珊瑚礁は蛸に慕情を抱く、満たぬ水の泡
その舞台は、夢の箱であり、狂人の牢獄でもある。
内側に立つ者は知っている。
ここは夢を見る場所ではない。
夢を諦めることに、慣れていく場所だ。
宝塚という名のその制度は、
美しく、厳密で、残酷だった。
全員に平等な機会が与えられているように見えて、
実際には、最初から光を集める者が決まっている。
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相川は、その内部に適応した男だった。
声も、身体も、芝居も平均的。
致命的に悪くはない。
だが、誰かの人生を狂わせるほどの力はない。
宝塚では、それを「凡庸」と呼ぶ。
相川は、自分が無能であることを理解していた。
一人では何の形にもなれない。
だが群れれば、舞台の背景になれる。
主役を輝かせるための、無数の存在になれる。
そして、主役になる人間は、必ず現れる。
和田という男が、そうだった。
宝塚には、多くの相川がいる。
皆、かつては夢を見ていた。
だが、舞台に立ち続けるうちに、
自分の限界を知る。
諦めは、敗北ではない。
生き延びるための知恵だ。
相川は、諦めることを覚えた。
挑むことも、逃げることもせず、
淡々と日々をこなす。
相川は思う。
成功する人間とは、
不確定な未来に賭けられる人間だ。
未来という闇に、
暗中模索で飛び込める人間だ。
自分には、それができなかった。
全力で走ることは、恐怖だった。
転んだとき、
その先に何もなかったらどうする。
人生が空白になる瞬間を、
どうしても想像してしまう。
だから相川は、安全な道を選ぶ。
群れに残ることを選ぶ。
それは臆病だが、間違いではない。
少なくとも、ここでは。
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和田は、最初から違っていた。
入団して間もなく、教師の視線が集まり、
上級生の態度が変わった。
誰よりも早く、特別になった。
和田より努力している人間は、無数にいる。
だが、和田より実力を見せられる人間はいなかった。
舞台に立てば、空気が変わる。
一挙手一投足に、意味が宿る。
観客は、和田の不安や恐怖を嗅ぎ取り、
それを「輝き」と呼んだ。
和田は、名を広めていった。
役は大きくなり、
拍手は増え、
期待は重くなった。
その分だけ、孤立も深まった。
突出した才能は、集団を壊す。
嫉妬、畏怖、沈黙。
和田は、誰とも対等でいられなくなった。
ある日、舞台袖で、和田は相川に言った。
「辞めたい」
その声は、あまりにも静かだった。
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幼い頃、母に褒められた。
それが、人生を決めてしまった。
才があっただけ。天賦の才が。
努力が楽しかったわけではない。
稽古が好きだったこともない。
だが、やれば結果が出た。
皆が喜び、期待した。
両親は誇った。
だから続けた。
自分のためではなく、誰かのために。
和田は、賞賛に満ちた日々の中で、
何一つ満たされていなかった。
その全ては脆い泡のように、
胸に残っては消えていった。
褒められるたびに、
失敗を許されなくなる。
完璧であれという視線が、
呪いのようにまとわりつく。
やめた後の生き方が分からない。
才能を失った自分に、
何が残るのか分からない。
和田は、壊れかけていた。
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相川の胸に、感情が溢れた。
それは同情ではなかった。
理解でも、救済でもなかった。
羨望。
嫉妬。
憎悪。
相川は言った。
「お前みたいな奴が、最も憎い」
才能があるくせに、
それを呪いだと言う。
自分が一生手に入れられないものを、
持っているくせに。
「大嫌いだ。お前を、お前という存在を
絶対に超えてやる」
その言葉は、剥き出しの敵意だった。
和田は、初めて息を吐いた。
賞賛でも、羨望でもない。
生身の感情が、そこにあった。
上面の感情ではない。
濁って、重く、確かな感情。
その憎しみだけが、
和田を人間として満たした。
和田は認められたと思った。
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夢の箱の中で、
二人は初めて、
同じ現実に立っていた。
相川は、その日を境に変わった。
それまでの相川は、満ち足りた人間だった。
正確には、満ち足りているふりができる人間だった。
大きな夢を持たない代わりに、
大きな絶望も抱かない。
光らない代わりに、焼け落ちることもない。
安全で、穏やかで、透明な人生。
宝塚という舞台装置において、
それは最適解だった。
だが、和田の言葉を聞いた瞬間、
相川の中で何かが音を立てて崩れた。
才能を持つ者が、
その才能に怯え、
逃げ場を失い、
なお舞台に立ち続けている。
その姿が、
相川の中の均衡を壊した。
相川は気づいてしまったのだ。
自分は、
諦めたのではない。
逃げ続けていただけだと。
未来に賭けられないのではない。
賭けて負ける自分を、
見る勇気がなかっただけだ。
その瞬間、
相川は満ち足りた人間であることを、
自ら捨てた。
和田に狂う、と決めた。
それは情ではない。
尊敬でもない。
救済でもない。
ただ一つの、
生きるための選択だった。
和田を超える。
和田を壊す。
和田の舞台を奪う。
そうでなければ、
自分は一生、
背景のまま朽ちる。
相川の中に、
遅れてきた狂気が芽吹いた。
一方で、和田は気づき始めていた。
相川だけではない。
舞台の内外から、
無数の憎しみと嫌悪が、
自分に向けられていることを。
期待の裏にある失望。
羨望の裏にある呪詛。
「失敗するな」という無言の命令。
それらすべてが、
和田の神経を削った。
和田は恐怖した。
自分が壊れることではない。
壊れた自分を、皆が望んでいることに。
だが、恐怖は逃げ場を持たなかった。
和田は、その感情を拒めなかった。
拒めば、舞台に立てなくなる。
拒めば、自分が空になる。
だから和田は、
自分への憎しみと嫌悪と恐怖を、
薪のようにくべた。
舞台の上で、
狂うために。
相川の視線。
観客の期待。
世界の悪意。
それらすべてが燃料になった。
和田は踊り、
叫び、
壊れかけながら、
さらに高く跳んだ。
相川は、それを見ていた。
自分の狂気が、
和田の狂気を加速させていることを、
はっきりと理解していた。
それでも、
引き返さなかった。
満ち足りた人間として生きるより、
狂人として舞台に立つほうが、
まだ生きているとはっきり感じられたからだ。
夢の箱は、
完全に牢獄になった。
だが同時に、
二人にとっては、
唯一自由に狂える場所にもなっていた。
背景は、
ついに自ら動き、
光を追い詰めた。
光は、
追い詰められることで、
さらに輝いた。
泡は、
もう必要なかった。
憎しみと恐怖だけが、
舞台を照らしていた。




