだあのように幼いではありませんか。まだお人形遊びを好むような娘ですよ。それなのに宮中に上がって、東宮のお通いがありますか。いくらなんでも早すぎます。」

「まあ待て。これは安殿さま直々のお話なのだ。春姫を是非に、とのことだ。こちらに何の不服があろうものか。東宮妃亡きあとの空席には我が姫が座することになるやもしれん。いや、是が非でもそうするのだ。」

 これまで惣領の穏やかな顔しか見せたことのない夫縄主の目の奥に、野心というものを見たのはこれが初めてのことだった。薬子は父上と最後に会ったあの日の言葉を思い出した。夫も同じというのか。この人は娘を政略結婚の道具として宮中に差し出そうとしている。そしてそれは私の時とは違っていて、既に決まったことなのだという。あの日、母上は父上にかみつくようにして私の入内を止めようとしていた。皇太弟の早良親王様がおられるのに。安殿親王はまだ幼いのに、と。物事には順番というものがあるのだ。それを無理やり変えようとすると、どこかで歪みが生じる。母上にはそれが見えていたのではないだろうか。私も娘を守らなければ。未だあどけなさの残る娘が、狡猾な宮中の女たちに対抗できるはずはない。ましてや他の妃達の中で一歩抜きんでるほどに立ち回ることなど不可能だ。式家という家柄と後ろ盾があり、東宮自ら御所望とはいえ、この娘が形だけの妃とならぬとも限らない。それでは人質だ。愛しい娘にそのような辛い思いはさせたくはない。東宮様からの動かしがたいご命令ではあっても少なくともあと数年は、いや二、三年でもよい。一年でも一日でも長く姫を手元に置いておきたい。薬子は必死で考えた。


「私は反対です。裳着もまだですし。どうしても姫をと親王様がお望みなら、二年か三年先までお待ちいただいて。その間に入内に相応しい調度品も作らせましょう。式家の姫として十分なお仕度をいたします。姫の侍女も揃えなければなりません。侍女にはふさわしい教育が必要です。入内にはそれなりの時間と準備が必要なのです。」

「裳着は早める。入内に合わせるのだ。職人たちは急がせる。侍女たちは良い家柄の娘を私が選ぼう。東宮妃の侍女となれば、どの家の娘もむしろ喜んで志願するだろう。そなたは何の心配もしなくてよい。」

「入内の支度が心配なのではなく、姫が気がかりなのです。このおっとりとしていて世の中の何をも知らない姫を、このまま我が腕から離したくはございません。付き従う侍女たちも私が選びます。選ぶ基準というのは家柄だけではないのですよ。春姫を身を挺してでも守ってくれるような侍女でなければ。私以上に娘を守れるものはおりません。私の目に適う侍女しか置きたくございません。私は母親なのですよ。」

「それなら、そなたが共に宮中に上がればよい。」


「え」


「それほど気がかりというなら、東宮内侍の席をひとつ設けよう。春姫の側にいられて、なおかつ侍女たちに目を光らせることもできる。東宮様が足繫く我が姫の元に通っていただけるように、そなたならうまく取りなすことができよう。それで文句はあるまい。」

 次の句を継ぐことが出来ない薬子を一瞥して、縄主は足早に部屋を出ていった。その背中はまるで遠いあの日の父のそれを見ているようだった。この時の夫は、夫ではなく父親でもなく娘を駒として政界の勢力図を塗り替えようとする一人の政治家だった。


 姫の裳着は盛大に行われた。

 娘の成人をこのような複雑な思いで見ることになろうとは。あの頃、父君が私に望んでいた入内。政略結婚でより高位の方に嫁ぐこと、やんごとなきお方に入内して子を成し、ゆるぎない地位につくことこそが幸せなのだと刷り込まれていた。しかしそれは式家の女に課せられた権力への近道ということだ。我が娘が否応なく政治権力の大波に飲み込まれていくのを見るとき、その何も理解していない幼過ぎる姫の姿が愛しく哀れだった。



回想


東宮妃帯子の喪が明けてから暫く経ったある日、帝は皇太子である安殿を呼んでいた。帝は皇太子に言った。

「父帝、そなたの祖父は式家の後押しがあったからこそ帝位に就くことが出来た。式家一族なかでも百川の力添えがなければ、朕の血脈は萩の葉に置く露の如くはかなく消えていたかもしれぬ。父帝は齢六十を過ぎるまで敵意のない皇子として生きられた。しずかにひっそりと血を繋ぐことのみを使命として。今後父帝の血筋を盤石なものとして繋げていかねばならぬ。東宮妃帯子が世を去ってから既に一年が過ぎた。妃の座がいつまでも空席のままではいけない。そなたも式家から妃を迎えよ。種継が生きておれば、娘を入内させただろう。そうなればこれ以上ない後ろ盾を持った妃の入内となったのだが。」


「種継・・・」


 遠い昔、乳母の目を盗んで父の執務室に飛び込んだ日、扉の向こうにいた男が振り返った。眼光鋭い初老の男は、安殿の姿を確認すると言った。

「おお、これは安殿さま。お父上をお探しでしたかな。」

乳母が恐縮しながら現れた。父君は乳母に私を連れて行くようにと仰せになった。乳母に手を引かれて部屋の扉を出ていこうとする時、その男は目元を緩ませて言った。

「安殿さま、お早く大人におなりくださいませ。そして元服なされたあかつきには、我が娘 薬子をどうぞ妃にお迎えくださいませ。この種継、安殿さまを命をかけてお守りいたしますゆえ。」


 その日以来、その男を宮中で見ることはなかった。


 ある日邸内がざわざわと騒がしくなり、まもなく安殿は立太子の儀式をおこなった。長岡宮の造営中、藤原種継という大臣が死んだのだという。そしてそのことで叔父上が流刑に処されたという侍従たちの話を漏れ聞いた。僧衣姿の叔父上はいつも優しく穏やかだった。あの時父上の執務室にいた男は種継と名乗っていた。叔父上があの眼光鋭かった大臣を殺めたのか。直接手をかけたわけではないにしても、自分の目で見た二人の姿と事件が余りにもかけ離れていて、安殿の内で繋がることはなかった。立太子の三年後安殿親王は元服し、藤原帯子が入内して東宮妃となった。帯子は父帝妃の一人である旅子の妹だった。あの日、種継の話していた薬子という女はどこへ行ったのだろう。

 安殿が元服した翌年、新笠おばあさまが身罷られた。そして続く翌年、最愛の母 乙牟漏がこの世を去った。二人をたて続けに亡くした父君の嘆きは大変なものだった。叔父君の怨霊のしわざという声があちこちで聞こえた。安殿や神野の病は早良親王さまの怨霊だと僧侶が告げたのだ。

 ということは、叔父上は本当は無実だったのではないか。無実を訴えながらも流罪となり、怨霊となった叔父上が祖母と母君を奪ったのではないか。父帝があれほどまでに叔父の御霊を祀るのは、本当は父は叔父上の無罪をわかっていたのではないか。連座は私を皇太子にするのに都合がよかったからなのではないか。

 いくら祈祷させようと陵を整えようと、災いが収まる気配はなかった。とうとう都を惨劇のあった長岡から移すことになったが、遷都の詔のあとも災いが収束する気配すらなかった。そして長岡京は僅か十年でその役目を終えた。そして平安京へ。長安の都に倣ったという巨大な都の誕生である。天武天皇から天智天皇の血筋への還流に相応しい新たな都の創設であった。

がしかし、皇太子妃帯子は平安京に移る長い道の途中で長岡京の仮宮に滞在したものの、そこで病に罹った。そして平安京に踏み入れることなく長岡の地で亡くなってしまった。祖母君、御母君に続き、帯子もこの世を去った。これも叔父上の祟りなのか。いや、長岡で無念の死を遂げたのは種継であったはずだ。叔父上ではない。帝の命により長岡遷都に尽力していながら、はからずも命を奪われた種継。さぞかし無念であっただろう。ここで種継の血に繋がる娘を妻の一人として迎えるのは、式家とのつながりを強めるという意味でも、種継の無念を覆う意味でもよいのではなかろうか。それに、公卿縄主の妻はあの種継の娘であるという。確か薬子といった。あの幼い日、種継が皇太子妃にと望んでいた女ではないか。父上が入内を勧めているのはその女の娘なのだ。


「父上のお心のままに。」


種継の孫娘は、裳着の儀式が執り行われた後、まもなく入内した。






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