008.そろそろのさようなら
その夜の舞踏会も、先日のイグナティオスの言いつけ通りフィロメナは壁の花となっていた。相変わらず、イグナティオスはフィロメナを迎えに来なかったが、その方がいくらか気が楽だ。
今日はどうやら王太子殿下が舞踏会に参加するらしい、という噂がそこかしこから聞こえている。王太子殿下のお近づきになりたいであろう貴族たちが期待でさんざめいていたが、フィロメナは自分には関係のないことだと思いながら、給仕に渡してもらったシャルドネのジュースを口に含む。その芳醇な香りと味を堪能しているフィロメナの元に、数人の足音が近付いてきた。
「こんばんは。昼間以来だね」
「アスヴァル様」
ぱっとフィロメナの顔が綻ぶ。
「友人とその奥方を紹介させてくれるかな」
「まあ、ぜひ喜んで」
と言いながらも、フィロメナは緊張した。いくらアスヴァルの友人とはいえ、辺境伯とその奥方だ。無礼のないようにしなければならない、と身が引き締まる思いだ。
「フィロメナ、こちらはヴェルスル・ヴォルーク。豪快な大男だが、気さくで気安い」
「初めまして、ヴェルスルだ。こちらは妻のカテリーナ。夫婦ともどもよろしく」
「カテリーナと申します」
「ヴェルスル様、カテリーナ様。お会いできて光栄です」
フィロメナの手を大きく肉厚な手が包み込み、しっかりと握手をした。そのあと、入れ替わりでほっそりとした可憐な両手がフィロメナの手を優しく包み込む。
「私、アスヴァル様からお話を伺って、ぜひフィロメナ様と色々なお話をしてみたいと思っていたんです」
「そう言っていただけて嬉しいです。ぜひ、たくさんお話していただけると光栄です」
優しげかつ上品な声で、ゆっくりとカテリーナは言った。おそらく、そこかしこで会話や雑音がしているので、フィロメナが聞き取りやすいよう配慮してくれているのだろう。
「こちらはクローハイト・アビジアーナ。普段はふざけてばかりいるが頼りになる男だ」
「褒められちゃった。初めまして、俺はクローハイト。よろしくね。こちらはリズベット、俺の可愛い奥さんです」
「褒められちゃった。初めまして、リズベットです。フィロメナ様とは年齢が近いみたいなので、仲良くしてくださると嬉しいな」
「クローハイト様、リズベット様。お目にかかれて幸甚です。リズベット様、ぜひ色々なお話をしてください」
男性の手の割には、少し小さめの両手が軽くフィロメナの手を握ってぶんぶんと大きく握手をする。そして、更に小さな柔らかい手がフィロメナの手をぎゅっと握って、リズベットは「うふふ」と笑った。
「私、実はお菓子を作るのが得意なんです。よかったら今度、私の作ったお菓子で、カテリーナと、私と、フィロメナ様の三人でお茶しましょう」
それを聞いて、カテリーナも「まあ、嬉しいわ」と言った。
思わぬお誘いに、フィロメナも「私まで、よろしいのですか?」と驚いて問うたが、リズベットはまた鈴が鳴るような声で小さく笑い声をあげた。
「もちろん。楽しみにしていますね」
リズベットは人懐っこく、明るい声で快活にそう言った。
カテリーナもリズベットも両者正反対のタイプだが、二人はフィロメナに充分な配慮をもって接してくれていることがひしひしと伝わる。フィロメナはこんな人たちと引き合わせてくれたアスヴァルに、改めて感謝の念が沸いてくるのだった。
「バルジミール様」
そのとき、緊張の色を孕んだ聞き慣れた声がした。
「イグナティオス様……」
フィロメナは思わずその声の主の名前を呼ぶ。ヴェルスルとクローハイトが、あ、とか、え、とかいう声にならない声を出したのが聞こえてきた。アスヴァルは何も言わない。フィロメナは、一瞬またイグナティオスに叱られるのかと身構えたが、イグナティオスはフィロメナのことなんて見えていないかのように無視をして、アスヴァルの近くに歩み寄る。
「バルジミール様、わたしはそこのフィロメナ・ベッサリオンの婚約者のイグナティオス・オンティベロスです。こちらは、ディディエ伯爵家のご令嬢のルイーズ様です。ルイーズ様はフィロメナとも親しくしていただいておりまして」
「へえ?」
真実を知るクローハイトが即座に間の抜けた声を出したので、ヴェルスルが慌てて黙らせるようにその脇腹を小突いた。しかし、ヴェルスルの小突きはクローハイトにとっては小突き程度ではなかったようで、衝撃で相当よろめいたのをリズベットが慌てて支えていた。
「そちらのお二方はヴォルーク辺境伯と、アビジアーナ辺境伯、そして奥様方とお見受けいたしました。どうか皆様にご挨拶をさせていただけませんでしょうか?」
「ええ……」
また、嘘をつけないクローハイトが気のない声を出したが、ヴェルスルも今度はそれを咎める様子もなく「え?俺も?」と呆けた声を出した。二人の奥方は夫たちがそのような態度を取るものだから、顔を見合わせて困ったような顔をしていた。
アスヴァルは深く息を吐いてから、とびきりの冷たい声で言い放った。
「盲いた婚約者なら、あなたが丁重にエスコートすべきだろう」
以前と同じことを言われて、イグナティオスは見るからに固まった。イグナティオスは、以前アスヴァルが彼を無視した理由が自分自身にあるとは思い至らなかったようである。そんなところも軽蔑すべきところであったので、アスヴァルはそんなイグナティオスに追い打ちをかける。
「目上の人間からの忠告も忘れたような男が、よくも挨拶をしたいだなんて図々しいことを言えたものだな」
「アスヴァル様、わたくしはルイーズ・ディディエと申します。イグナティオス様の非礼をわたくしからお詫び申し上げますわ」
青くなって固まっているイグナティオスを押しのけて、ルイーズはとびきりの可愛らしい声でアスヴァルに詫びた。アスヴァルの目つきは依然として冷ややかなままだったが、ルイーズも負けじとその大きな瞳でアスヴァルを見つめたままでいた。
「ディディエ嬢、わたしはあなたに名前を呼ぶ許可を出した覚えはないんですがね」
ルイーズは一瞬、不機嫌そうに眉根を寄せたが、すぐさま発色の良いローズピンクの口紅で彩られた唇に笑みを浮かべて「たいへん失礼いたしました。乙女たちの間でバルジミール様のうわさをしていたときの癖が出てしまいましたの」と謝罪するものの、その目は笑っていない。アスヴァルは、イグナティオスよりは幾分ルイーズの気概のほうがましだな、と冷ややかに思った。
「さあ、イグナティオス様」
硬直したままのイグナティオスの背に優しく手を添えて、ルイーズはアスヴァルに要望するように暗に促す。イグナティオスの視線は不安げにさまよっていたが、ようやく覚悟を決めたのか、深々とお辞儀をする。
「せっかくのご忠告を無下にしてしまった無礼をお許しください、バルジミール様。また、わたしの婚約者であるフィロメナへのご厚情にお礼申し上げます。どうか、皆様にご挨拶させていただくことを許してはいただけませんでしょうか?」
しかし、イグナティオスに何か答える前にアスヴァルは何かに気付き、さっとその場に跪いた。ヴェルスル、クローハイトも同じくその場に跪き、二人の奥方も膝を折って深く頭を下げる。
「ああ、いいから」
不思議に思ったイグナティオスとルイーズが声のした方を振り向くと、そこには精悍な衛士二人を連れたヴィレウス王子が片手を上げてアスヴァルたちに頭を上げる許しを出していた。イグナティオスとルイーズは驚いて、「王太子殿下には、ご機嫌麗しく……」となんとか震えた声を絞り出し、その場に跪く。ヴィレウス王子が目の前にいると知ったフィロメナも慌てて膝を折り、深々と頭を下げてヴィレウス王子と──ヴォワティール王家に忠誠を示した。ヴィレウス王子の存在に気付いた周囲の来賓も息を呑み、水を打ったように静まり返っている。
「きみたちも、いいから。大丈夫」
そう言われても、フィロメナは顔を上げることが出来ず、じっとお辞儀をしたままであった。
「アスヴァル、そのお嬢さんがベッサリオン家のフィロメナかな」
「さようでございます」
「うんうん。ベッサリオン子爵はたいへん誠実で国王陛下の信頼も厚い。よく仕えてくれているよ、ありがとう」
「もったいないお言葉にございます、殿下」
ヴィレウス王子から直々にお褒めの言葉を賜ったフィロメナは、身に余る光栄に涙が出そうだった。特に、父の人柄や仕事ぶりを認めていただいているだなんて、ベッサリオン家にとってこの上ない誉れである。
「フィロメナ、きみは婚約しているんだって?」
「はい、殿下」
ヴィレウス王子がちらりとアスヴァルの方を見ると、アスヴァルはすぐに「そちらのオンティベロス家の嫡男イグナティオスが婚約者です」と答える。以心伝心のアスヴァルの様子に満足しつつも、イグナティオスとルイーズが寄り添っているのを見て不思議そうな表情を浮かべる。
「それで、フィロメナの婚約者はどうして別のお嬢さんと?」
「殿下、わたくしはディディエ伯爵家の娘、ルイーズと申します」
すかさずルイーズは深々と頭を下げ、ヴィレウス王子の前に傅いた。その様子を見て、ああ、とヴィレウス王子も思い出したように手を打つ。
「ディディエの。うちの弟が世話になっているようだね」
「とんでもございませんわ、殿下。王家に忠誠を誓うのはその慈悲と庇護を受けている国民として至極当然のことでございます」
「で、どうしてそのルイーズとフィロメナの婚約者のイグナティオスが一緒にいるのかな」
「会場でばったりお会いしましたの」
ルイーズは動揺する様子もなく、にっこりと笑いながらそう言った。
その途端、今まで神妙な顔をしていたクローハイトがとうとう耐えきれなくなったのか、ぶっ、と噴き出す。アスヴァルが片眉を上げてじろりとクローハイトを見たので、クローハイトは慌てて片手で口を抑える。
「おや、情報通のクローハイトは何かお見通しのようだね」
ヴィレウス王子はいたずらっぽい表情を浮かべながら、「何を知っているんだ?ん?」とクローハイトの肩に腕を回して、囁いた。クローハイトはもう片方の手でも口を抑え、完全に言わざるの姿になりながらも目だけが何か言いたげにきょろりとヴィレウス王子を見ていた。
「うんうん、そうか。きっと二人は男女の仲なんだな」
ヴィレウス王子がそう言うと、ヴェルスルも同じようにぶっと噴き出したので、クローハイトはもう耐えられないと言った表情をしたかと思うと、とうとう声を出して笑ってしまった。アスヴァルは静かにその様子を見ている。
しかし、成り行きを聞き入っていたフィロメナは思わず息を呑んだ。
男女の仲。
正直、その可能性を疑わなかったわけではない。
けれど、その度にイグナティオスと今まで過ごしてきた日々を思い返し──それだけはないと信じていた。信じていたかった。
薄々感づいてはいたもののやはりその事実は受け入れがたく、ショックでよろめいたフィロメナをカテリーナとリズベットが急いで支えた。お礼を言おうとするも、フィロメナはうまく呼吸が出来なくなって、はあはあと荒く息を吸うだけだ。しかし、それでもうまく空気を肺腑に取り入れられず、フィロメナは軽くパニックになる。
そんなフィロメナを、カテリーナとリズベットが力強く支えながら「大丈夫。息を深く吸って。落ち着いて、大丈夫だから」と優しく言った。
カツカツとブーツの足音がこちらに近づいてきて、ヴィレウス王子は凛とした声で言った。
「さて、フィロメナ。どうやらここから先はきみにとって辛いことを聞かねばならないし、辛い決断を下さないといけないかもしれない。もちろん、フィロメナがそうしたいならすべて不問にして、水に流すこともできるよ。どうしたい?」
フィロメナは、足の先から熱がなくなっていくような感覚に思わず崩れ落ちそうになったが、カテリーナとリズベットが支えてくれているため、かろうじてその場に立っていた。
さっきから、イグナティオスとルイーズは何も言わない。アスヴァルも何も言わない。みんなの表情も見えないので、これが本当に今まさに起こっている現実のことなのか、にわかには信じがたい気もした。
しかし、もし本当に二人が自分を裏切っていたのであれば、フィロメナはそれを確かめる必要があると感じた。
「フィロメナ」
アスヴァルが静かに、しかしどこか促すように、そして励ますように──フィロメナの名前を呼んだことで、フィロメナはようやく心が決まった。
カテリーナとリズベットに礼を言い、貴族の娘として恥ずかしくないよう、姿勢を正してその場に立つ。
「ヴィレウス殿下、お見苦しいところをお見せいたしまして申し訳ございません。わたくしは、真実を知りとう存じます」
「そうか、えらいね、フィロメナ。じゃあクローハイト、よろしくね」
「はあい」
クローハイトはいつの間にか周囲に集まって成り行きを見守っていた黒山の人だかりの貴族たちをかき分けて、近くの壁に掛けられていた大きな姿見にいつも通り魔術を施そうとした。
しかし、そのとき、イグナティオスが突然クローハイトに飛びかかろうとしたので、反射的にヴェルスルがそれを取り押さえる。突然の大捕物に驚いた人々の悲鳴に交じって、ヴェルスルの逞しさに黄色い悲鳴を上げる婦人たちも少なからずいた。
「びっくりした~!なに!?怖い!ヴェルスル、ありがとうすぎるよ」
「どういたしまして」
驚きのあまり姿見に縋り付きながら、クローハイトが悲痛な声を出す。暴れるイグナティオスを抑えつけながらもヴェルスルはそれに応じた。逞しいヴェルスルの体躯で床に抑えつけられ、中肉中背のイグナティオスは成す術もない。
「離せ!ぼくは……!」
「ひええ、恐ろしい。さっさとみんなに見てもらおうね」
クローハイトはそう言うと、姿見にさっさと魔術を施した。
すると、その姿見は一瞬紗がかかったようになってから、水滴が落ちたように鏡面が波打った。それから、次第にぼんやりと人影が浮かびだし、ぼそぼそと話声も聞こえてくる。アスヴァルとヴェルスル、それにクローハイトの三人はこれを見るのは二回目だったが、他の人々は息をのんで姿見を食い入るように見つめていた。
『……もう限界なんだ、ルイーズ。あれから婚約破棄を持ち出されるのを待っている余裕なんてぼくにはない。今すぐにでも婚約破棄を申し出たいくらいだよ……』
イグナティオスの声が姿見から聞こえてくると、周囲の人々は驚いたように口々にひそひそと話し始める。イグナティオスは絶望に満ちた瞳で辺境伯の三人と、ヴィレウス王子と──そしてフィロメナを見た。
『でも、立場が悪くなるんじゃなかったの?』
『第二王子の側近になれたら、推挙してくれたディディエ伯爵の恩義に報いるため娘のルイーズと婚姻することになった、とでもでっちあげたらいい。もう、周囲がぼくをさげすむ視線に耐えられないんだ……』
寸分の違いもなく、夕べの会話が繰り返される。ルイーズも、顔を引きつらせて後ずさりをしていた。
『第二王子は選り好みが激しいみたいだから、側近選びが難航しているそうよ。そういえば、アスヴァル様は王太子殿下と懇意にしてらっしゃったわよね?』
『あの子、目が見えないくせに必死でアスヴァル様に取り入っているようだから、この際あの子を利用してアスヴァル様からも推挙してもらったらどうかしら?』
『……だめだよ。バルジミールはぼくなんか相手にしていない。フィロメナがいくら憐れぶってバルジミールにすり寄っていたって、バルジミールが聞き入れてくれるはずがない……』
『あら、あなたの野心はそんなものだったの?がっかりだわ』
『そんな……きみまでそんな風に言うのか?』
『悔しいなら、明日の舞踏会でアスヴァル様にお願いするくらい、やってみたらいいじゃない。私はね、あなたが優しい顔をして内心ぎらぎらした野心に満ちていたから、いいなと思ったの。そうじゃなかったら婚約者がいるような男に手を出したりしないわよ、そこまで私はおばかさんじゃないわ。私だって、あなたにすべてを賭けているんだから、しっかりして。アスヴァル様はともかく、王太子殿下は気さくなお方らしいから少しでもお耳に入ったら、良くしてくださるかもよ……』
そんな二人の会話が白日の下にさらされ、それを見た人々は興奮を隠せない様子でそこかしこでひそひそと言葉を紡ぐ。
イグナティオスはもはや暴れることをやめ、観念したようにおとなしくなっていた。
ルイーズも、その薔薇色の頬は今や色を失って呆然と姿見を見つめている。
フィロメナは深い悲しみにどこか現実感が失われつつも、口を真一文字に引き結び、じっとそれを聞いていた。
『それにしても、今日のあの子は傑作だったわ。やっぱり、ダンスはお相手を選ぶのかしら?アスヴァル様とダンスなさっているときよりもずいぶん不格好でしたねって言ってやったら、ひどく傷ついた顔をしていて面白かったの』
『本当にひどい子だね、きみは』
『あら、あなただって。ねえ、そろそろ寝室に戻る?』
『……そうだね。今日は無性にいらいらするから……』
『じゃあ、ゆっくり楽しみましょう。まだ夜は長いんだし。明日はきっとアスヴァル様にお願いに上がるのよ……』
「まだ聞く?なんか雰囲気が怪しくなってきたからそろそろ切ってもいい?」
クローハイトが恐る恐るヴィレウス王子の方を見やると、ヴィレウス王子はやれやれと肩をすくめた。
「ご婦人方も多いから、このくらいにしておこうか。ありがとう、クローハイト」
「いえ、またご用命があれば何なりとおっしゃってください、我が君」
クローハイトが恭しく礼をしたのを満足げに見てから、さて、とヴィレウス王子は抑えつけられたまま項垂れているイグナティオスに目をやった。
「ベッサリオン家の令嬢と婚約中の身でありながら、不貞行為を働いたことについて何か弁解はあるかな、イグナティオス」
「……」
イグナティオスは何も答えない。ヴィレウス王子はその無礼な態度にも構うことなく、次はルイーズに向き直った。
「ルイーズはどうかな。婚約者のある身の男性と関係を持ったとなれば、立派な不貞行為だよ」
さしものルイーズも、これだけの決定的な証拠をつきつけられては言い訳もできず、大勢の衆目の前で不貞行為を暴かれた恥辱に顔を赤らめて黙り込んでいるほかなかったが、振り絞るように「……ありませんわ」と呟いた。
「さて、当人たちが過ちを認めているのなら、もう一人の当事者にも話を聞かないといけないね。フィロメナ、きみが望むのであれば、国王陛下にベッサリオン家とオンティベロス家の婚約破棄を上申することもできる。どうしたい?」
「私は……」
──私は。
フィロメナは、こんなに酷いことをされていたことを知っても、優しかった頃のイグナティオスや、一緒に過ごした日々のことを思い出してしまう自分が嫌になった。すぐに嫌いになれれば楽なのに、こんなときにだって大切な思い出がフィロメナを引き留める。
「両家の婚約破棄をさせてください、殿下……!」
フィロメナが答えるよりも先に、イグナティオスが、叫ぶように言った。
「おや、イグナティオスには聞いてないよ」
「恐れながら殿下、わたしの話をさせてください」
息も絶え絶えにイグナティオスが懇願する。
ヴィレウス王子は少し考えたあと、「じゃあ、いいよ。ヴェルスルもちょっとだけ緩めてあげて。彼、死にそうになってるから」と明るく言った。それを聞いて、ヴェルスルは床に抑えつけていたイグナティオスを解放し、床に座らせると自分もその傍に膝をつき、後ろ手にイグナティオスの手を拘束する体制に変更した。息が吸いやすくなったのか、イグナティオスは少しほっとした表情をしながら、深々と頭を下げる。
「ヴィレウス王太子殿下には寛大なるご温情をいただき……」
「そういうのいいから、早く」
言葉を遮られ、一瞬面くらったイグナティオスだがすぐに気を取り直し、ぽつりぽつりと話し始めた。
「フィロメナとわたしは、生まれてすぐの頃からわたしの父の申し出により婚約関係を結びました。由緒正しいベッサリオン家の姻族になれることを、父はたいへん喜んでいました」
「これ、長くなるやつ?」とクローハイトが隣にいるリズベットにひそひそと耳打ちする。リズベットは「こらっ」と小さくクローハイトを小突いたので、クローハイトはいたずらっぽくぺろっと舌を出した。
「父はわたしを王立フロラシオン高等学術院に入学させたかったようですが、お恥ずかしながら当家にはその高額な授業料を支払える財力がありませんでした。だからといって、成り上がりで貧しいオンティベロス家に呼べる家庭教師の程度などたかが知れています。フィロメナは盲目のため学校へ通うことはありませんでしたが、将来のために一流の家庭教師をつけてもらうこととなりました。わたしはベッサリオン家でフィロメナと一緒に授業を受けることを許されましたが、わたしはその学習進度についていくことができなかった……。フィロメナから再度、講義をしてもらうたびに、わたしは情けない気持ちになりました」
イグナティオスの声が次第に弱々しくなっていく。
「フィロメナは優しい。でも、その優しさがわたしをみじめにさせました。また、重荷にもなりました。だから、ベッサリオン家より爵位の高いディディエ家のルイーズと出会ったとき、手離しで喜びました。ルイーズの華やかさは私に大いなる夢を見させてくれました。でもフィロメナの存在はわたしをいつも現実に引き戻させる。フィロメナと一緒にいると、苦しいのです。つらいのです。どうか、この婚約を破棄させてください……」
完全に項垂れたまま、消え入るような声でイグナティオスは振り絞った。
フィロメナは自分の存在がイグナティオスを苦しめていたことを知り、胸が締め付けられる思いであった。いつから気持ちが通じなくなっていたのか──気持ちがすれ違っていることに、フィロメナは薄々気付いていたのに、不都合な現実に蓋をして気付かないふりをし続けた代償なのだと悟った。もっと言葉を尽くして、話し合えば違う結末もあったかもしれないのに、と思ったが、今となっては詮無いことだ。
「勝手な理由だね。どうする?フィロメナ」
ヴィレウス王子は大きなため息をついて、軽蔑の眼差しで項垂れたままのイグナティオスを見た。ヴィレウス王子にとって、野心に身を滅ぼされたイグナティオスの存在はあまりにも矮小で憐れなものに思えたが、だからと言って同情も出来ない。
「……婚約破棄に、異存はありません……」
フィロメナはイグナティオスの気持ちを思うと、そう言わざるを得なかった。もちろん、すでに破綻した二人がまた元通りの関係に戻ることはもはや出来ないのだから、どちらにせよそうなることは明白であったが。
「さて。イグナティオス・オンティベロスとルイーズ・ディディエは一年間の謹慎処分およびフィロメナ・ベッサリオンへの慰謝料の支払いを命じる。慰謝料の額は協議により定めるように」
ルイーズは真っ青な顔をしたまま、それでもヴィレウス王子に膝を折って精一杯のお辞儀をしたあと、好奇の眼差しを向ける人混みをかきわけて、背筋をしゃんと伸ばしたまま会場をあとにした。
ヴェルスルはがっくりと肩を落としているイグナティオスを立たせ、衛士に引き渡す。
「それくらいで済んでよかったな」
何の気なしに言ったヴェルスルの言葉に、イグナティオスは勢いよく振り向き、怒りで目を剥いて吠えた。
「それくらい!?ああ、そうだろうね!あんたたちみたいに元から恵まれている人間にとっては、それくらいなんだろうね!おれのように、家柄も能力も劣っている人間はたった一年の謹慎でももう人生終わりだ。野心を抱くのは悪いことなのか!?おれのような人間は夢も見ちゃいけないのか!」
衛士に拘束されつつも、ぼろぼろと涙を流しながらイグナティオスは叫んだ。ヴェルスルとクローハイト、それに他の来賓たちは少々面食らった様子で、イグナティオスの怒りを見ていた。
「野心を抱くことも、夢を見ることも悪いことではない。が、婚約者をないがしろにして、適切に婚約という名の契約を履行しなかったのがそもそもの間違いだ。不満があったからと言って、彼女を傷つけていい道理もない」
アスヴァルは冷静にイグナティオスにそう言った。しかし、イグナティオスは更に悲痛な声を張り上げる。
「あなたみたいに、見てくれもよくて能力のある人間はそうやって下の人間をいつだって見下すんだ!この苦しみが、辛さが、歯がゆさがあなたにはわからないでしょうね!フィロメナだってそうだ、おれの痛みなんて、悩みなんて一生わからないんだ」
「ああ、わからない。だが、同じようにフィロメナの懊悩も血のにじむような努力も、おまえは知らない」
アスヴァルは冷たく言い放った。
それきり、イグナティオスは静かに涙を流すだけで何も言わなくなった。
じっとそれを聞いていたフィロメナだったが、小さく「一言だけ、よろしいでしょうか……」とヴィレウス王子に声をかけた。元々色白の肌を更に青ざめさせていたフィロメナだったが、ヴィレウス王子が許可すると一番近くにいたカテリーナに介助を頼み、イグナティオスの元へしっかりとした足取りで歩いた。
目の前にフィロメナが来ても、イグナティオスは顔を上げずに項垂れたままだ。フィロメナは、そんなイグナティオスの前で膝をつき、イグナティオスに静かに語りかける。
「いつも、イグナティオス様の優しさに甘えていてごめんなさい。私のふるまいが、イグナティオス様を深く傷つけていたことに気付けなくて、ごめんなさい……。私に必要だったのは、貞淑な女としてイグナティオス様の後ろをついて歩くことじゃなく、イグナティオス様の隣で一緒に未来に向かって歩き出す勇気だったのですね」
フィロメナのふんわりとしたドレスの生地に、ぽたぽたと涙が落ちる。
「今まで守ってくださって……本当にありがとうございました。どうかお元気で」
それは、フィロメナからイグナティオスへの優しい別離の言葉だった。
イグナティオスは思わず顔を上げ、何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに再び頭を項垂れさせた。
フィロメナはカテリーナとリズベットに付き添われ、イグナティオスを振り返らず正面扉から出て行った。それを見届けたヴィレウス王子も衛士に指示して、項垂れたままのイグナティオスを別室に移動させた。
そうして、ようやくこの騒動は終わりを迎えたのであった。